綾部市・由良川北方の山城探訪Ⅲ 狭間城・松原城・天王山城・有岡若宮城・仏南寺城 他
京都:綾部市 (五万図=福知山・綾部・舞鶴・大江山)
近畿の山城: 狭間城 松原城  天王山城 有岡若宮城・有岡御領城・仏南寺城

綾部の伝説 志賀の里七不思議 向田の”しずく松”
天王山城東郭より望む犀川流域志賀郷町

福知山市街地から綾部市に向かい、由良川を挟んで左岸(北側)は 私市丸山古墳史跡公園麓を抜ける府道74号線、右岸を山陰線と並行に府道8号線が走る。府道8号線(JR高津駅と綾部駅の中間付近)から由良川に架かる以久田橋を渡り府道74号線交差点を直進する府道9号線(綾部大江宮津線)を犀川沿いに北上する。
「志津久松」伝承地と地区道を隔てた東側の極低丘陵部に在る松原城

何鹿郡の地 頭として唯一?名の残る上原(うえのはら)氏の本拠物部城の在る丘稜を犀川沿いに望む。此の先直ぐ府道9号線は西方へ、 犀川は大きく東へ流れを変えて上流に向う。流れに沿う府道490号は手前で右折する府道 485号線は車道側・左手高台に黒板張も懐かしい木造校舎の河北中学校を見て、以前に浅根山城や北野城へ向った道。
府道485号からは浅根山城の東1km・平野を挟んで狭間城を望む

物部の交差点分岐で右折し府道485号を直進して小峠を越えると、左手丘稜に公園となっている浅根山城の展望休憩所の東屋が見える。田園が拡がる正面左手に低丘陵が見え、麓に数軒の民家が車道沿いに並ぶ。府道485号線沿いの白道路町側から、北へ向う地区道が 此の低丘陵西端を抜けて向田川を渡り府道 490号線の志賀郷町に通じます。
八田川から望む仏南寺城東郭(高城)と西郭(妙泉寺背山)

向田川に架かる一ツ橋を渡って向田川沿いには七不思議の一「しずく松・ゆるぎ松」 伝承と松原城が在り、志賀郷町に入った集落中央部の西丘稜上には 天王山城が在り順次・訪城するつもりです。此の物部郷の中央を由良川へと流れ出る犀川は上原氏(物部氏)の出身地信濃国諏訪郡上原郷(茅野市)の犀川の名が付けられたものと云われます。

妙泉寺参道(仏南寺城側)から望む御領城と有岡若宮城

建久4年(1193)源頼朝より丹波国何鹿郡の地頭職を得た関東御家人:上原右衛門尉景正が【源平合戦よりは其の後:承久の乱(1221)の戦功によるものか新補地頭として】来住したとされます。諏訪神社神官の家系の上原氏だけに、此の地の諏訪神社を祀る城跡や諏訪神社関連の伝承には。 上原氏とも深く関わってくるように思えます。
松原城の土塁・空掘から横掘に繋いで主郭を捲く

浅根山城・北野城や今回訪城の天王山城・狭間城・松原城等は応永年間(1394-1428志賀頼宗が何鹿郡の吾雀(あすすぎ)庄<旧志賀郷・向田・別所・西河内・内久井等>を賜り、 志賀郷に入った国人領主で、城山麓に菩提寺の北野山養源寺を創建、山上に北野城や天王山城を築いて居城し志賀姓を 名乗ったとされています。一族には大永年中(1521-28)天王山城主の吾雀入道安盛や次良左衛門尉が大永2年 (1522)幕府管領で丹波国守護職:細川高国に仕え享禄2年(1529)丹後田辺・田造郷 (舞鶴市西舞鶴地区)の代官職になった者などがいるが、永享年間(1429-41)以後:丹波守護細川氏の臣として丹波守護代にあった内藤氏に代わって、
天王山城:興隆寺からの堀切道と東曲輪

管領で丹波守護:細川政元の政権下にあって内藤元貞が罷免され・文明14年(1482)~明応4年(1495)頃まで上原(物部)元秀と其の父賢家が 丹波守護代となっています。何鹿郡吾雀庄の国人土豪は此の時期威勢を示す上原氏傘下に入ったのでしょう。細川政元の近臣にあってか?、突然現われた賢家・元秀父子を除いては、政元の隠居し澄之の代となる永正3年(1501)頃:再び丹波守護代を歴代内藤氏が継いで以降、当地に於いて上原姓はのこるが、在地領主 ・城主としても上原氏動向は不明の様です?。
有岡橋から有岡御領城(中央民家背後)152mピークの南東丘陵端


守護代上原氏により地頭・代官の職を取り上げられ、土豪達が領地を横領されたりと…、文明年間の悪政には和泉国 ・摂津国・山城国・・と畿内に国人一揆が勃発しています。延徳元年(1489)丹波国にも位田城の位田・荻野・ 須知・大槻氏等が拠った 位田の乱が起こり6000の軍勢に対し僅か200人で1年を籠城して戦ったが、明応2年(1493)落城したという。地頭職や代官職を奪われそうになった丹波の国人衆が守護細川氏:守護代上原氏に対して 激しく抵抗して4年間も続いた大規模な丹波国一揆です。
仏南寺城はへ妙泉寺から空掘状の緩斜な谷筋を鞍部に向う

