高津城・段山稲荷砦・段山城・段山別城・将監城・本福寺谷城・高岳城・積場城 他
福知山市 (五万図=福知山・綾部)
高津町:積場城〜鴻ヶ嶽城〜野山砦・茶薄山城〜慈音寺 〜諏訪城 2010.03.19
近畿の山城 段山城 段山稲荷砦と段山別城 将監城 本福寺谷城 遠所城
  高岳城 野山城/ 茶薄山城/ 積場城(古路谷城:仮称)/ 諏訪城(愛宕山城)
将監城の畦状竪堀群

高津城・鴻ヶ嶽城の支城群について・・!!
高津城(八幡山城)と鴻ヶ嶽城(甲ヶ岳城・綾部三大山城の一)は何鹿郡(綾部市)の国人:大槻氏の本拠城だったと思える程の規模の大きな二つの山城です。若狭守護:武田元信が丹後守護:一色義有を攻める為永正3年(1506)管領:細川政元に救援を乞い、澄之・澄元を引き連れて若狭から丹後に出陣した際、丹波守護代内藤氏方 ・大槻氏の高津に迎えて、政元は上高津の隠竜寺・澄元を下高津の観音寺に宿陣したと云う。
将監城:北東尾根側の畦状竪堀群

その為・観音寺〜高津城の諸城には最大限の防備補強・改修が成されたことでしょう。福知山市側の観音寺城(将監城)や市境の綾部市側に在る段上山城・将監城の縄張りには、此の時期・大槻氏の城を大改修した か再構築か?、さらに元々大槻氏の城ではあっても市遺跡地図には未報告の城砦遺構が高津城〜高岳城間に幾つか残る。天正始め頃まで 大槻氏が居城した高津城、鴻ヶ嶽城は丹波守護代:内藤宗勝(八木城主)が天田郡・何鹿郡への侵攻拠点として 築いた城。
段山城:二ノ丸東北下方の井戸跡?

しかし翌:永禄8年(1565)和久郷の合戦には、氷上郡(丹波市)の赤井(荻野)直正(黒井城主)の反撃に遭い 内藤勢は壊滅的な大敗により、此の際に討死したともされます。 また天正3年明智光秀が八木城主内藤有勝を攻め落とし、 一門の内藤正勝が再起を期して鴻ヶ嶽城に逃れるが、遂に此処で自害したと伝えられます(…が「内藤盛衰記」に云う内藤有勝・正勝の人物像は定かでなく、後:キリシタン大名として知られ、将軍足利義昭に付いていた内藤ジョアン (忠俊)が落城時の八木城に居たかも消息は不明です)。
高嶽:不動谷の不動滝

野山城(野山砦)や茶薄山城は鴻ヶ嶽城の東尾根先付近にあって、天正初期に大槻氏・内藤氏の拠っていた鴻ヶ嶽城の出曲輪・砦だったか?。綾部市南西部の玄関口の警護と見張に就いたと思える諏訪城(愛宕山城)は、 延徳元年(1489)荻野氏等が丹波守護代上原氏に反旗を翻して位田城に籠もった国人一揆 「位田の乱」に際し上原氏が築いた陣城の遺構か?。
平安時代中期の和名類聚抄による高津郷は 綾部市高津町と福知山市輿・観音寺の地域で、両市に境する何鹿(いかるが)郡の八田(やた)・栗・高殿・私部 (きさいち)・物部・漢部(あやべ)郷等16郷の一つです。平安時代:下高津にある音寺輿・私市の一部<元は何鹿郡>は天田郡六人部荘の新荘(六人部新荘)として平頼盛の所領で、 平治の乱に敗れた源義朝の子:頼朝が殺されるところを救ったのが頼盛の母・池禅尼。
将監城南東尾根先:大段曲輪(3〜4段)側の上り土塁虎口!?

平氏滅亡後も頼盛の荘園だけは没収される事も無く、 観音寺文書によると建仁2年 (1202)その子高盛大内城主が補任されています。 大槻氏がこれ等荘園領主・代官で有ったか?南北朝期以後 :地頭となって支配したものか?。 なお何鹿郡高津荘(如意別宮)は岩清水八幡の社領として安堵され、その別宮:高津八幡宮が祀られ、上高津を荘域?(社領域)としていますが、戦国期には大槻氏が領有して勢力があった。大槻氏の出自や同族関係は諸説があって 明らかではなく…
将監城・北東尾根先端:曲輪群北端の掘底道?

南北朝期より名があらわれ、大槻右馬頭清宗が足利尊氏に従い、 何鹿郡・天田郡の地頭となり以後:戦国時代を通じて国人として活躍し、丹波守護 :細川氏の被官となっていたか?、丹波守護代内藤氏の郡代として当地の高槻・大石・八田・栗村・一尾・大畠・高津等の諸城に拠って、在地領主としての支配権を確立していた様です。大槻氏は延徳元年(1489)に起きた 「位田の乱」には丹波守護代:上原豊前守に対抗しえる確かな勢力ともなって、荻野氏等と共に位田城に籠城しています。其の後:明智光秀の「丹波平定」時か、 豊臣氏滅亡の際等での敗戦に帰農したものか…?。大槻氏一族の本拠城?が何処にあったか、
将監城:北東尾根主要郭部の堀切:此れより先・畦状竪堀群を見る

此処:高津町周辺の高津城(高津八幡城)や観音寺城(将監城)・今回綾部市遺跡分布図により訪れた将監城の目を 見張るばかりの畝状竪堀群や縄張り域の規模の大きさを見ても、判らなくなってくるが、由良川・府道8号線沿いの要衝を望む高津八幡城段山城に比して、長谷林道から深谷林道へと山間に向う谷間の 出合付近の低丘陵にある 将監城と、福知山市との境界尾根にある高嶽城にいたっては、主郭と思われる山頂部の城遺構の不確かさ、 山頂から北に下る(荒れてきてはいるが嘗ての整備されていた登山道が利用できる)尾根上に残る空掘・土塁・さらに下り東へと将監城からの尾根へ入った付近にも数段の曲輪・堀切が有った報告を聞いている。
段山城:主郭東の曲輪から主郭の切岸と空掘

