南丹市八木町 西田城 刑部城 広瀬城 新庄城 野条城 畑中城 
近畿の山城 西田城/刑部城 北広瀬城 新庄城  野条城と畑中城


西田城(西田山砦)と刑部城

篠山市からR372号(京街道)を福住・安口(はだかす)から天引峠を越えれば南丹市に入る。 此れより目的の多国山(刑部城)周辺の山城を目指し東本梅町宮前から府道73号を千代川へ進むコースは既に亀岡市。
智恵寺から三俣川を挟んで西田城を望む

未だに南丹市と亀岡市の区別!!?・境界がよくわからないが、2006年に船井郡園部町・八木町・日吉町・ 北桑田郡美山町が合併して誕生したのが南丹市。 京都縦貫自動車道の千代川ICを潜りJR山陰線を越えR9号線は以 八木城へ向かったが、今回は直進して桂川に架かる月読橋を渡るのは山三昧の頃は 三郎ヶ岳・三頭山・牛松山(丹波富士)、其の後:山城の興味を持ち始めた頃は再度・出雲神社背後の御影山城へ向かったコース。
西田城主郭(金毘羅神社):虎口から

早秋の時期から深い川霧が発生し易いところだが、橋東詰めを左岸沿いに八木町青戸に出て R477号線を西田に向かう。R477号線から直接西田主郭の金毘羅神社への通じる?急斜面(大日寺墓地裏参詣道を兼ねた 車道の様だが入口付近にゲートがある)林道への取付き付近。国道側の駐車スペースも有るが・50m程先で大日寺への細い交差点。
住吉橋付近より刑部城を望む

大日寺とは反対に北に折れると幅のある三俣川に架かる住吉橋を渡ると広い駐車スペースが在り、西下へ幅狭い車道が住吉神社へ、川沿い東へ右岸は智恵寺(駐車スペースあり)・富本小学校への分岐点。 住吉神社側の川沿いを西へ約200m程はカラー歩道やベンチ・桜並木の河川公園になっている。伏流か・枯れ川?なのか知らないが三俣川を挟んで南の大日寺背後が西田城・北の智惠寺背後の多国山には刑部城が在るので、 二城攻略には住吉橋からスタート。


西田城 南山(金毘羅山 ?) 152m  南丹市八木町西田南山

西田バス停手前から大日寺(臨済宗妙心寺派)背後の西田城へ向かう。 西田城の築城年代や城主等の城史については不明だが、緩斜面の尾根上に曲輪の削平状態はあまく、土塁や曲輪の切岸も小さく、空堀・堀切で尾根筋を区切る事も無い。
西田城主郭

自然地形に小曲輪群を並べただけで防衛戦略的な作為を殆ど感じられないのは、南北朝期や室町時代前期?の古い形態のまま、 中世戦乱の中で使用される事もないままに廃された城砦か?。桂川沿いと山陰道の要衝を監視して並ぶ近場の二城 【刑部城や広瀬城の主郭部を除く】も長い緩斜面の尾根上に曲輪を並べる・よく似た状況からも<刑部は後期・川西に正対する八木城攻めの陣城に改修されたか?>同時代の関連城址と思えます。大日寺は貞和 3年(1347)に創建されたと云い
主郭南面の上り土塁虎口と切岸

年号からも此の時期の築城なら 北朝方に関連する城址なのかも?。境内には其の様式から鎌倉時代後期の五輪塔・南北朝期前期の宝篋印塔が遺る。 西田バス停から南へ入った所から(南側集落内からの山門を入らず)直接・大日寺本堂前を抜けて墓地参道を進む。
西田城:中央郭

結構急斜な墓地最奥部からは、国道側からの林道に出て、直接比高約40mの西田城主郭の南山(金毘羅山!?)最高所:金毘羅神社境内に着く。南面に1.5m程の石積・石段上に鎮まる金毘羅宮が主曲輪・天守台とされるが、城遺構からは石塁や天主台か櫓台を備えた城郭とは考え難い。西田バス停から南へ 地区内の北條からも金毘羅神社へ堀底道状の参道が通じている。
尾根南先端(川東簡易水道施設)曲輪:土塁状は櫓台跡か、施設造成の残土か?

取付き付近の 畑地や稲荷神社が祀られる祠付近が家臣屋敷跡か?。前面に濠跡らしい溝もあり此方が大手道だったのでしょう。主郭北側は曲輪 跡と思える大部分を削って 登ってくる車道林道となっているが、西南麓の稲荷社からの参道も主郭部(石組で一段高い金毘羅神社の 南前に拡がる広い<段差は低いが二段の腰曲輪状>平坦段の西端に入る部分も土塁と曲輪間を入る虎口に見える。
稲荷社(大手)から主郭への土塁虎口部?