此の位田城山麓の東約1.2~1.5km範囲に位置する有岡若宮城・有岡御領城・仏南城が在る。位田城との関連は、城史等資料を未調査の為不詳だが、位田城の東口(大江町 ~由良川河口・舞鶴田辺方面や、若狭小浜方面や山陰街道和知町方面から由良川沿い北(左岸)からの侵攻に対して守備する城砦群だったか?。大槻氏等の何鹿(いかるが)郡国人領主の城とは思われますが、仏南寺城は此の要衝の位置に在って 縄張り特性からも陣城として使用されたものと推察します。



 狭間城 松原城 天王山城  有岡若宮城・有岡御領城・仏南寺城


狭間城   xxx山 114m 三角点   綾部市向田町大芝原・白道路町狭間

犀川は物部城に近い物部交差点付近で 南へ大きく流れを変えて由良川に流れ出る。交差点を西へ進めば府道9号が丹後一色氏領地の 旧加佐郡大江町に通じる。上原(物部)氏は此の地の一部をも領していた。東北へは府道490号犀川源流から登尾峠を越えれば舞鶴市。東へは位田城の北を抜ける府道485号はJR舞鶴線が並走するR27号の梅迫・黒谷に接続して舞鶴市田辺城下に出る。
狭間城:主曲輪から東へ曲輪ごとに空掘が区切る

物部城から府道485号を東へ約2Km・志賀郷に入った 浅根山城の東約1kmに狭間城が在りました。武士(もののふ)とは物部氏の”もののべ”から転化したものと云われるほどの 豪勇を誇る家筋の上原(物部)氏は管領細川氏の家臣団の一人で志賀郷諸城の城史は不詳ですが明徳や応永の乱の戦功に拠るものか !!?・応永年間(1394-1428志賀左衛門頼宗が 何鹿郡の吾雀(あすすぎ)庄(志賀郷)を賜り入部していますが、
主曲輪と二ノ曲輪を区切る空掘と北面の切岸

既に物部庄の国人領主で管領:細川氏の近臣にあった上原氏が近隣国にも覇勢を誇っており、志賀郷の領主達も上原氏に下りて自領安堵を得ていたものか?。文明~明応年間・丹波守護:細川政元の臣:上原氏元秀 ・賢家父子は丹波守護代ともなっており狭間・松原・天王山城等志賀氏の諸城は上原氏の本拠 物部城の支城 ・城砦群の一つとして機能していたものでしょうか。狭間城への登路は向田町へ丘陵鞍部を抜ける峠道からが判り易いが、

狭間城:二ノ曲輪北の竪堀!?

丘陵部最西端が志賀郷町に向う車道に落込む所にDoCoMo通信中継塔が建ち北山裾沿い農道から湿地・貯水池側 ・浅い谷間に向う踏み跡から緩斜な藪の尾根筋を辿る。尾根の傾斜が増してきた急斜面最上部に 3~4m程の切岸を見る平坦地形が狭間城主曲輪で、114m三角点石標が埋まる最高地点でした。主曲輪・二ノ曲輪・三ノ曲輪へと僅かに高度を下げながら曲輪毎を空掘・で区分している。
二ノ曲輪・三ノ曲輪間の浅い空掘~竪堀!?

北面の崖状急斜面側から竪堀らしいものが1~2条。尾根上の緩斜面に曲輪を分ける埋まりかけ浅くなった空掘は、其れでも曲輪両端部では堀切・竪堀となって斜面に落ちていく。比高50m程 ・攻めるには然程急斜面でもない尾根上の曲輪は、形状は残るが切岸や土塁を築いて防備を補強している部分や曲輪間を結ぶ縄張りに腰曲輪や虎口等の技巧 ・工夫は見当たらない。尾根筋鞍部の深い堀切道を感じさせる峠上まで曲輪跡と思える数段の平坦地形は有るが、主曲輪から鞍部峠道までの 東尾根は緩斜面の曲輪を並べているだけ?。
狭間城東尾根鞍部の堀底道状の峠

上原氏の支城群ではあっても 城の造築 ・改修補強は許されなかったか?、単に領内庄園監視にあったものか?。堀底道の様な鞍部は地区の北・向田町と南の白道路町側を結ぶ道。南へ降りてきたところで農作業中の人と 挨拶を交わす。西方約1km地点の浅根山城は公園化されていて御存知でしたが、 目前の里山が城山とは御存知なく良いことを教えてもらった…と。志賀郷に伝わる”七不思議”の伝承には詳しくて、
狭間城東への鞍部:向田町・白道路町側を結ぶ峠道