反対に西への尾根上には・長々と続く土塁道・空掘道が、観音寺城(将監城)から高嶽への稜上にも有って、 縄張り遺構の技巧・技法の差異や築城時期・城域を繋ぐ相互の関連等、判らない事ばかりですが、山陰線高津駅を見て府道8号線を右折して、 荒倉川沿いに高津町に入って荒倉神社から高嶽までの城廻りをスタートしたが、付近の市場郷公民館といい地名に「市場」名が有る。「市」が立ったところが此の辺りなら商用の宿場としても栄えたのかも?。
将監城:北尾根筋中程の大堀切

高津八幡城へは東へ向い高津八幡宮への参道沿いに約400m程、南へも荒倉の谷沿いに3〜400m程で 隠龍寺を経て段山城が、其の谷奥には将監城が控えて、此の三城が当然:宿場・市場の管理・警護の任にもあたったでしょう。天田郡側の石原城・観音寺城と共に何鹿郡側の・よく判らない高岳城を除く此の三城は、夫々に大規模城郭で 縄張りも異なり楽しめます。


段山城 段山稲荷砦と段山別城 将監城  本福寺谷城 高岳城
野山城/ 茶薄山城/ 積場城 (古路谷城:仮称)/ 諏訪城(愛宕山城)

段山城  段山? Ca85m  綾部市高津町段・管谷

山陰線高津駅から府道8号線を超えて真南へ、荒倉川沿いに高津集落へと幅狭い地区道を進むと荒倉神社が在る。高津八幡城への訪城では 車道参道とは別に、地図からは高津八幡宮まで長い石段?参道が通じている様で、徒歩で登る際に通る市場郷公会堂前付近の地名が「市場」だ。東に直線距離で約400m・比高80m程の高津八幡城が在り、西には約300m・比高30m程の段山城が、
段山城:主郭東切岸の空掘と東曲輪

北方の「市場」を控え・荒倉谷を挟んで呼応する位置に在る。 荒倉神社から段山城へは市場より、 南へ直進する地区道が左右に分岐する三叉路に「隠龍寺」の案内板が有るので道標が示す左への車道を進むと、 道縁に綾部西国観音霊場第11番札所で瑞亀山「隠龍寺」(曹洞宗)の石山門柱が立つ参道がある。
段山城:主郭と正面に南端の土塁

隠龍寺には大槻氏の先祖 大槻安芸守長高が祀られているという!。先述のとおり:未だ大槻氏の出自や同族関係は諸説があって明らかではなく、 先祖:安芸守長高が何時の時代に領内に勢力を持ち、 何処に城を築いたのか…等々も不詳です!!?。山門からの
坂道は寺院前の駐車スペースまで通じます。山門前を奥へ延びる車道の方は直ぐ 荒倉川沿いの長谷林道となり、此の後訪れる将監城や高嶽への登山コースともなります。
段山城主郭南 :空掘から竪堀への落口と土塁道

段山城へは駐車場から少し戻った段差のある北側の畑地から大槻家への詣り墓を通っての山道が、井戸跡?・池跡?・主郭東下の空堀(横堀)を抜けて城域南側の土橋を抜けて南尾根へと抜けていますが、初めてだと寺の本堂を通り其の先に立つ観音像前南端の藪っぽい枝尾根沿いの緩斜面に取り付けば、直ぐに平坦地形に出て、 主郭部東の曲輪に着く。
段山城:城域南端?の土橋と武者隠の様な?曲輪

この東曲輪と主郭切岸間に空掘(横掘)が廻り副郭 (二ノ丸)まで延びる。主郭の西側は二ノ丸からの帯曲輪ともう一段南側からの曲輪が在り竪堀が一条走る。主郭南端には低土塁が有り下段に小曲輪が有り、その先は堀切で遮断されますが、小曲輪下を土塁・土橋に挟まれる様に空掘状が廻り込み堀切に繋ぐ。此処も尾根筋を掘り切っていない方堀切で、土塁道・土橋が南尾根側に延びているが、土橋の西側には武者隠し?ともなる一段低い平坦地形が在る。
段山城主郭東の堀切と櫓台らしい?土塁

将監城へ繋がるかもしれない緩斜な尾根が延びていく様で、 この先にも遺構が有るのかも知れませんが、本日の主目的が高嶽なので引き返します。 段山城主郭の西下に細い帯曲輪を廻す北側の副郭(二ノ丸)外側の堀切(片堀切)は、櫓台付き土塁を越えると雑木藪に覆われた尾根筋だが此れより先は緩斜面で曲輪等遺構は無さそう。
段山城:主郭西 :二段下の曲輪端から落ちる竪堀

二ノ丸からの尾根筋東面一帯は果樹園が下方に拡がるが、途中:溜め池らしい大きな窪地と 二つ並んだ井戸跡?とも思える穴が有った。二ノ丸北尾根沿いの東側緩斜面は、広いが曲輪や屋敷跡なら果樹園・畑地としての造成は必要なさそう。 むしろ果樹園下に大槻家墓地が有り、其の下方の集落まで続く高い段差の段々畑・果樹園が・より家臣屋敷らしい。畑地を横切って隠龍寺駐車場の北側30m程?
段山城主郭と東曲輪の北端角の切岸

手前の参道の出てきた。参道を下り荒倉谷沿いに長谷林道を辿り、段山城からは直線距離で真北250〜300m程の位置に在る ・次の目的地将監城に向う。牧場か?最奥の民家先で直進する長谷林道を分けて右折する「深谷林道」へと谷川を渡る幅狭いダートな林道が延びていく。目前(50m程先)に藪で覆われた丘陵末端部に将監城が在る。
(丹波の荘園 綾部市史 等を参照)

段山稲荷砦(仮称)と段山別城<仮称>
段山稲荷砦
 点名:高津(4等 83m)  綾部市高津町段!!
段山別城   xxx Ca85m  綾部市高津町菅谷!!
高津八幡城の在る丘陵の西・山陰線高津駅から府道8号線を超えて真南へ、荒倉川沿いに高津集落へと幅狭い地区道を進み荒倉神社前を過ぎると、 目前の集落背後に前進を遮る様に低丘陵が迫る。 丘陵部を東へ廻り込んで荒谷川沿いに長谷林道が抜け、福知山市境界の丘陵部主尾根が高嶽416mに向う。
段山稲荷社:此処も曲輪跡か?