城域は中郭以外に見ない切岸(約3m程)を見せる主郭南端に・崩れかけた上土塁虎口、此れより南へ広く緩斜面の尾根筋は雑草や荒れた雑木藪に ・低く段差も判りにくい7-10段程の曲輪を連ねただけの縄張り。自然地形に近く明確に曲輪が意識出来るのは中郭と 南端部が川東簡易水道施設として、尾根先端部の曲輪は削り取られているが、内側(尾根側)に僅かに円状を呈し遺っているので櫓台を備えた曲輪跡だったのかも!!?。
刑部城 ・多国山登山口となる智惠寺


刑部城(鞍谷山古塁) 多国山 191m  南丹市八木町刑部多国山

R477号で八木町青戸から低丘陵部北先端部を抜ける。此の比高40m程の山頂部には 金毘羅神社が祀られ西田城の主郭と云う。西田バス停の南側に大日寺、北へ折れると”今は?枯れ川”の三俣川に架かる住吉橋を渡った北詰めの駐車スペースに車を寄せる。三俣川右岸沿いに刑部(おさべ)城取付きとなる妙見山智惠寺(曹洞宗)【延宝元年(1673)松音嶺壽和尚により天台宗として開創され延享元年(1744)曹洞宗の 大峰壽覚の手で中興された】に向かう。
東出曲輪の櫓台土檀(古墳?)

正面に高低差の少ない多国山(東西およそ550m・南北250m程)で稜上を長いテーブル状を呈した独立低丘陵。東西に延びる緩斜な丘陵尾根の東端から西端にかけて 城遺構が点在している。城史に関しては築城時期 ・城主等の詳細は一切不明の様ですが、三俣川と国道R477号線を挟んで南北の至近距離に存在する西田城と刑部城は同時期 ・なんらかの関連をもって呼応した城砦だったのでしょうか?多国山の南面を東西の三俣川が、西面を南北には官山川が三俣川に流れ出るが、合流点から約200m先はもう桂川(亀岡から保津峡・嵐山へ…)。
東郭部は多国山古墳群の墳丘?・窪地も古墳跡に思える!!?

R477号線も此処で大堰橋を渡り R9号(山陰道)の要衝に繋ぎ、R9号を渡る正面がJR八木駅。住吉神社の北側に「介護老人保健施設ふないの里」が見えるが、 此処を終点にR9号八木東ICへもR477号線が延びているが?八木町青戸付近で R477号を繋ぐ計画があったものか?。官山川を背にしてポツンと山間の地の田圃の中に鎮まる海の神住吉神社の由緒を知らないが、
主郭から手前井戸跡?・帯曲輪・最下段の土塁・空掘

神功皇后(仲哀天皇の后で応神天皇の母 )が住吉大神の神託により新羅征伐の為・対馬に出航する故事に基づく祭事が室町時代初期(応永年間 1394-1427)頃まで行われていたという。桂川を淀川に出て瀬戸内海を九州…対馬へ…壮大なドラマに韓国と対馬を巡る現状を提議するものではありません!!。住吉神社の創建時期は不明だが奈良時代中庸期には既に此の地に鎮座しており、 現存の本殿は室町時代末期の永禄10年(1567)に再建され、京都府と南丹市の登録文化財に指定されています。
主郭部東端の土塁囲み曲輪・手前右手に虎口

三俣川の桜堤からは住吉神社と「介護老人保健施設ふないの里」の間に広瀬城の在る低丘陵が望まれる。多国山頂部の東西約80m程の主郭部に比較して 東末端部を出曲輪と観る以外・東西250mの尾根全てを含む程の大規模城郭とは思えない。二基程の古墳の墳丘周辺数ヶ所には 同規模程度の陥没穴もある。空掘にしては小さく深いものもあり、古墳の石室・石組の石材が抜き取られたものか?。主郭部を見た後では、尾根筋の曲輪段差も無い 広い平坦地形の中の高さ2m程・経20m前後の土檀は古墳か、
主郭部最西端の土塁・空堀

古墳の墳丘を利用した櫓台土塁?とも思えてくる。 先に寄ってきた西田城や、此の後向かう予定の北広瀬城もまた南北朝期頃には広瀬氏?が拠っており、三城共に同時代の古いタイプの城か。主郭から傾斜を落としながら緩斜面上に曲輪を連ねただけの縄張り構成だが、遺構のギャップが大きな主郭部だけは中世の改修跡をみせる。桂川を挟んで西に正対する守護代:内藤氏の八木城を攻めた 明智軍の陣城となったものか?。
主郭部北端の土塁・空掘