狭間城の北方 ・向田川沿いに次に向う予定の松原城とは僅か150m程・地区道を隔てた丘稜東端に七不思議の一「しずく松・ゆるぎ松」が有ると言うので寄ってみる。 「諏訪大明神の柿」の案内看板を見て、此れが志賀の里七不思議の一つだった。近在の浅根山城・狭間城・松原城・天王山城・北野城等は上原氏の支城・城砦群として機能したものか?。向田地区集落100数軒の内、上原姓が20軒程在るとも聞いた。 天正期:明智の丹波攻めには織田方に付くが”丹波平定”を前に丹波氷上 (丹波市)黒井城主赤井直正に破れている。上原氏には此の地に帰農した一族もいるのでしょう。

(綾部市遺跡地図 ・市教育委員会を参照)



松原城   xxx山 Ca80m   綾部市向田町城木田

物部城の東・犀川を渡る物部交差点の手前で府道485号線を東走して白道路町に進む。 犀川がコの字に屈曲して流れを変える内部に浅根山城が在り、 向田川が犀川に合流する地点も此処。向田川沿いに東方には田園が拡がり1km程先には 浅根山城に呼応するかの様な比高4~50mの低丘陵が見える。丘稜西部の山頂部に在る狭間城を訪ねた後 ・車道を北方へ抜けると向田川に架かる一ッ橋を渡り、
松原城の土塁と空掘・空掘は南面で横掘(手前と帯曲輪に繋ぐ

正面の丘稜を左に廻りこんだ先500m程先が志賀郷町の中心地。 天王山城も府道490号の交差点西の丘稜上に在る。天王山城を訪寝る前に松原城に向う。一ッ橋を渡った先の丘陵裾を東に採って向田地区に向う。右折して直ぐ若宮神社参道入口下に着く。此処に「志賀の七不思議」伝承の位置と簡単な説明文を記した大きな絵看板が立つ。此の若宮神社にも”白萩”だったか?の伝説が残る様だが先を急ぐ。
松原城:主郭の大土塁と横掘(左切岸下)

公会堂だったか地場産の集配センタだったかの手前で、 田圃の拡がる南側の農道隅に「七不思議:志津区松」の標柱を見る…が「志津久松」へは地区道も少し東からの道を進む方が判り易いと聞く。上向田バス停の前から南の丘稜を目指し、松原橋を渡った正面に貯水池・右手(西の丘稜末端部に”しずく松・ゆるぎ松”<共に古墳>があり左手(東側)の向田川を自然の濠として 取り込んで丘稜端を落としている松原城の城史は不明ですが志賀郷の諸城は全ての道が物部城に通じる・・!!?、
松原城・主郭南の切岸と横掘・帯曲輪

として上記プロローグに志賀氏や物部城 :上原氏との関連を推察してみます。 向田川に沿った低丘陵の先端が舌状に延び出す藪の西端部に松原城が在りました。 丘陵南側沿いの地区道を右の折れ、その先の集落に向う反対側・田圃の畦道が続くが4~5段の休耕田の奥2段は墓地としての使用地の様。其処から西末端迄が、現状では遺構を止める城域です。
松原城:主郭北面の竪土塁!!(上り土塁)

墓所から低い段差で西に藪の平地が続いて、 尾根幅いっぱいに延びて曲輪を分ける土塁を見る。此処までの東側は開墾によるものと思える改変で縄張り遺構は不明ですが、土塁は空掘を挟んで主郭側にも有り、空掘底からの切岸を2.5~3m程と高く積上げる。 空掘は南側へ廻り込み主郭の切岸下を横掘・帯曲輪を西へと廻しています。松原城から上向田バス停に戻り、西北方へ斜上して真福寺(曹洞宗)前を小峠に進む。低丘陵部を抜ける峠を下り 天王山城の在る志賀郷町に入る。
(綾部市遺跡地図・市教育委員会を参照)


天王山城   城山 104m(4等 点名:興隆寺) 綾部市志賀郷町城山・西山

向田町の松原城から戻って次の予定:天王山城に向い、上向田バス停付近から西北へ斜上し、真福寺前を通り低丘陵鞍部越えの小峠を 志賀郷町に抜ける車道を下り犀川を渡ると志賀郷JA支所前。最初に訪れた狭間城から松原城への丘陵裾を縫う地区道他 ・地区内で見かけた”xxxx市”の幟幡が 道筋に立てられていたのは、此のJA支所をメイン会場とした” xxx日市”。
天王山城・興隆寺裏手の大土塁

毎月なのか知らないが定日に実施されているらしい。 地元・近在の人々で賑わい送迎バスもピストン運転される程の盛況で当地特産等を主体の「市」が開かれる様です。 此処に来る途中に寄った”しずく松”や北野城の柿等、鬼退治伝説で知られる麻呂子親王(此処では金丸親王とされていますが!!)

天王山城主郭西南面の 主郭下腰曲輪に入る上り土塁虎口!?