高津地区は入口の荒倉神社東に丘陵に高津八幡神社が祀られ山頂部にかけて高津八幡山城、高嶽には高嶽城
(高嶽山頂部が城跡とされている様ですが、 此処に遺構らしいものは無く西へ下った浅く広い鞍部に堀切・土塁・曲輪らしい平坦地が有るだけ、 此処から北尾根を少し下った所には尾根筋西端を 25〜30m程の土塁か(幅1.5m程の土橋状?)が延び、中程を幅4〜5mの空掘(片堀切)で尾根筋を遮断・・
段山稲荷砦の堀切土橋

空掘前後(南北)に低土塁を積んでいる。城郭遺構と思われるが高嶽城の縄張りとしての目的がよく判らない!?)
が在る。 此の二城の他・綾部市遺跡地図(綾部教委1998・3)には瑞亀山隠龍寺(曹洞宗)の背山に段山城、長谷林道から分岐する深谷林道入口の向い100m程には将監城が示されているだけですが、 狭い範囲内には此処に紹介する段山稲荷砦<仮称>
段山稲荷砦4等三角点:高津からの西緩斜面

段山城と将監城の間に在って、段山城とは短い尾根続き・小さな谷を隔てた向かいに 段山別城<仮称>が在る。城域前後を堀切で遮断 ・東面に空掘を廻す居城の段山城から尾根筋を約100m程も辿れば高嶽への主尾根筋に合流する。此の尾根筋は登山ブームの頃の整理されたものか!?処々の道標も残り此の合流地点にも有る。
段山稲荷砦三角点山頂の主郭と堀切土橋

段山稲荷砦<仮称>: 北の高津集落に向う踏み跡を外れて尾根筋を進むと4等三角点峰(点名:高津 83m)に着く。 主曲輪の北端に三角点標柱が埋まるが、 東側は竪堀跡だったか?、其の後自然崩壊となったものか崖状に崩れているが尾根筋に堀切・土橋遺構が残る。
段山別城主郭部北端の堀切土橋


緩斜な西面は何処まで拡がり降っていくのか未確認ですが、 堀切の先が竪堀となって落ちていくだけ…?。尾根筋の直ぐ下方(土橋から約 4〜50m)に小祠が見える。石積み基檀上の祠が段山稲荷と赤い鳥居が教えてくれる。稲荷社の先・高い切岸下の東北側と、西北側に広い平坦地があり、 双方に踏み跡は延びる。登山コースは東北側だったかも?。
段山別城主曲輪の切岸と北面の帯曲輪・小曲輪

西北側へ下ると広い平坦地は廃墓地で、踏み跡もネットで遮られ、藪地で途絶えヤッと民家裏手の畑地に出て来た。登山ルート・段山稲荷社への参道筋は何処かと、注意しながら帰路を辿ったが標識類も無く良く分からず、直接段山稲荷砦へのルートが説明出来ません!!。段山城から段山別城(仮称)か、将監城からの尾根続きに二ヶ所ばかりに3〜4段程の曲輪群を見て辿り着く、 高嶽からの尾根筋にも本福寺谷城<仮称>が在り、
段山別城主郭部北面:曲輪端からの竪堀落口

堀底道状に窪んだ長い尾根沿いの登山ルート(途中に道標有り)を下ってくると、段山城との尾根分岐点に着く。進行方向とは逆なので気付かず行き過ぎそうですが、 段山城西端氏の堀切と切岸を立てる数段の曲輪が確認出来ます。下草が覆う様な足下も浅い堀切土橋状?。此処を北東へ段山城へ、北西寄りに下る山道から尾根筋を採ると段山稲荷砦です。
段山別城城域南西端の曲輪群(尾根分岐点側から)

段山別城<仮称>: 段山城と将監城との間に延び出す枝尾根上に在って、夫々に谷を挟んで約120〜180m程の近距離に三城が並ぶ。しかし此の三城の縄張り特徴は大きく異なる。広くも無い尾根上の曲輪に比して堀切や尾根沿いの左右に80条以上もの竪堀・畦状竪堀を落とす、特異といより・異常な程の竪堀遺構を残す将監城を例外として、居館イメージの段山城からは尾根伝いに20分とかからない位置に段山別城が有り、
段山別城主郭部北面の切岸と腰曲輪

尾根沿いに堀切・曲輪を並べる縄張りは当地国人領主 :大槻氏による同時代の築城で、段山城の 詰め城イメージを感じる!!?。所在地字名等が不明の為、位置付けからも一城別郭の段山城とも思われ、段山別城と仮称しておきます。長谷林道から将監城への入口・深谷林道への分岐点に在る牧場から、二箇所有る地神さん?祠への道を採れば、 上の祠は既に城域の曲輪らしい?が、個人宅敷地を抜け、畑地の畦を通って丘陵裾に取り付くか、
段山別城主郭部北端の堀切土橋

将監城の北東麓に有る池付近からも直接・城域南西端の 堀切道に通じる山道が有る様ですが、迷惑を考えれば・段山城から尾根通しの上記に示すルートが無難な様です。此の堀切から数段の曲輪が段を重ねて 尾根上の主郭に向う。帯曲輪を割って北面に一本の竪堀・其処から少し下ると10X15m程の城域では一番広いのが主曲輪か?。此処から3〜4段続く曲輪の先に土橋付堀切が有り、
段山別城城域北端堀切下方の 祠も曲輪跡?

急傾斜となり城域端かと思えたが、30m程下ると更に激急斜面(7〜8m程)の下方には、藪・下草に遮られ全容を窺えないが深く大きな堀切が尾根筋を遮断している。 藪中だが広く感じる2段程の曲輪が城域北端か!!。東下方に細い踏み跡(獣道?)を見つけて、曲輪跡らしい小祠に降り立っと普通の?山道(参道)となる。少ぐ下方にも小祠は、麓に建つ2〜3軒?の民家や牧場主に祀られている地神さんだろうか!!?。


将監城 XXX山? Ca100m  綾部市高津町管谷・不動

取付点が判っていても猛烈な矢竹密集地に侵入するのは躊躇するが幸い僅かに切開かれた踏み跡伝いは数mで切岸沿いの登城道に入り 広大な屋敷跡らしい曲輪に上がる。曲輪群の北端に堀底道が延び、竪土塁に上ると櫓台と思える小曲輪に着く。尾根続きの堀切を越えて北東尾根中核部の広い曲輪に出る。此処から向う尾根続きに注目すべき畦状竪堀・竪堀・堀切が現れる。
北東尾根先から空掘状〜縦土塁沿いの曲輪群
  (堀切側の櫓台状小曲輪から見下ろす)