北斜面は尾根筋中央部傍までは 青戸から刑部側へ、枝別れした林道の一本が上ってきており、此の林道が主郭部北端から南側を取り囲む土塁・空掘の曲輪切岸下20mまで延びて終点。土塁・空掘が捲く曲輪は主郭を三段 【一段下に帯曲輪・下方の二段が土塁・空掘】に捲き、崩れてか!?段差の少ない主郭北面には小さいが天水受け?井戸跡もある。主郭尾根上を東へは切岸を下ると土塁囲みの曲輪。 南面の角に一ヶ所土塁の切目があり、
住吉神社の杜と「老人養護施設ふないの里」の間の丘陵が北広瀬城

一折れ斜上して主郭部に入る虎口と思われます。此の曲輪切岸下から東郭まで100m程が古墳の墳丘や石材が抜き取られた多国山古墳群?を含む緩斜面の広い尾根。「刑部」の城名からは丘陵北 ・北西に八木町刑部があり、直登すると現:主郭部に至る北に大手道が開かれていたものか?。北西の老人保険施設付近から切開かれた町界尾根が利用出来るかも知れないが、東南麓の智恵寺背後に廻り込むと東尾根筋に入る 急登の山道がある。途中の祠への参道らしいが山道は続くので、踏み跡は薄くなるが此の直登ルートを利用する。
(住吉神社由緒等は:Wikipediaを参照)

北広瀬城主郭:三っの土檀(曲輪)と土塁線に囲まれた空堀状?内部



北広瀬城 宮山 195m  南丹市八木町北広瀬岡花

多国山・刑部(おさべ)城の西方約1.3km、桂川を挟んで八木町南広瀬・北広瀬両地区の鎮守:岡神社 ・阿弥陀寺背後の宮山195m山上に北広瀬城が在る。桂川左岸沿いの宮山(北広瀬城)から西北方に位置する筏森山(295m)山塊は、 筏森山から延びる北尾根先に野条城・西北への尾根先端部に位置する城山 (222m)新庄城へは此の後に寄る予定。
北広瀬城主郭:土檀を繋ぐ土塁線と内堀?

住吉神社の西に岡神社の宮山 ・北広瀬城を望み、住吉橋からR477号に戻り大堰橋手前で桂川沿いの府道25号(亀岡園部線)を北広瀬の岡神社を 目指す。 西隣に阿弥陀寺背後の丘陵上を目指すのだが、取付きは岡神社を抜け地区道の寺側に、急登りの墓地への参道がある。駐車は岡神社か桂川沿いに城山へ向かう車道 100m程先に桜の木が多くて広い路肩が利用出来る。 阿弥陀寺の参道入口に阿弥陀寺宝篋印塔の案内板がある。
北広瀬城主郭の土檀(曲輪)内の空堀状は古墳の周溝か!!?

笠の隅飾りからも古いものとは判るが南北朝期前期のものと云い、基壇から相輪まで破損・欠落部も無く完存するが当時:既に北広瀬城に拠っていた広瀬氏一族に関連するものかは不明。墓参山道は此処で途切れるが踏み跡は先に延びる。藪で踏み跡も薄くなるが、前方上方に曲輪の切岸状をみて直接主郭部の土塁檀に上がる。 麓から10分程で着いた丘陵南端のピークに位置する主郭部は三ッの土檀を
北枝尾根:埋もれかけの土橋付き堀切?

土塁で繋いだ様な構成で、北方の高度を落とす尾根先に向いて開くが土檀と土塁線に囲まれ内側は広くは無い。開口部に少し傾斜する空堀状で、縄張りは特異な形状をしているが、風化し崩れかけの切岸や 土塁残欠の遺構?は多国山同様に此処もまた北広瀬古墳群が北方の枝尾根上に点在しており、墳墓マウンドを櫓台曲輪に利用したものか?。 広瀬城もまた築城年代や城主等に城史不明ながら南北朝期・後醍醐天皇の挙兵の元弘の乱(1331-33)の頃には土豪:広瀬氏一族?が拠った古いタイプの城らしく?、南端ピークの主郭から丘陵枝尾根北先端へと 緩斜面上に10数段の曲輪を並べ落としている。
北枝尾根末端付近の大土塁・櫓台!!?