所縁の”志賀郷の七不思議”伝承が残り、 親王の子孫 :金里宰相が夫々五社にお手植えされ祈願された茗荷・竹(筍)・柿等を題材とした名産や特産品の他、 イベント等が周辺で行われています。地区内の郷史・資料等に諸々の山城
(JAの西僅か200m程:興隆寺を城域に含めて丘陵上には天王山城が在り、
主郭南東の虎口受曲輪と平入虎口

しかも広い主郭・土塁・竪堀・畦状竪堀と山城の特徴と遺構が良く残るが)の記述は不明ながら”志賀郷の七不思議”については ・夫々の奇瑞は失われたとしながらも、確りと七不思議伝承だけは現在にも息づいています。 勝手のわからない 地区内の狭い道なのでJAの駐車スペースか府道490号線の交差点を左折して、府道沿いに少し南下すると役場!?があり、車道右手にも広い駐車スペースが有る。
主郭部西南端から西北へ延びる大土塁(中央奥)

天王山城への取付き点となる尾田山興隆寺(高野山真言宗 ・本尊 :薬師瑠璃光如来・不動明王)にも寺院専用の狭い駐車場があるがイベン時の駐車は無理かも知れません。 寺の駐車場から直ぐ急な石段を上って 興隆寺本堂・庫裏の境内に入る。本堂北側から背後の丘陵に向う堀底道状山道の 東北面に数段の曲輪が、西南側(興隆寺裏手)の急斜面・・
主郭南東:虎口受曲輪下の土塁と空掘

(上部は広い2段ばかりの削平地)前の藪地の中に大土塁を見る。土塁裏から上部曲輪への通路があるのかも知れません?が、 城跡の南端部に有る大土塁は櫓?・出撃用の武者溜り(武者隠)とも思えます。 堀切道は此の大土塁後ろの急斜面上の曲輪沿いに、藪っぽい斜面の踏み跡を辿り、主郭南東端の虎口受曲輪に入る。
主郭の大土塁は北端(正面)で折れ:西面(左側)は急斜面で切岸も高い

斜上する平入虎口から広い主郭(東西・南北共に 4~50m程)に入ると、藪・下草に覆われた曲輪全体の内部(曲輪を区分する土塁 ・空掘・曲輪の段差等)状況は把握出来ないが、 高く急峻な (15~20m程)切岸を立てる主郭北面には 大土塁が廻わる。此の幅の有る大土塁の上だけに、拳大の小石が散存している。
主郭大土塁上に散存する石礫!!?

西北面の急斜面に竪堀や畦状竪堀が集中しており、攻め寄せる敵兵への防衛投石用の石礫なのだろうか?。下方の腰曲輪には上り土塁(虎口!?)も見える。さらに半独立丘陵状を形成する深い鞍部の下方麓に向って 3~4条の畦状竪堀も有る。主郭南端の虎口から南東下方には、埋もれかけた様な浅い空掘が二つ並び、 中程を土橋で分けるが空掘りの幅は狭く、 山道かと思えたほど。片側は土塁道が長く延びるだけで曲輪と思える削平段は無い。
天王山城:北東尾根上曲輪の大土塁

急斜面の尾根筋に幾段かの段曲輪が続くので、虎口受曲輪下段にある此の防衛施設は塹壕なのかも?。応永年間(1394-1428<応永25年1418!!?>)志賀左衛門頼宗が初めて何鹿郡の吾雀庄を賜り、 志賀郷の領主として来住し鎮守として諏訪神社を勧進し、城山の台地に菩提寺の北野山養源寺を創建し、山上に北野(志賀郷町JA交差点から府道490号を北へ約1km犀川を渡る手前の細い車道正面:諏訪神社の背山)や此処天王山城を築いて居城し志賀姓を名乗ったとされています。 志賀氏は清和源氏頼政の流れと、 武内宿弥の流れとする二つの系図を伝え、
主郭西の畦状竪堀群

共に吾雀(あすすぎ)荘に入った国人領主で,志賀氏一族には大永年中(1521-28)近江?の吾雀入道安盛や次良左衛門尉が此の土地を奪取して築城(出自不詳 !?・ 志賀氏の城は上原氏に押さえられていたものか?、 守護代を追われた後は弱退していた上原氏に対抗したものか?)。志賀氏には大永2年 (1522)管領で丹波国守護の細川高国に仕え享禄2年(1529)丹後田辺郷(舞鶴市)の代官職になった者などがいる。
天王山城:北東尾根下曲輪の大土塁

さらに出自不詳!?ながら 其の後:代官田中石見守家次?が天王山城を奪取、秀吉に従って大阪城「夏の陣」に参戦したという。織田信長の「丹波攻略」の際には明智光秀に降りた志賀氏一族、其の後の田辺藩との関連等が判れば、 志賀郷に特異な天王山城(大土塁及び畦状竪堀)や浅根山城(特大の土塁囲みの曲輪)が織田方として丹波勢に対峙し、また周囲が殆ど豊臣方(西軍)にある中で、 徳川方(東軍)の田辺範細川方に付いた陣城となったものか?。
(綾部市遺跡地図・市教育委員会を参照)