福知山市側の観音寺城が将監城の別名でも知られる様ですが、綾部市側にも 将監城が其れも市境尾根を隔てた直近に存在していました。市史等に今まで記される事も無く ・知られざる大規模城郭がしかも比高僅かに 20m程の低丘陵に存在することを、市の遺跡分布地図に確認して出掛けてきました。もしかして観音寺城の別名:将監城は此の城を指していたのではないかと思える程。 高嶽416mから北へ延びる尾根の最北端部に段山城が・275mピーク付近から 西に派生する尾根先端部に観音寺城(将監城)・東へ流れ出す尾根先端部の低丘陵部に将監城がある。
畦状竪堀

此の尾根上に展開する大規模な城郭は、その縄張り遺構が示す技法・特筆ものは所々に窺う畦状竪堀群。よくメール情報を戴くM氏からは、先行報告後に将監城を訪ねられ、綾部市内では今まで上林谷(八津合町)の 日置谷城の竪堀群が最も顕著なものと思われていたが、丹波でも他に類例を見ないという。随分以前に道路の案内表示を見てよく知られている上林城 (生貴山しろ)へは拠ったが、上林城(本城!?)とは府道1号(小浜綾部線)を挟んだ別城!?の日置谷城は未訪。
北東尾根先の段曲輪群は空掘状〜縦土塁で繋がる…!!
 
なんとはな此処:高津八幡城を本城とする別城の将監城構図が浮かぶ!!。此の山城の魅力は・縄張りの傑出した特徴を知る事で倍化される筈ですが、高津町の四山城としてプロローグに記した様に、大槻氏の出自・その同族関係や、天田郡六人部荘から何鹿郡の高津・漢部(あやべ)・宮坂・栗等の各荘を領して城を築いた勢力関係がよく判らないが 平氏滅亡後も大内城主平頼盛の荘園が没収される事も無く残り、
将監城核心部:二連の土橋付堀切?状の竪堀を見る

大槻氏がこれ等荘園領主・代官として?さらには足利尊氏に付いて、 南北朝期に至り地頭となって一帯を支配し勢力もったと解せば・・?、 歴史はそんな簡単なものではないのかも知れませんが・・?。また大槻氏諸城の縄張り(築城技法)には、地形に合わせて独自の防備施設の技術を駆使したものか?、石垣を使用しない事以外?での一貫した大槻氏の築城特長は無さそう。観音寺城〜鴻ヶ嶽城間では、林業用とも思えない?土橋・土塁道 ・長い空掘道が多い様な気がする!!。
北東尾根と東尾根を繋ぐ分岐部の曲輪(此処が主郭か?)

時に応じて改修・改変されてきたものでしょうが、梯郭式山城のほか、環濠居館の石原城・古色然としたヌクモ城・尾根南北を堀切で断ち単郭状だが、空掘りを廻らす段山城等が在り、此の将監城の堀切と畦状竪堀群の大槻氏の周囲の城から比べて突出した防備体制からは、若狭守護武田元信が宿敵の丹後一色義有を攻める為永正3年(1506)管領:細川政元に救援を乞い、 澄之・澄元を引き連れて若狭から丹後に出陣した際、守護代内藤氏方の国人:大槻氏の高津に迎えて
櫓台から竪土塁と尾根末端へ続く段曲輪

【観音寺文書によると政元は上高津の隠竜寺・澄元を下高津の観音寺に宿陣したとあり】その為 ・観音寺〜高津城の諸城には最大限の防備補強 ・改修が成されたことでしょう。 此の遺構がそれを物語るものか?、「丹波攻め」明智光秀軍に抵抗した大槻氏最期の防衛戦を彷彿とさせる遺構なのか ?将監の官位をもつ人物が築城主なのか?最後の城主が大槻将監なのか?。福知山市三和町細見谷を本拠とし、辻城・殿屋敷城・特に草山砦 (本郷城<篠山市本郷>)の細見将監が、 藩政時代まで将監を継がれているように大槻将監も惣領家に継がれてきたものでしょうが、
南尾根と分岐する城域西端:尾根側を大堀切で遮断する(将監城側から)

何代目かの大槻将監の史実でもわかれば、大槻氏や其の城砦群についての研究が進展するでしょう!?。「位田の乱(延徳元年<1489>)」で丹波守護代上原元秀に抗して敗退した大槻氏が、 其の後:中世末期以降にかけても此処に居住していたものか?、一時期でも管領細川氏を迎え入れる程の国人の、其の後の動向・歴史背景が不詳では寂しい限り…!!。


本福寺谷城<仮称>  xxxx Ca200mm   綾部市高津町松ヶ崎!!

段山稲荷砦(仮称)と段山別城<仮称>のレポートにも記したが、 段山城・将監城を主とした狭い山域周辺に、幾つかの綾部市遺跡地図の情報には未掲載の山城遺構があった。此の本福寺谷城<仮称>は綾部市高津と福知山市観音寺の市境尾根を高嶽416mに向う尾根上に在って、
本福寺谷城主曲輪

観音寺城(将監城)からの西尾根が合流する275m峰の主尾根から北東へ延びる尾根上の 200m等高線が細長く突き出す下方で二分する枝尾根の分岐点付近を堀切で遮断し東へ下る尾根筋には5〜10m前後の小曲輪 (8〜12個程!?)が曲輪を隔てる事もなく並び?、曲輪内に切岸・土塁 ・空掘等の施設を見かけないが段曲輪を連ねている。
本福寺谷城:主曲輪から

曲輪群は一旦途切れながらも下る尾根筋の二箇所ばかりに3〜5段の曲輪 群を見て将監城の南尾根 ・北尾根が分岐する西端を遮断する大堀切に着く。一本の堀切と広くも無く、 段差も小さな曲輪を連ねただけの本福寺谷城に比して、此の堀切から下る両尾根筋に残る堀切・空掘土塁・異常な程の竪堀群に
本福寺谷城唯一の堀切

護られる将監城の遺構は、同じ大槻氏の城と考えれば、時代も築城目的も異にしたもの。改修以前の将監城が有ったとすれば、尾根伝いに本福寺谷城〜高嶽城へと”逃げの城”の構図も考えられそうですが・・?。 本福寺谷城から北への尾根筋沿いに下る山道は、高津八幡山城や観音寺城の城域を外れた尾根筋にも 見かける堀底状の溝を下る。
本福寺谷城主曲輪下:帯曲輪や 上り土塁状に見えるが!?

