南丹市園部の山城2 千妻城・諏訪山城・太鼓山城・半田城館と半田城


 近畿の山城千妻城  諏訪山城 太鼓山城  善願寺城 半田城館と半田城

朝倉神社の大杉と千妻城  xxx 237m  南丹市園部町千妻朝倉

天引峠を越え府道54号からR477号へ進み「河原町」で右折・府道19号の京都丹波自動車道路の高架を潜り道の駅”京都新光悦村”前を過ぎ園部IC出入り口の先で右折して、朝倉神社の大杉を目指す。
朝倉神社「千妻の大杉」

朝倉神社の神木は千妻の大杉とも呼ばれ親しまれ保護されてた樹高30m・幹周9m・ 府下最大級の神木は京都府指定(昭和59年〈1984>4月14日)天然記念物で、京都の自然200選の一としても平成3年(1991)6月14日付で選定されています。天保10年(1839)千妻村の氏子達が"境内の杉を神木"とするため、園部藩の御山方奉行から10両2分で買請けた際に交わされた証文「奉買請御帳木之事」が現存し当時:幹囲1丈5尺2寸(約4.6m)であった実測値が残り、天保10年から 140年あまりの期間に幹まわりが約4.4m増大し、
主郭部北:帯曲輪上の櫓台土壇?

太さとしてはほぼ 2倍に成長したことが分かる事でも貴重なもの。朝倉神社の創建は永禄12年(1569)天之忍穂耳命を御祭神とする千妻村の鎮守。戸数も 少ない氏子達にとっては大枚・安くもない買い物だが、創建時に若木が植樹されていたとしても樹齢300年。既に神木としての風格?が備わってきている筈なので、落雷等で枯れ死したものか?、新たに神域にあった巨木が神木として 必要になったのかも。
空堀?(手前)を挟んで主郭部北曲輪

此の朝倉神社と 大杉の傍からの尾根通しに"千妻城"をが在った。千妻城からは尾根続きに蟠根寺城(高屋城・蜷川城 )が在り、蜷川氏本拠の蟠根寺城支城群として西尾根の末端に千妻城 ・北尾根先端部には諏訪山城太鼓山城の出曲輪。其の北には藁無城・南には片山城等が本拠城を取巻いて守備していたのでしょうか?。築城時期・城主等の城史詳細は一切不明です。
土橋付き空切?

なを千妻城訪城の後:此処からJR船岡駅の南側・前回:諏訪山城の後で行き着けなかった太鼓山城へ向かうが船岡駅から 太鼓山城の取付き地点には、小丘(比高10m程)を越えるが・此の丘陵部に大杉神社がある。社殿は千妻の朝倉神社に正対している様なので”千妻の大杉”遥拝所なのかも!!?。 船岡駅からでも太鼓山城取付き点の車道を下り西南に約1km・徒歩約12-3分の距離だ。太鼓山城からの尾根通は長い蟠根寺城へも、 千妻城からは比較的短絡なので一挙に二城の効果的な城攻めも可能だが、梅雨明け近く不快指数の高い猛暑の中では意欲も失せ敢え無く退散…!!。
主郭部南曲輪:東尾根筋に長く延び出す

千妻城へは朝倉神社・大杉の傍から背後の尾根へ直接薄いが踏跡があり、下草藪は無く ・立木は枝打ちされている様で見通しが効く。 上り初めて直ぐ樹木のスリットを通して 上方に段差も削平状態も崩れて分かり難いが・幾段もの (7-10段程?)極小規模な曲輪段が続き、尾根上最高地点の主郭部北端曲輪に登り着く。
主郭部南曲輪:空堀を挟む土壇から 南尾根筋の曲輪段

中央に櫓台状土壇を置く帯曲輪は、主郭南曲輪との尾根筋に空堀状を挟み、南曲輪側から上り土塁 (崩壊し深さを失っているが土橋?)が北曲輪に通じる。主郭南曲輪から東へは尾根幅広く 緩やかに延びてゆく先に蟠根寺城(高屋城・蜷川城)が在る。南枝尾根筋にも削平段(曲輪跡 )らしい平坦地形があるが、北尾根筋の段曲輪程にも切岸等城遺構を感じさせない程の荒れ様だが、蟠根寺城域の前衛の城・出曲輪として機能したものかは。
(朝倉神社の大杉 現地案内板 :京都府&園部町教育委員会 を参照)