有岡若宮城・有岡御領城・仏南寺城
綾部市街地の北方・由良川に架かる位田橋を 渡ったところに高城・低城の絵看板が立ち、正面に望む丘陵部に位田城の高城と低城、其の山域の北方の尾根筋や西山麓の車道を隔てた低丘陵部にも位田城関連の居館が在る。絵看板の立つ堤防を左右に分け降った府道74号線を、東に向と八田川を渡る。
有岡若宮城:城域部に直立する堀切道の上り土塁から取付く

L字状に大きく屈曲する八田川左岸(東側 )沿いの狭い地区道は、右岸に迫る丘陵152m峰から南東へ延び出す尾根先部に有岡御領城が在り、府道77号線の約150m程手前の地区道・有岡橋南詰めに出る。南方へは50m程で府道77号線に出て200m程・府道側に白く”日蓮宗妙泉寺”の大きな看板が見える。 忠腹部の本堂に向う参道沿いの南側低丘陵上は緩やかな起伏を見せて、妙泉寺背後から丘陵尾根に向う浅い谷筋を鞍部に着く。
御領城:空掘・土橋を曲輪に入る虎口!!

鞍部を南に下れば 仏南寺に通じるのでしょうが、 仏南寺境内一帯は建材が積まれ工事中(2010年7月)の為、直ぐ背山に続く筈の山道は未確認。丘陵部北面に廻って 妙泉寺から鞍部に向かった。 妙泉寺から東への緩斜面は直ぐ、主曲輪を空掘が廻る単郭に登り着く。 西への緩斜面上には土塁囲みの曲輪を経て最高所には帯曲輪を持つ小規模な主曲輪(20㎡程)。東西二ヶ所に異なる縄張り形式をもつ一城別郭?の仏南寺城が在った。
仏南寺城東郭:四方を囲む空掘西の土橋(上り土塁)虎口

全国の高速自動車道の内、2010年春より 試験的に無料となる区間があり、関西圏では中国道吉川から小浜西までの舞鶴自動車道が解放されており、此れを利用して綾部ICを下りれば、南へ600m程で有岡若宮城 …さらに地区内を南へ下った八田川沿いには有岡御領城…川の南方約300m田園の拡がる先の低丘陵先端付近には仏南寺城。時間の許す限り・由良川沿い両岸に綾部市から福知山市にかけての山城探訪に利用する際には重宝します。
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有岡若宮城   桧山 Ca75m  綾部市有岡町桧山・若宮

福知山方面からは舞鶴若狭自動車道を走り綾部IC直前に、山間を南東へ延びる低丘陵を抜ける。此の丘陵 尾根筋が152m峰(点名:御領)の先で二方に短い枝尾根となって一方を八田川に、一方を府道77号線から綾部ICへの分岐と、 府道一本西方の有岡町集落を抜ける地区道に其の先端部に落とす。八田川側に御領城が在り、 府道77号線から綾部ICに向かう入口付近に有岡若宮城が在りました。
堀切道上部の大土塁(正面)・空掘に囲まれた内側に幅広土塁状の主曲輪がある


おおまかな所在は上記有岡若宮城・有岡御領城・仏南寺城のプロローグに記しています。 綾部ICを出て府道77号線に合流する西手前・有岡町内を府道沿いに 南へ並走する地区道を約150m程?入ると有岡公民館が有る。 若宮城へは此処から丘陵北面の山裾を農道伝いに西へ向かう。主郭には社が祀られ南側からは石段参道で通じているが、集落内字名:若宮を探して細く屈曲した宅地の中の坂道を最奥の民家へ向うのは、
若宮城主郭:南側曲輪から主曲輪(正面)と主郭東曲輪側の木田河大明神の祠

土地勘も無い初登城では無理かも!!。公民館前から更に南へ約500m程で八田川に架かる有岡橋を渡ると府道77号線に再び合流する。御領城は此の八田川北詰めから 向うのが判り易い?。さて有岡若宮城へは公民館西側・低丘陵部末端部が7~10m程だが垂直に近い崖状を呈しており、 農道に続く東北角に大きな自然石の常夜燈らしい石造塔が有る。
若宮城主郭北面虎口?下付近から:横掘りと畦状竪堀群

火袋らしいものが無さそうなので”山の神”を祀ったものなのかも?。 急斜面の丘陵北裾に沿った農道左手にコンクリートブロックの 礎石上に小さな覆屋が建ち、内部には注連縄を飾る小祠と地蔵石仏が納まる。祠前から巡視路ではないが よく踏まれた山道に入っていく。TV受信設備は有る様ですが…其の為だけに此の様な道が有る筈も無いが、道はさらに広くなって(幅2m程だが)堀切道となり、東側の城域は垂直に削られた切岸は3~5mと高い。
若宮城主郭祠の北側:U字状土塁間の溝は虎口か?盗掘された古墳か?