材木運搬等の山林作業用なのかは良く判らないが、此の道を辿れば、段山別城・段山城・段山稲荷城の分岐尾根に着く。市境沿いの尾根を辿る高嶽登山ルートの主登山口は、北山裾の本福寺から始まるのか?。 コース上に残る標識に「本福寺へ」の案内板が残る。


遠所城    Ca90m   綾部市高津町遠所

高津町の集落内・道なりに進むT字辻を左折すると、高津荘の国人領主:大槻氏の先祖大槻安芸守長高が祀られているという瑞亀山隠龍寺(曹洞宗)の山門石柱が立つ。 大槻氏については其の出自や同族関係にも諸説があって明らかではない。本拠城を高津城 (八幡山城)と推察するが遺構の現状からして地方領主が構築した縄張りとも思えない。大槻氏は山家城(甲ヶ峰城)の和久氏等と共に八木城主:内藤氏に従っている。
長谷林道から高嶽:左に積場城・ 右に将監城・中央低部から遠所城

応仁の乱後も続く但馬山名氏(西軍)に付いた若狭一色氏と(東軍)細川勢に付いた武田氏との攻防には 永正3年(1506)武田氏を救援し幕府軍として若狭の一色氏を攻めている。管領細川政元に付く守護代の内藤氏が信任?する何鹿郡(綾部市)高津荘の国人大槻氏領地の高津荘を前線基地として陣を敷き、 政元に継嗣なく養子に迎えていた澄元・澄之らが此処に逗留し、隱龍寺(背後が 段山城)や観音寺(大槻将監の居館と山城がある)に宿陣し軍勢を整えて一色氏攻めに出陣していった様子。 観音寺は天田郡(福知山市)だが下高津と呼ばれていた元は高津荘。
遠所城北末端曲輪と空堀?状

狭い高津荘領内の南側一帯の丘陵低位置に、異常とも思われる城塞群の多さは、 若狭の一色氏を攻める管領細川氏・内藤氏らの幕府軍を迎えて警護の為の陣城群か、内藤氏傘下にあった高津城の大槻氏だが、 奥丹波の丹波・天田・何鹿への侵攻を図る三好氏・同族の内藤氏により攻め落とされ?、丹波攻略の基地として内藤氏により、 鴻ヶ獄城が築かれ高津城が改修されていったものか。また高津荘城砦群は将監城を中心にして、周囲の丘陵部尾根筋に砦規模の城址遺構を遺すが大槻氏持ち城なのかは位置的にも疑問に思うが、
同:上り土塁?を上段曲輪へ・・・

将監城に呼応する物見や狼煙の砦と思える遺構が将監城の西:高獄への尾根筋に 本福寺谷城と高獄山上近くに高岳城。将監城の南背後の谷筋から高獄に伸びる尾根先端部に遠所城。 此の遠所城へは陰龍寺前から長谷林道を辿ると”将監城・荒谷古墳群”案内標識の立つ林道分岐で橋を渡ると右手正面に将監城(分かり難かった侵入口に標識あり)、 高嶽直登気味の荒谷林道の分岐で荒谷古墳群標識側へ左折すると林道左手の丘陵に取付く尾根の先端が遠所城。もとへ:長谷林道を直進すると分岐点直ぐ先に積場?廃寺跡があり、
遠所城:連続する曲輪の段差は低い

八幡山城からの尾根を合わせ鴻ヶ獄城へ通じる尾根の西先端部には 積場城がある。 大きく異る縄張り遺構や築城位置・規模からは大槻氏の持ち城なのか?。奥丹波攻略の三好氏・内藤氏による改修・新設なのか?、また山名氏に付く西軍:若狭一色氏を攻める東軍:管領細川氏と丹波守護代 ・内藤氏勢の前線基地本陣と周辺に築かれた警護・監視の臨時の砦となり・ 内藤氏に付いていたが攻められての皮肉な結果になっているが、 永禄7年(1564)内藤氏が鴻ヶ嶽城を築きくが翌永禄8年には黒井城荻野直正等の反撃[和久郷の戦い」に内藤勢は敗走し、大槻氏らは黒井城主荻野氏傘下に入る。
遠所城唯一明確な山城遺構:土橋付き堀切

明智の「丹波攻め」以降の動向は不詳だが、天正3年(1575)八木城落城に再起を期し 鴻ヶ嶽城に逃れてきた内藤正勝が此処に自刃し 城の歴史を閉じたとあるが、其の人物像についても定かでなく…(-.-;)。 殊に将監城とは直接関連も深そうな本福寺谷城 ・積場城・遠所城は、いずれも浅い堀切・幅狭い尾根筋に切岸も小さな段差程度の小曲輪を並べただけの臨戦的な城砦?。積場城と遠所城は長谷林道・古路谷(荒倉川)を挟んで呼応する位置にある。
遠所城主郭東の緩斜な枝尾根上にも曲輪遺構?が

高嶽の肩を越えてR9号(山陰道)天田郡多保市へ抜ける間道があれば、 通行監視や積場城が軍の駐屯基地であれば氷上群・天田群へ出撃の有効な進軍ルートにもなりそう!!?。主要城郭を細川氏に譲って後退したとしても?、内藤氏に城を奪われたり、内藤氏が滅び荻野直正・更に明智光秀に付いたとしても、 これ等の城が大槻氏の城砦群とは考え難い?。細川氏の一色氏攻めか三好・内藤氏の天田郡や何鹿郡攻略や、明智郡の奥丹波攻略の前線基地として築かれていたものと推定するが、いずれにしても築定時期や城主等の城史は不詳。

高岳城   高嶽 416m   綾部市高津町遠所 福知山市長田

天田郡(福知山市)と何鹿郡(綾部市と福知山市の一部)の郡境尾根の高嶽については「鷹ヶ嶽に屋敷跡有り・遠見の古跡とみゆる …(丹波志)」と記されているが、過去にも登ってみて城跡を意識する事もなく、城情報をレポートすることは無かったが、あらためて綾部市遺跡地図を見て出掛けた。綾部市西南部・福知山市境に位置する高嶽の北尾根付近に分布する城の探索には 山陰線JR高津駅・真南の高津集落内から段山城将監城を訪ねた後に向う。
不動尊像と不動滝