諏訪山城   xxx山 Ca195m   南丹市園部町船岡諏訪

府道19号線から 藁無城麓の林松寺・治宮神社への”六蔵前”三差路分岐から北へ100m程、府道19号線を挟んで南側の丘陵上に諏訪山城が在りました。 JR山陰本線船岡駅の西方から北に拡がるおよそ南北500mX東西450m程の半独立丘陵部東方の府道25号が府道19号に合流して、
諏訪山城二ノ丸の一文字土塁

北から南<日吉町方面からR9号(山陰街道) を園部町主要部>に向かう街道筋を望む位置に在り、尾根筋はJR山陰本線トンネルを越え一旦?丘陵を別ける車道を挟んで、 南向かいの先端付近に位置する太鼓山(未訪)から 蟠根寺城(高屋城)へと延び上がる山稜が控えている。JR山陰本線諏訪駅から船岡トンネル(諏訪山第一隧道)付近一帯が諏訪の森と呼ばれており、船岡駅からJR船岡トンネルに向かう線路沿いの幅狭い道 (林道?)を挟んで
二ノ丸

南側丘陵への取付きに「正一位:大杉大神」扁額の赤鳥居が見える。比高15m程?の細長い尾根上に 大杉稲荷神社が鎮座し、直ぐ降る先の車道南向い側の丘陵が太鼓山城?蜷川城(蟠根寺城)へと続く。”大杉”名は千妻城への取付きに在る 朝倉神社の大杉<京都府指定文化財>に関係しているのでしょう?(詳細は不詳)。此の大杉稲荷社に 絵付き神社由緒と思える「諏訪の森物語」が掲げてある。
諏訪の森(船岡駅近く)の大杉稲荷社

現実味?のある”昔ばなし”は日露戦争があった明治38年(1905)頃:鉄道建設の為にトンネル工事や底なし沼!!?を埋める難工事だった。若い女性に化身した 白狐が飯場に寝ていた若い男に恋をして毎晩やってきたが正体を知って殺してしまった祟りとか、 船岡トンネル工事では犠牲者も出たとかで、諏訪山の主:白蛇の祟りを鎮めるため明治41年(1908)伏見稲荷大社の分霊が諏訪の森に勧請されたとある。
三ノ丸と南郭間の土橋付き空掘

諏訪山城へは六蔵前集落の民家背後から短絡的に行けそう?だがJR船岡トンネル南出口付近からは藪も凄いが立入り禁止フエンスで取付けない。トンネル北出口側:JR船岡駅ホーム端(園部駅側)の北西側の墓所から尾根先に取付けそうですが、府道19号線側からは丘陵北東裾を船岡駅北側へ通じる小道があり、
諏訪山城主郭南端を囲む土塁

小路を辿る中程から少し下り始める辺りから踏み跡を辿り、枝尾根筋を北末端曲輪と主曲輪間の ”二の丸?(北端に一文字土塁が有る城域で 一番広い曲輪)”の土塁側に登り着く。南北約500m程の半独立丘陵尾根上の殆ど全域? (およそ300m程)を縄張りとして曲輪・土橋付き堀切、 二の丸には北端を一文字土塁・主郭南端は三方を土塁が囲む遺構からも、近在の城では蜷川城に次ぐ大規模な城郭。主郭から東への枝尾根側は長い自然の平坦地形を曲輪として2-3段あり、
主郭東尾根続き:二本の土橋付き空掘

船岡駅側の小さな墓地に 降り立つ様だが主郭下部の堀切には 二本の土橋が付き、主郭下部を捲いて主郭南下の土橋付堀切に通じる通路を三の丸?(主郭と南端の南郭を空掘で別ける二の丸と同規模の広い曲輪)への南曲輪群に入る。船岡駅・諏訪の森側からが大手筋だったのかも?。


太鼓山城  xxx山 Ca200m   南丹市園部町船岡池上谷 ・戸坂

現地までの訪城ルートは諏訪山城を参考にJR山陰本線船岡駅南東口の”船岡駅公園”からスタート。線路沿いの極狭い林道を進み、船岡駅ホーム南西端付近で”諏訪ノ森”の大杉稲荷社への赤い鳥居の参道口をとり、直ぐ上方(比高15m程!?)尾根上の稲荷社を南へ降りると東側の府道25号線:
船岡駅公園から太鼓山城(中央)・左手奥に高屋城

川辺小学校付近から峠を越えて園部町千妻
(千妻城への取付き点:千妻のオオスギで知られる朝倉神社近く)へ通じる車道に出る。土地勘が無く此のルートを知らず府道19号から府道25号に連絡して船岡駅を目指した次第。峠付近に路駐は無理だが 南西側の坂下に農地が拡がる様。峠越えの通行車両は比較的少ないので 路肩にスペースが有れば路駐は可能かも!?。
北郭の空堀土橋