堀切道は鞍部を越え折れて南側の地区へ降りていく。集落南北の連絡道?か、 若宮城主郭に祀られる祠への参道を兼ねた通路かも?。鞍部北側の”上り土塁”から単郭の…とはいっても規模の大きな主郭部に入る。上り土塁はそのまま長く延びる土塁線となり主郭部の広い平坦地形の東端へ低土塁を延ばして南側へ折れる。 此の土塁線に沿って北面に横掘と土塁(細い帯曲輪?)が延びています。
若宮城東曲輪下方の溝状通路?と竪土塁状は虎口か?

若宮城の最大の見所は此の主郭北端・横掘の外の帯曲輪状は幅が無く、幾条かの畦状竪堀の落口を割っており、 東曲輪まで延びているが空掘りは塹壕ともなり、其の土塁線なのでしょう。もう一つの見所は広い主郭部内をコの字状の幅広大土塁を廻した上に主曲輪を置く特異な縄張りで、近在の諸城に例を見ない?。…が祠を祀る主曲輪ぶ北側の円形部を割った溝状が古墳の盗掘跡 ・幅広土塁状に西へ延びる平坦地形も古墳関連なら、 御領城の主郭部に改修された桧山5号墳(前方後円墳=全長35m)。「御領は御陵}が転彙したものか!!。
若宮城主郭曲輪東端の低土塁と浅い空掘状(中央):手前段差下に東曲輪

最高所の主曲輪に祠が祀られ、南側に急斜な石段参道があり高い切岸を見せる。 南下部の広い曲輪は主郭部東側の曲輪ともつながり、堀切道内側の土塁・横掘で囲まれた主郭部は幅(南北約40m)X尾根沿い東西に約65m程の規模。主郭部東端から一段低い位置に東曲輪(高低差1m程 ・尾根幅約12mX東西約18mの緩斜面)がある。其の東末端にU字状の土塁に挟まれるように浅い溝状を見る。 虎口なら公民館前で見た常夜燈!!?付近からの急斜面(竪堀を堀底道とする等)に登路があったのかも知れません?。
有岡御領城へは八田川沿いの墓地から向う

城域の南面は民家に迫る東側半分は激急斜面で切岸高いが、西側半分は休耕地か・果樹園だったか?空地が広がり、主郭南側切岸下の曲輪同様に、 屋敷跡かとも思える。城史不明の城ですが畦状竪堀・竪堀・土塁等の防備が北面に集中しており、ユニークな縄張りの城遺構からは、北西方の物部城を本拠の上原氏や、丹後・田辺の一色氏・其の後の細川氏等との攻防を意識して、 改修に改修を重ねた丹波側国人の、陣城としての要素の強い最後の姿を止めた遺構の様にも思えます。
(綾部市遺跡地図・市教育委員会を参照)


有岡御領城(有岡城)  御領ヶ尾 Ca100m(点名:御領152mの南尾根中腹)  綾部市有岡町御領ヶ尾・岩欠・庄田

有岡・多田・高倉等集落のある吉美(きみ)荘は 鎌倉時代(建久1190~)は大和国西大寺領だったらしいが、年貢は僅か5石の小さな荘園で、ほとんどは木幡位田 (官領地!?)に組み込まれていたものと推察されています。 「御領」の名からは寺社の荘園ではなく皇室の・また後にあっては幕府直轄の天領だったものか?。 舞鶴若狭自動車道が抜ける東方 ・有岡の丘陵尾根筋が152m峰(点名:御領 )の先で短い枝尾根となり綾部IC寄りの
御領城:空掘・土橋を曲輪に入る虎口!!

府道77号線付近に延ばす先端付近に有岡若宮城。 一方は点名:御領から南東へ延びて八田川に先端を落とし込む尾根中腹(御領ヶ尾)標高90~80m付近には源頼政の地頭で杉山和泉守政国が築いた有岡御領城(有岡城)が在ったとされます。 府道 77号線を東へ渡り八田川沿いの府道74号線を進むと多田町(摂津多田荘の摂津源氏・清和源氏の始祖>が有り、 高倉町(此処には高倉神社が有る)を抜け安国寺町でR27号に合流し、JR舞鶴線梅迫からは平走して西舞鶴に至る。
御領城:斜面上に曲輪切岸を見る…


梅迫から峠越えで府道1号(小浜綾部線)に出て君尾山光明寺へも通じます。歴史的背景は知らないが有岡の御領の地名・杉山政国 ・多田・高倉・君尾山へと、此のルートに関連する伝承 「綾部の昔話」等が有ります!!。平安時代の末期「平家にあらざれぱ人にあらず 」とまで云われ、平家一族全盛の世で栄華を極めていた。平清盛は既に太政大臣の職を辞していたが、専横ぶりは益々激しさを増し治承3年(1179)後白河法皇を鳥羽殿に幽閉し・翌4年:高倉天皇(以仁王の異母兄弟)を退位に追込み, 自らの孫を安徳天皇として即位させた。
御領城の竪堀