将監城から尾根伝いの登山コース上275mピークを経て高嶽に向う。 段山城からの尾根をあつめるCa200m付近にも段曲輪と堀切一本をみる城砦遺構を翌日・将監城を調査されたT氏・M氏によって発見されており【所在位置から(仮名)成畑城とする予定】次の機会に訪れてみたい。 取り付いた深谷林道に戻って ダートな幅狭い林道を進むと、直ぐ将監城側の雑木藪に隠れ僅かに石頭部を出して佇む数体の石仏を見る。六地蔵ではなく古い墓地も無さそうで、これから向う不動滝に関連の石像なのかも? 高嶽の位置を確認しつゝ進むと4〜5分で直進する荒倉林道は二股に分かれる。左手の不動谷に向かい、抜かるぬ林道終点の転回スペースから谷に降りる。 谷筋は踏み跡も有り・水流のある倒木と藪の右俣ではなく 左手の広い枯れ谷を進むと滝音が聞こえてきて、目前の不動滝が行く手を塞ぐ。
尾根沿いに自然地形のy竪堀が延びる

壊れた祠側に不動尊が立つ。三段30m程の滝の左右を捲いて谷を詰めてみたいとも思うが、 此れまで二度も山頂を踏みながら山頂が城跡と知った今回は一本でも周辺の尾根筋をトレースしてみたい。 滝を少し戻った左手(右岸)に尾根に向かう、雑木と植林の間に続く境界プラポールを追って急斜面を上り切った狭い尾根沿いには、 大きく深い自然地形?の竪堀が上方へと随分長くに延びていく。
高嶽:西鞍部の片堀切!

此の竪堀状落口には小曲輪状の棚になっていて、幅広くなった藪の緩斜面をしばらく登ると広い平坦地(30u程!?)が拡がる高嶽山頂(3等三角点 416m)に着く。 高嶽山頂部を中心とした周囲を城域とした高岳城があって、城跡についての城主・築城時期等の城史は不明だが土塁・堀切の遺構が残る様なのですが…?。平坦地周囲に曲輪と思える段差もなく?。西への緩斜面を下り始めて南端に低土塁らしい高みを見るがはたして?。 その土塁状の端が鞍部状に平坦地形に出て、南へ堀切状・空掘状になって下っていく。 その先・さらに山道状に延びる。ただの山道か?。
高嶽・北尾根上の土塁!!

鞍部から北尾根の石原や本福寺・高津菅谷へと道標もある登山ルートで、緩やかな窪地だが浅い堀切とも見えず…が鞍部から100m程下った辺りか?、尾根西端に20m程の土塁?を見る。其の中程を尾根東端までは6〜7m幅の片堀切? (空掘)状になっている。東端に山道が有るわけでもなく、土塁上の幅は1m程・しかも土塁の外側は3〜5m程か (?目測確認していないが)切立ち高い。 ただこの先で石原方面への登山道を分け、さらに高津菅谷・本福寺への道標を見て、北へ直進する尾根筋は、またも長い堀底状を下る。
高嶽北尾根(同上):土塁!!と幅広横掘?は曲輪を形成しているように見える?

綾部市遺跡地図にある高岳城の堀切と 土塁が上記の遺構を指すものか、別の位置に存在するのかは知らない。 「丹波志」に遠見の古跡と云う高岳城に展望の効く見張所的な場所も見かけず、確実な城遺構を見ないまま登山標識を外して東への斜面を下り、藪と倒木に埋まる不動谷右俣に下り、不動谷林道・荒谷林道を将監城取付に戻り、 往時を荒倉神社の駐車位置に戻った。



高津町積場城(古路谷城:<仮称>)〜 甲ヶ岳城野山砦〜上延町・慈音寺〜諏訪城  2010.03.19

【プロローグ】古路谷城(付近に積場?廃寺跡が在り積場城とも仮称)・野山砦・諏訪城等はいずれも築城時期や城主等の城史不明。城情報も城遺構の現状も、ともに自然地形か遺構の荒廃か!!判別し辛い状況にもなっています。福知山市から綾部市へと 府道8号を東に向かい洞玄寺城に近い石原駅から、集合場所の高津駅に向かう。
積場城 (古路谷城<仮称>)・西の堀切

其の二駅中間点付近の南方丘陵には観音寺城(将監城)があり高津駅の南東・府道に迫る丘陵上には高津城が其の尾根続きの 264mピーク から北へ向う尾根上最高地点には甲ヶ岳城、更に東へ延び出す尾根上には野山砦や茶薄山城が在り、綾部市のランドマーク ・四尾山と向かい合い、東山麓を府道522号の上延町に下りてくる。
積場城(古路谷城<仮称>)・東の堀切(尾根筋沿いに段曲輪)

府道522号を直ぐ南側は安場町境、此処に上原氏の城として日本城郭体系にも載せてあるという!?諏訪城が在って最後に寄ってみる。「中筋資料委員会」依頼により 甲ヶ岳城を調査された高橋氏は 段山城・将監城の訪城でも、夫々の城域外に新たに城郭遺構を発見され、字に「市場」の名も残る高津町を大槻氏の本拠地として 周辺の大槻氏城砦群と高津町を直接結ぶルートが安場方面からでは…との推定から、その交通のルートや周辺の旧字名・旧寺社跡 ・尾根筋のトレースに調査を意欲的に進められる予定…!!。R9号線(山陰道)上六人部の三俣から(此処には上安場城が在るが!?)府道622号や同・芦淵から川合を経て府道709号線を綾部市へ越えるルートも有る。 二つの府道に挟まれる丘陵上には安場砦が有る。
甲ヶ岳城の城域南端付近の曲輪切岸(P264mからの北尾根)

またR173号(綾部街道)やR27号線の新綾部大橋から府道483号線に入ると府道522号との合流付近の安場・上延町には諏訪城も在る。此処だけは大槻氏の城砦ではなく、丹波守護代ともなった上原氏の城と云われます。 物部城の支城として築いたものか?、広い曲輪以外に遺構が判然としないので、陣城として使用されていたものか?。荘園監視か何鹿郡の中央部に入る要衝の重要地点では有った様です。甲ヶ岳の南から東一帯が上延町と安場町・南の田野町には 安場砦があり、此れは上野町・綾部城の支城とされますが!!、三本ばかりの峠越えルートが想定できるのですが?。



積場城(古路谷城)<仮称> xxx Ca135m  綾部市高津町古路谷・遠所
野山砦 xxx Ca175m 綾部市安場町野山
茶薄山城
 xxx Ca130m 綾部市大島町岩鼻・ヒサナギ
諏訪城(愛宕山城) xxx Ca130m  綾部市安場町野山