大杉稲荷社を降り立った峠の車道向い ・コンクリート砂防壁に囲まれて7-80m程の鹿避けネットが張られているが、砂防壁の端とネット部の端の 隙間から侵入出来た。侵入口からホンの数 mで二箇所程に踏み跡(獣道かも?)が有る。 個人山らしく余り手は入っていない様だが、急斜面の割には雑木や下草藪が少なくて、歩き易く疎林で見通しも効く。
土橋から方形窪地形・主郭切岸裾沿いに右手へ斜上する登城道

幅広い(約8-10m)緩斜面の尾根上に出ると其処が既に城域北郭部!!。切岸も崩れてか・傾斜した低い段差上部が北主曲輪?。曲輪東面半分は四方形の広く窪んだ武者隠し状?の曲輪。北尾根から侵攻する敵に波状・一斉攻撃、駐屯・軍需品の貯蔵等 …効果的な使用用途は考えられる…!!?。
主郭北東端からの櫓台状大土塁

其の窪地端に土橋が架かり西側曲輪端まで延びる 空堀はそのまま西斜面に竪堀となって落ちる。土橋を渡る曲輪は尾根筋に対して幅狭く虎口受曲輪と思える。急斜面上の中央郭(主曲輪)主郭へは、 虎口受曲輪から主郭部の東面を大きく廻り込んで 南東側から斜上する様。此の主郭南側切岸下には簡易配水施設が建つが、
主郭南側からの櫓台状大土塁

西下方から施設巡視用らしい山道が登ってきている。施設の造成建設で改変されているかもしれないが曲輪規模は現状の近い規模(10mX15m程)と思え、主郭に次ぐ重要な曲輪(二ノ曲輪)と思え、 此処から独立した単郭の主曲輪(約15mX20m程の)に入る。眺望は無いが直ぐ東下方から人声・走行車音が聞こえてくる。東山裾の府道25号線を挟んで 東側に川辺小学校・主郭部から東約400m地点南北に桂川(大堰川)が自然の濠として要害を成している。
南郭からの主郭

配水施設のある南曲輪からは造成時に低い段差から南尾根へは自然地形の緩斜面が延びるが、 先端付近が竪堀状。土橋状の下部で竪堀状は二本に分かれるが、尾根沿いの一本は 千妻側の貯水池付近から太鼓山と高屋城側への南郭鞍部に登り着く堀底道の様にも思える。其れなら本来の大手道だったかも?。太鼓山城 蜷川城(蟠根寺城・高屋城)からの北尾根続きの先端部に位置し、 更にJR山陰本線船岡駅を挟んで北側の半独立丘陵上に在る諏訪山城とは呼応する北方警護を固める城砦。
南郭部最南端部?:土橋下部に二本の竪堀?

蟠根寺城の西尾根先端には 千妻城が在る。太鼓山城・諏訪山城・千妻城…は蜷川氏の本拠 ?:高屋城から派生する尾根先に分布しており、自ずと高屋城を本城とする支城砦群の一つ・其々の登城口を堅める出城・出曲輪の機能を兼ね備えていたのでしょう ?…がいずれの城砦も其の築城時期や城主等の城史は不明ですが、城名からは此れ等周辺の城塞群への通信手段として”太鼓”が利用されていたのでしょか?。


善願寺城  xxx山 247m 南丹市園部町曽我谷上岩崎・木崎町中岩崎

小山城(五合山城)とはJR山陰本線園部駅・R9号線(山陰道)・園部川を挟んで京都縦貫道(京都丹波道路 )が走る北東方の低丘陵部 (標高247m)の主郭を中心に南北の尾根上に平坦地形はあるが、主郭部北尾根側に2-3段の曲輪切岸のみが城遺構を留めるだけの 善願寺城が在る。城址の西北麓・京都縦貫道(京都丹波道路)傍近くに在った善願寺廃寺は平安時代初期:延暦15年(796)征夷大将軍:坂上田村麻呂が如意輪観音を祀ったことに始まったと伝えられるが、
大蔵寺

天正期の織田信長命 「天下布武」による”丹波攻略”の明智光秀軍により善願寺は焼き討ちされたという。善願廃寺の西方に教泉寺が在り粗中央部を 南北に流れる陣田川が約600m下流(南)で園部川に流れ出るが、いかにも合戦場であったかを偲ばせる。園部城・蟠根寺城(高屋城) はじめ天正6年(1578)頃:船井郡・南丹市一帯の城を滝川一益・丹羽長秀等と共に攻めた明智光秀の丹波攻略により善願寺城も落城したものか!?。 データベース化された京都府文化財 ・遺跡マップで存在と位置が確認出来るが、築城時期や城主等の城史一切が不明です。
白龍稲荷社