皇室をも蔑(ないがし)ろにする挙動にと奢る平家への不満・怒りは全国に拡がり、治承4年(1180)4月:後白河法皇の第三皇子以仁王(高倉宮 ・兄の守覚法親王が仏門に入ったため第二皇子とされている)は 源頼政 摂津源氏・源仲征の嫡男で、歌人として知られ、保元の乱(1156)には後白河天皇方に付き勝利するが 平治の乱(1159)には義朝ら源氏に背を向け、平清盛らと行動を共にし、平氏の政権下にあって中央政界に留まり、 清盛の信頼を得て従三位に昇進した。
御領城:尾根筋南斜面下部に2~3段の細長い段曲輪を見る

杉山政国は其の六男と云う!!】と謀って、 全国に「平氏討伐」の令旨を下し、勤皇の兵を挙げたが計画は露見して源頼政は宇治川の合戦に敗れ平等院で自害、以仁王も山城国へ逃れたが加幡河原(木津川市山城町・平家物語では光明山寺)戦死したとされます。 ところが綾部市の伝説に:死んだのは付き添っていた若武者 :藤原俊秀が影武者となって奮戦して最後を遂げた。
御領城:登り始めて直ぐ土塁道・小曲輪群を抜けていく

大槻光頼、渡辺俊久等十数騎の家来に護られた以仁王(高倉宮)は、宇治川に自刃した源頼政の第六子杉山政国の案内で摂津~丹波へ入り、頼政所領地の何鹿郡(綾部市)吉美郷有岡(南丹市日吉町も所領<田原城の項参照>)を目指して落ち延びた。 しかし十日余りの逃避行に、以仁王が戦に受けた矢傷は次第に悪化し、29歳で他界された。
御領城:城遺構を見ない尾根筋の広い平坦地はTV共聴施設

息を引き取る前に以仁王は、 吉美郷の村人達の歓迎に礼を言い「後世、腹痛の悩みは万民に代わって吾が救わん」と言い残したと云い、 翌:養和元年(1181)9月には有岡城主:杉山政国の尽力により、 吉美郷高峰多谷が森(奥谷の森)に以仁王神霊を祀る高倉神社が創建された。家臣十二人は夫々に 郡内に土着したと云い、現:高倉神社境内には十二臣を祀る十二士神社が、以仁王を護る様に建立されている。
仏南寺城 :東郭の空掘

以仁王が落命した光明山寺に程近い木津川市山城町にも高倉神社が建つ。鎌倉時代以後の有岡御領城の城主・城史不明ですが、此処が杉山政国の有岡城か別所に在ったものかも不詳です。 城跡へは有岡橋北詰から八田川沿いに200m程、民家西外れの墓所から雑木混じりの竹藪を丘陵に向うと 直ぐ土塁道を進む。削平の粗い小曲輪群を抜け、空掘の土橋を渡る虎口部に切岸を立てる曲輪を見て、やっと山城を体感?。
仏南寺城:西郭の土塁を廻す東入口部(虎口!?)

更に上方に切岸を落とす曲輪を見るが、尾根筋近くに三段ほど細長い曲輪を見るだけ。尾根上西端に深い雑木に囲まれ下草藪に覆い隠された小広い平坦地形が有るが有岡テレビ共聴組合施設の受信基地。 尾根上に主郭と思える場所は他に無いが、此処が其れとも思えず!!、市遺跡地図には無い点名:御領152mピークが地形図からは気になるが、受信施設から先への難行・苦行を想像しただけで引き返し、細長い曲輪から先の枝尾根沿いに南下途中に竪堀を一本見て 八田川に下り立った。

(綾部市遺跡地図・市教育委員会 丹波の荘園 京都丹波・丹後の伝説「京都新聞社」Wikipedoa等を参照)

仏南寺城  xxx山 81m   綾部市里町小南

由良川沿いに位田城の南側麓:府道74号から 白瀬橋を左折して府道77号線を北上する緩やかな登り坂を約300m程進むと左手に”市指定文化財 「平安古仏の微笑み古刹佛南寺綾部西国第七番観音霊場」”の看板を見る。寺宝の虚空蔵菩薩立像は平安時代初期:貞観年間(859-877)の様式を示す10世紀頃の作・大日如来坐像は金剛界大日の智拳院を結び平安末期の作。
仏南寺:背後の丘陵上が仏南寺城東郭

仏南寺の前方に見える小峠:丘陵鞍部末端部を崖状に削って府道77号線が抜ける。 其の丘陵上部に仏南寺城が在った。仏南寺境内周辺は寺院関係の 建築工事中で仏南寺城へは此処からではなく、小峠を越えた丘陵北側の妙泉寺から向ったが府道側に広い駐車スペースが有り、本堂から庫裏側へ廻れば緩やかな谷間を仏南寺側に通じる?と思われる鞍部に着くが、左右に分かれる山道の先には夫々に 東郭と西郭がある。
仏南寺城東郭北面の主郭切岸と浅い空掘・土塁

近接しているだけに 其の縄張りの異質さからビフォアーとアフターとして比較出来ない違いが有り別城とも?・一城別郭?とも旧城・新城とも思えないが城史一切が不明の為 ・西郭と東郭併せて仏南寺城とします!!?。”阿日山仏南寺(臨済宗妙心寺派)”は往古:「六国史」の”三代実録”の貞観5年(863)6月3日の条に【以丹波国何鹿郡仏南寺為真言院 「即付国司検校」】と国によって真言院とされ、国司の監督をうけた官寺であった。
仏南寺城東郭南(空掘土橋‹仕切り土塁?手前›は虎口?