以前より観音寺城から高嶽へと・高津城から甲ヶ岳への縦走を考えていたが、高橋氏より今回(2010年06月)後者の実践にお誘いを受けた。高津町へは2ヶ月前に 高津城(八幡山城)の西山裾に段山城・将監城を訪城した後、不動谷を詰め上がって高岳城を目指したばかり。計画は高津城からではなく、長谷林道を荒倉谷沿いに入り、将監城を目前の不動谷出合から長谷林道を3〜40m進んだ付近に在った積場?廃寺跡から辿り、 高津城からの主尾根を甲ヶ岳に向います。
積場城(古路谷城<仮称>)・東堀切<西堀切からの尾根上30m程緩斜面が続くだけ?>

【積場城(古路谷城<仮称>)】林道から獣道か踏み跡?の急斜面には林道沿いに広い 2〜3段の削平段があるが山畑地なのか寺跡か不明?。 古路谷城(仮称)は廃寺の名を忘れたが小谷を挟んだ南東約250m程の丘陵頂部や、更に東南の字名「遠所」となる付近:丘陵部は重要地点と思える。 安場町や三俣から峠を越えてくる道が合流する地点。地図上からは合流地点が監視出来る要所に位置しているがトレースしていない。近くの字名?を仮称としたが奥の浅い谷地を挟んだ向いの丘陵と連動して寺跡・城砦遺構が有るかも?。
積場城(古路谷城<仮称>)・二本の堀切南西斜面に続く雛壇状の段曲輪

積場寺?は廃されているが 江戸時代初頭の創建らしい。宗派や規模共も不詳。寺跡だろう?と見て広い尾根筋への斜面を進む。小規模な平坦地形は、自然地形の緩斜面が続く尾根筋に堀切が現れた。堀切(左右10〜15m程)に面した尾根西側、 崩れた幅広土塁だろうか?。堀切からの尾根も相変わらず緩斜だが、西南側斜面には数多くの段曲輪を見て更に大きな堀切に出た。 南下へ真直ぐに 30m以上落込む竪堀となり、左右に数段の曲輪を見るが二箇所の堀切間の西南斜面の下方に大小曲輪を雛壇状に連ねて、長谷林道(荒倉谷沿い)近くまで続く様?です。
積場城 (古路谷城<仮称>)・東と西堀切に挟まれた尾根南西斜に続く大小段曲輪

此処一帯が中世の寺跡なら寺院を城郭として 取り込まれたかに想えるが江戸時代の寺跡なら先に城郭ありき…。山陰道(R9号線)からは昨年末に訪れ三俣城・上安場城 へ向った福知山市上六人部の三俣町からは、補修か拡張工事中だったが、高岳からの主尾根を越え 綾部市安場に下りる旧街道か!!?・幅狭いが峠越え車道が通じています。また三和町・瑞穂町方面からR173号方面からは直接綾部市街地へ入らず 田野町・安場町から高津町へのダイレクトルートが此の長谷林道。字名「市場」も福知山市を結ぶ府道8号からは 少し内に引っ込んだ位置に在るが、安場からなら ルートの終点が高津町「市場」・高津八幡宮下に辺り「市庭」が形成されていたものか!!?。
野山砦:土橋付二重堀切!?

この安場と高津を結ぶ街道と市場を守備・監視し将監城・段山城・高津城と呼応した城砦遺構の一つか?。尾根筋の左右端には削り落とした 切岸状を見るが、曲輪遺構の顕著な段差は無く自然地形ながら、二本の堀切を見る短く西に突き出す枝尾根先部の200m程に城遺構が有った 【小谷を挟んで東南の丘陵部<林道を挟んで長谷池?の東北Ca150m>は未調査】…が高津城からの尾根に乗り264m(甲ヶ岳城への尾根分岐)まで城遺構は見ない?。
野山砦:土塁を挟んで土橋付二重堀切!?

自然地形の崩壊痕による竪堀・土橋状・土塁付き曲輪・空掘は見る度に驚かされるが。 264m分岐ピークから甲ヶ岳城に向う緩斜面からの登りでも、左右に深 く広いが谷道らしい溝状を見て、藪尾根部に2m程の切岸を持つ曲輪に入ると、目前には主郭南部の土塁曲輪の切岸と、南一段下の曲輪を見る。高津城の城址解説案内によると、 南へ連なる支尾根や西面の緩斜面へと、東郭部・西郭部に分かれ約300mに拡がる大規模城郭とされ、 綾部三大山城の一という。市民にもよく知られる城・歴史的にも・
野山砦:主曲輪南面に集中する畦状竪堀群だが、自然崩壊溝かも・・?

縄張り遺構も顕著でユニークな城も有り、公園整備された高津城や上林城 ・物部城・位田城、遺構がユニークな将監城 (高津)や館城等々・・数多くの城の中に此処 :甲ヶ岳城を加えて三大城を仮定すると、位田城(ただし上城・下城等一帯を含めて )を直ぐ浮かぶが、あと一つは何処だろう。解説には記載無く判らなかったが、高地に在る大規模城郭との条件から、由良川を挟んで北方の位田城・高城(七百石)と甲ヶ岳城が綾部三大城と呼ばれるという。
野山砦山頂主郭?と東側曲輪(帯曲輪?)

城郭研究家による調査では高津城は福島克彦氏が、 甲ヶ岳城は「中筋資料委員会」による詳細調査報告(城郭・民俗等)資料があり、甲ヶ岳山頂主郭に祀られる秋葉社の側に立てられる。案内板は綾部高校K教諭・大島SV(シニア・ボランティア)倶楽部設置の縄張図(城郭見取図)は 高橋成計(しげかず)氏(高槻市)によるもの。<資料等の”正計”は ”セイケイ”の入力変換によるものか?、「訓読み」でも読みの難しい名前ですが!!?、本人も製版後に気付かれたことでしょう。大島町登山口への下降点を見送って、緩斜な東尾根を進みCa175m峰の野山砦に向う。

甲ヶ岳城への尾根筋まで続く堀底道:左手丘陵上が茶薄山城

【野山城と茶薄山城】天正3年(1575)丹波八木城は明智光秀に攻められ落城・城主以下討死したが、一族の内藤正勝は再起を期して八田城 (高城城 綾部市七百石町)に向うが、途中将兵は散り散りになり、 明智勢に追われ苦戦したが、辛うじて鴻ヶ嶽城に辿り着いたが、遂に此処に自刃し内藤氏は滅亡・鴻ヶ嶽城は築城 15年でその歴史を閉じたとされます。 古くより土豪大槻氏の居城ですが福知山方面への進出拠点として、永録7年(1564)丹波守護代:内藤氏の城として改修され、尾根続きの四方に城砦群を築き、本拠:八木城の様な一大山城の体裁が整えられたものか?。
茶薄山城:西斜面は、切岸高く深い堀切<堀底道(左上が登山道の尾根道)>