園部町曽我谷の大蔵寺から善願寺城址へ続く尾根上に琴平宮・白龍稲荷大明神があり登路に利用出来そうです。園部ICから府道19号(園部平屋線)を南下して曽我谷口で左折(東入る)して陣田川(曽我谷橋)を渡り丘陵裾を 進むと分岐点東方・曽我谷区の入口に鎮座する一原神社が見える。直進すれば大蔵寺だが集落内は道狭く駐車スペースは無さそう。 此の一原神社前・曽我谷バス停や曽我谷区防災センター付近の駐車スペースを利用する事になる!!?。
僅かな曲輪の段差と平坦地形!!?

バス停正面・今は珍しい火の見櫓(サイレンや放送等・別の防災関連用途に使用されていると思う)の先・低丘陵ぼ先端部に赤い鳥居が見える福谷稲荷社へは大蔵寺への道の直ぐ先の分岐で、付近民家の裏手から取付ければ 2-3分・其のまま尾根を辿れば善願寺城の出曲輪だったとも思える?…白龍稲荷社へ続いている様だが、民家の納屋傍から裏手の畑地へ 向かうような細い道が参道だったか?。判り難いので戻った分岐の行止りが大蔵寺への石段参道。船井郡三十三ヶ所観音霊場 :第13番札所・松谷山大蔵寺(曹洞宗)は室町時代中庸期の応仁年間(1467-69)宗茂和尚が 開基の徳雲寺末寺という。
僅かな曲輪段差と平坦地形!!?

一原神社も室町初期の応永年間(1394-28)の創建か再建らしい。 南北朝が合一・「応永の乱」前後にあって当地に勢力を張った領主が誰だったか?。大蔵寺山門を入って正面の墓地最奥から右手斜面に取り付いて、赤い鳥居が 朽ち倒れている傍の尾根筋に出ると下方からの山道に出た。無理せずとも境内の手前墓所から本堂裏手を捲くように 歴代住職を祀る卵塔側を通る山道が通じていた。参道終点の広い削平地に ”正一位白龍稲荷大明神”(祭神に倉稲魂命・創祀は不詳)の社殿が建つ…が裏参道で正面に廻る。
僅かな段差だが切岸加工?を窺わせる曲輪

鳥居正面の本来表参道側は直ぐ藪に埋まり薄い山道は消える?。少し下り上り返す尾根続きに高低差の少ない数段の曲輪があるが、長い尾根筋に堀切や竪堀は無さそう?。1.5-2mにも満たないが切岸加工された 曲輪段差は見るが土塁等による防備強化は見られず、河川と山陰道要衝監視の砦使用は考えられるが見通しが効かず尾根筋を見誤っての思い込みなのか!!?、とても中世末期まで機能した城とは思えない?。


半田城館と半田城
半田城館 丸山?Ca140m   南丹市園部町半田北
半田城  xxx山 Ca230m   南丹市園部町大西袋谷・半田北

半田城館と半田城の位置は北方・府道54号(篠山街道)に沿って東西に流れる園部川・其の園部川に 流れ出る本梅川が低丘陵部の西を南北に流れ、東には半田川〈園部川に流れ出る河口に園部城が在る>が南北に流れ、尾根筋南を除き ・此れ等三方を河川に囲まれ濠ともした天然の要害地?にある。
半田川を渡った正面の森が半田城館

大村城訪城の基点とした青松寺の北・園部城へ向かう城南町大門(R477号)の交差点に出て西方への小峠を越え 坂下を約200m程で大村城への登城ルートに考えていた南丹市園部半田文化センター・清泉寺が此の北山麓に在る。半田城館・半田城へは大村城の在る 丘陵裾を廻り込み・半田川沿いに南下するR477号を見送り、コーナー部に建つ農協の倉庫?側から真西へ半田川に架かる尾長橋を渡って
城館:主曲輪東北端の櫓台土壇(古墳の墳丘!?)

直進する車道が、低丘陵部の標高228mから東へ伸び出す丘陵先端部に位置する比高10m程の森に突き当たるT字路に着く。このT字路の南約100m程には半田城への取付き:法積寺へ向かう入口がある。南へ直進する地区道は府道454号に出て林道然とした西への峠越えで、宍人に出る。
墳丘マウンド利用の櫓台?から主郭西

更に直進すると篠山街道(府道45号線)に飛び出す摩気神社バス停前の崖上 ・城山に在る天神山城へは此の後に向かう。
半田城館:左手(南)に斜上する作業道は 丘陵部先の民家に向かうが、車道南面は竹藪だが土塁状の盛土?線・其の直ぐ南側は4-5mの段差で数軒の民家が建つ。作業道西方先の民家や北側へ拡がる広い削平段は、
主郭東面:帯曲輪切岸と右手奥に櫓台!!