真言宗に属し七堂伽藍が建ち隆盛したが、室町末期には荒廃し万治年間(1658-61)に再興されたが 火災に遭い焼失・元禄年間(1688-1704)に再建されたという。
城史に関しての詳細は一切が不明?。比高30m程で丘陵先端部を割いて通じる府道側を除いて、低丘陵南側の仏南寺・北側の妙泉寺背後から緩斜な、
仏南寺城東郭西南端:上り土塁虎口と空掘

比高20m程の鞍部に向うのが常道!!。”案ずるより産むが易し”で御領城を降りて来て 八田川に架かる有岡橋から望む、仏南寺城山裾に建つ妙泉寺からは本堂前か庫裏!!へ…そのまま緩斜な堀底道状 (自然地形)の谷間を進むと程なく鞍部に着く。鞍部から東郭内までは比高約10m足らず。単郭は一曲輪(幅・南北約15mX東西35~40m程)の外周を空掘と土塁を廻し、
西郭:土塁囲みの奥に広い不整地・其の奥に主曲輪

曲輪西南端と南面中央付近の二箇所に、曲輪に入る仕切土塁(土橋)虎口を設けている。東郭の曲輪上には現在:日蓮聖人の開宗700年記念 (顕彰)碑が立ち、周囲に無縁仏?や五輪塔残欠が寄せ集められている。 曲輪側は周囲の土塁は見ないが 空掘底へ切岸(2~3m)を落とす。空掘外側は土塁を盛り上げ囲うが下方へは妙泉寺への参道や…府道77号線側を麓まで急斜面を落とす自然地形。
仏南寺城西郭:土塁囲いの曲輪

尾根先端部が府道77号拡張等の開発・造成工事で 開削されており旧城の規模や縄張り遺構は判らないが、現状の城跡規模からは空堀土塁の外に腰曲輪・出曲輪等の城遺構が 付随していた様には思えない。妙泉寺からの鞍部に戻り今度は尾根を西に向う。 東郭では空掘が廻り、土塁(土橋)虎口を主郭に入る。外周の空掘土塁・曲輪の切岸等の遺構は崩れ・埋もれ浅くなってはいるが居館か陣城遺構は粗完存状態です。市の調査がはいっているが報告資料閲覧の期を未だ得ていない。
仏南寺城西郭の土塁

一方100mと離れていない西郭部は市の遺跡地図(1998.3)には空白の城跡です。縄張りは大きく異なり近接してはいるが別城なのか?、 一城別郭の東郭部を後世に改修して使用されたものかは、城史一切が不明です。最初に一辺が開口する虎口?土塁 (崩れ流れて切岸等はっきりしない!!)で囲まれた小さな曲輪に入る。土塁を越える周囲の曲輪も削平は粗く自然地形のままか?、雑木下草も少なく観察し易い状況ながら、曲輪区分の段差も不明瞭。
仏南寺城西郭主曲輪 :帯曲輪と西端の曲輪

自然・風化するに任せた遺構は西郭最高所に20㎡程の円形主曲輪を置き、崩れかけ僅かに低土塁の残欠を見る。東西二ヶ所に異なる縄張りを一城別郭とみるより、 東郭が陣城・西郭は城館というより兵の駐屯所!!?。位田城に籠城する地侍を攻める守護代 :上原氏方の縄張りとも思えず、府道77号が舞鶴・若狭への進軍筋?にあたるのなら、当地に勢力を持っていた大槻氏を頼り・管領細川政元の命で若狭の一色氏を攻めた際の防衛拠点 ・高津城等の前線基地であり通行監視等にあたったものか?、八木城:内藤氏の天田・何鹿郡への侵攻や、明智光秀の”丹波攻め”には大槻氏の城塞群に由良川 ・八田川を挟んで対峙したものか?。
仏南寺城東郭東面(主郭・空堀・大土塁)

福知山城主:小野木縫殿助(重勝)を大将に田辺城の 細川氏を攻めた関ヶ原前哨戦にも使用されたものか?は不詳ですが…京都府埋蔵文化財調査研究センター発行の情報誌等に調査報告が発表されている。記事を拝読する機会がないが、 遺構調査だけでなく歴史的な検証内容であれば、此のあたりの事も判ってくるのかもしれません!!?。
(仏南寺由緒<綾部の文化財を守る会>説明板 綾部市遺跡地図・市教育委員会を参照)
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