西に高津城(八幡山城)や長谷林道を挟んでは 積場城 (仮称)や大槻氏の城としては驚愕の将監城・段山城や其の間の尾根上にも2〜3ヶ所・綾部市の遺跡地図(1998・3)に記載の無い城跡があり、東には大島町の甲ヶ岳登山口から詰める尾根上 ・尾根先には、甲ヶ岳城の出城・出曲輪か小規模城郭の茶薄山城と野山城が近接して築かれている。 野山城経由で諏訪城に向い、今回茶薄山城には寄らなかったが、 大島町からの登山口から続く長い堀切道を尾根に出たところ・左手の丘陵部が城跡で、登ってきた堀底道は茶薄山城の堀切ともなって、深く・高い切岸を落としています。
茶薄山城の帯曲輪:西面

====茶薄山城(追加)======= 道標が示す甲ヶ岳城とは反対に東へ延びる・丘陵部を捲くように廻り込んでいく山道の丘陵上、比高10m程の尾根上部に3〜4段の曲輪が藪中に有る。一番下段の帯曲輪を西下へ移動すると、足下に登山道の堀底道が深く堅固な堀切と切岸となっている。 主曲輪側に6〜7mの切岸を持つが、上部からは低い段差の曲輪が続く。東端の高所が主曲輪と思えるが、更に東へ下る尾根筋は藪。綾部 市街地と福知山市を繋ぐ要衝の街道筋が足下に拡がり、 北に位田城を望み、東山麓は六人部に出てR9号線を篠山市や、川合に出てR173号等・京丹波町(船井郡)へ抜ける間道でもあり、下記:諏訪城と同様の通行監視目的で築かれた城砦と思えます。
茶薄山城の帯曲輪から主曲輪への切岸

其れだけに尾根先端部まで踏み入り確認する要があるのでしょうが、 山道さえ尾根を外して捲く猛烈な藪地を引き返した。甲ヶ岳城が内藤氏の持城となったあと、其の大手道を護る城戸・大手門を兼ねた出城として築かれたものか?。城主:伊藤伊織は内藤氏の重臣だったか?城史は未調査不詳 ===========
野山砦手前の尾根南面の斜面に畦状に 4〜5本の竪堀状が並ぶ。上延町・安場町側、主に東光院からの谷を詰めての攻撃に備えたものと推察するところですが、 竪堀はいずれも直ぐ下方で曲がり長く延びていく。土砂崩壊痕の自然地形で、大きな竪堀群も下方から見ると崩壊の段差により階段状になって落ちる。 ただ殆どの竪堀状が単郭の主郭 南面に集中しており、全て竪堀で無いとも云えず
茶薄山城の主曲輪 :低い段差で西側に腰曲輪が付く

竪堀が豪雨等で崩壊したとも思えます。尾根上の小ピークへと土橋付二重の堀切状を越えると山上頂部の主郭で、廻りに低い段差で3〜4の曲輪を見る。綾部市遺跡地図の概要に城館・堀切 ・竪堀・帯曲輪とある。遺跡地図に無い更に東300m程のピーク(想定しているが未訪)途中にも堀切が有るのかも?。野山砦からは此のポイントに進まず、北に延びる尾根先の茶薄山城(遺跡地図概要には城主伊藤伊織の城館で 遺構は郭とのみあるが!!)にも行かず、枝尾根を北斜面へと踏み跡を辿って慈音寺へ下り、上延町地区内を抜け山添神社前を通り菅集会所近くにあった車デポ地に着く。【諏訪城(愛宕山城)】は 南北に延びる半独立丘陵 Ca130mの山頂部を主郭として東面を府道522号に、北先端を菅集会所と由良川に流れ出る谷川へと崖状の急斜面を突き出す。 車道からは集会所と崖を掘削した穴倉(貯蔵倉に使用されていたらしい)の間に踏み跡を見つける。諏訪城の名からは物部城(諏訪城)が浮かんだが、 やはり城主:上原氏の物部城の支城として築かれたものらしい。
諏訪城:広い山頂部に切岸は無いが?段曲輪を見る

広い山上部の主郭?中央には高さ1m程のコンクリー柱の礎台!!や瓦の破片が散乱しており、城名からも築城主上原氏の諏訪明神の祠が祀られていたものか?。愛宕山城の別名も有り上原氏の衰退後は廃城となったか、 大槻氏が一次的に使用したかは不明ながら後世:愛宕社が祀られたものか!!?。取付きは直ぐ・廃された参道沿いに山頂へ通じているが 堀切・竪堀は見ない。広い丘陵上には尾根幅いっぱいに平坦地形が拡がるが、段差も少なく・高くても(2〜3m)緩斜面で上下の曲輪を結ぶ。大人数の将兵を駐屯・待機させる収容力は、陣城としては可能と思えます。
諏訪城:山頂部の散存物は諏訪大明神の祠跡か?

文明年間(1469-87)頃:何鹿郡南西部に 勢力をもっていた大槻氏は、延徳元年(1489)荻野氏等と・丹波守護代上原氏に反旗を翻して位田城に籠もった国人一揆「位田の乱」に敗れるが、此の頃の上原氏築城の遺構か?。上原氏はやがて失脚・永正4年 (1507)若狭守護武田元信の要請を受けた管領細川改元が、丹後守護:一色義有を攻める為、養嗣子の澄之・澄元を連れ若狭や丹後への出陣の際、 大槻氏の綾部高津に宿陣している。
諏訪城:山頂部の広い緩斜な平坦地形と曲輪の段差?

上大槻氏が表舞台に立って最も勢力を持ち華やかな時期ながら、その活躍を語る資料は稀薄な様です!!?。古文書により政元・澄之・澄元の宿陣先は異なるが、観音寺城・高津城の高津を中心とする 段山城・将監城等々の諸城は、管領らを守護するための改修等最大限に防衛・警護を堅めたものか、 点から線に近くなる程の城跡密集地帯!!は、未だ未発見の城砦が隠されているのかも知れません。
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