田畑・果樹園等の造成で改変され旧態は不明で、城域を区切る堀跡等も定かで無く不明だ。丘陵部北側裾を貯水池(桜池!?)に向かう道からは、 然程急斜面でもなく短い傾斜面に取り付いて目前に現れる大きな櫓台土壇に着く。土壇は車道側の主郭部東端に有るが、周囲は急傾斜でもなく切岸も無い。 防御を堅める土塁状でもなく、高さ約2・5m・基壇上は7-8m程と広い平坦地だが円状を呈している!!。
半田城館域 ?東南端は民家側3-4m切岸で切れる

径12-15m程で木棺直葬?(横穴式等石室を持たない古墳の様)の中小規模古墳のマウンドを曲輪や櫓台として使用しているものと思え、播磨や但馬にも使用例は見掛ける。 取り付いた北麓の貯水池(桜池!?)から北方にかけて10基近くが分布する桜池古墳群の1号墳には丸山?の名が有るので此れかと思われます!!?。 半田川を挟んで東丘陵上の大村城との関係や、西方へは法積寺を経て篠山街道(府道45号)の船坂交差点・九品寺(くほんじ)も近い本梅川へ峠越えの山道がある。
半田城(中央左?)への登城口:法積寺(右端)

此の峠・北の峰Ca230m付近に半田城が在り、半田城館の詰め城だったと推察するが半田城館も半田城も築城時代や目的・城主等の城史一切は不明で す。構居とするには古墳マウンド使用の櫓台から西や西北へと広過ぎる削平地・城域を分けるのは低い曲輪段?だけ。高い土塁や深く幅広い 空堀を廻しているわけでもないので、居館ではなく城館の名称らしい?。櫓台状を含む広い曲輪(主郭)と 西に低い段差の曲輪が続くが、
峠から辿る尾根筋にすぐ半田城の曲輪段をみる

南北に走る車道側の東面に高さ1m程だが切岸を落とした帯曲輪が、主曲輪東西端に廻り、 続く西曲輪側の東面へと延びるが、既に畑地に造成されていたり、主曲輪から西への帯曲輪部は鬱蒼とした雑木藪地と化している。半田城へ:城館遺構は城域の東裾を抜ける地区道に降りてきて 其れとなく推測出来るかも?。
半田城主郭付近:平坦地形だが荒れている

城域南端の民家側を通る地区道から法積寺 (曹洞宗)への案内板を見て北方の丘陵部へ入っていく幅狭い地区道の先に法積寺の屋根が見えてくる。此処から左手に続く山道を辿る峠付近が半田城の筈!!。峠からの尾根筋を辿ると直ぐ上方に低いが段曲輪が見え、途中まで急斜面でもなく堀切 ・土塁・曲輪の高い段差(切岸)も無いまま城域に入った。尾根筋の幅広い平坦地形は荒れ・崩れて個々の曲輪は判然としないが、中には切岸ち”上り土塁”状の 遺構もみるが、室町中期以後には廃された古城か?。
半田城主郭?

其の室町時代中期:応仁年間 (1467-69)新江(仁江)に移り住んだという足立氏の城とされる新江の両要害とよばれる船坂城(九品寺背点側:興禅寺背後)天神山城が篠山街道沿い ・園部川沿いに在り、南北朝時代には南朝方に付いた足立氏の砦であったと思われます。黒田城主森氏と 宍人館・宍人城小畠氏とは船坂・九品寺付近で激突したらしく?、半田城からは 園部川を挟んで北方約2kmに黒田城、本梅川を挟んで南西方約2kmに宍人館・宍人城が在る微妙な位置関係にあって何方に加勢したものか?。
半田城主郭?の切岸・上り土塁

南朝か北朝か!!?…室町期には八木城の内藤氏・八上城の波多野氏勢力下に翻弄されていた地。地元に城の存在も忘れられ・落城の伝承も残らない 小城の多くは中世末期・明智の丹波攻めの早い時期、宍人城の小畠氏等と共に明智方に付き、八上城:波多野氏攻めにも参戦していたのかも…?。

本誌 丹波霧の里HOME 別冊 別冊丹波霧の里HOME

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