尾根上には 埋もれかけた(埋もれた!!)堀切・空堀状や、平坦地形を挟んで同規模程度の低い高低差の土塁檀が数ヶ所続く。古墳の遺跡調査報告書の各xx号墳とは符号するのかも知れません?。「丹波史年表」には建武の中興成っての 軍功によるものか建武2年(1335)八木の<北広瀬城主か?広瀬左門が感状を受けている。

新庄城(船枝城・井上治部古城) 城山 225m  南丹市八木町船枝城山

北広瀬城から岡神社へ下山後府道25号を北上して室橋の文覚池 ・船枝の船井神社を目指すのが判り易いと思ったが駐車場所からは・そのまま桂川左岸沿いを筏森山南麓を北方へと目的の城山に向かった。 府道408号線・新庄橋付近からの町界切り開きがあるだろう?取付きからと思うが、車道からは判らず道なりの城山北麓を廻り込むとを船井神社の標識がみる。
新庄城東郭の土塁曲輪

神社の東・新庄小学校側に駐車場が有ったので此処を起点に筏森山系?の西北末端ピークの城山・新庄城を目指す事にした。 神社西側府道に末端を落とす丘陵上が新庄城の在る城山。神社との分岐点府道側からの直上は取付きが崖状・短いとはいえ比高 100mの藪の急登はキツそう。神社南側府道に出たところで”文覚ふれあい公園”の案内標識を見て、
新庄城東郭の大土塁と主郭切岸下部の堀状!?

公園への車道を 進むと文覚池があり、堰堤向かいの農作業小屋から城山(4等三角点 222m峰の南郭と 主郭 225mの北郭)の鞍部の尾根に繋がると思える 山道が有りそう?。登山用に整備された道は無く、小屋前から池の排水路沿いの車道は入口に関係者以外立入り禁止の頑丈なフエンスで侵入出来ないが東尾根伝いに主郭に至るルートはありそう?。
新庄城主郭の南面土塁

道なりとはいえ落葉で踏み跡も隠れ、おまけに急斜面での落葉に足を取られながらの 南斜面を詰め上がると東郭(主郭から10m程の高い切岸下の箱堀状・露岩を抱く大土塁と二段程の曲輪(下段は先端の東から南側へと 平坦段半面を土塁で廻す曲輪)に登り着く。東尾根筋は更に下方へ辿ると尾根先の峰頂部には東下方から東出曲輪に入る虎口形状?を遺す。
北曲輪群からの主曲輪

もとに戻り東郭から高い切岸を登り詰めた広い曲輪が城山最高所:北峰にある主郭(北郭)で、八木町立新庄小学校(平成4年)卒業記念に製作された城址縄張図付きの案内説明板が立つ。其の先に高さ1m程の土塁があり、急に薮化し踏み跡も細くなるが高低差7m程の切岸下に上り土塁虎口や低土塁が囲む南郭がある。 少し先(南尾根筋中程)の鞍部に堀切をみる。
主曲輪西面:断崖上に迫り出す二段程の小曲輪

小土塁を挟んだ 二重堀切にも見えるが、案内図に書かれている文覚池側から通じる山道(大手道?)が此処に通じているのかも?。堀切を渡り広い曲輪を越えた 上が南郭で、方形主曲輪を帯曲輪が廻る。櫓台土檀?の西南端に城山三角点が埋まる南峰だ。北郭(本丸)に戻ると府道408号・新庄橋側へ其の裾を落とす北尾根筋にも3段ばかり曲輪を連ねる北郭が 主曲輪西下へも2段曲輪が並ぶ。
南郭(三角点峰)主曲輪下を廻る帯曲輪

主城の八木城同様に城郭は南北 300mにわたり、短い枝尾根筋にも曲輪を築き土塁・虎口で防備する。新庄城は船枝城とも呼ばれ、城域は船枝・山室・室橋の三村境に位置して、 丹波守護代:内藤氏(八木城主)家臣として其の傘下にあった井上氏の城で八木城の支城として桂川流域北方を警戒・防備していたものか。当地国人領主の井上氏は南丹市(旧船井郡の新庄・吉富・志満<志万>の庄園)を
東尾根先:出曲輪の土塁・虎口?

領した様だが、築城時期や城主についての詳細は不詳。 室町時代には井上治部の古城として知られ、城主は井上雅楽助・孫五郎・又六と続いたようです。天文22年(1553)八木城主 :内藤国貞が八上城主:波多野稙通(たねみち)の侵攻に討死、永禄8年(1565)氷上郡(丹波市)へ侵攻した松永長ョ(内藤宗勝=内藤如安の父)が黒井城主:荻野(赤井)直正に討たれ、
主郭東面切岸と東郭側大土塁:土橋付大堀切?

三好氏・内藤氏勢力が大きく後退した頃には、新庄城主:井上治部は織田方の明智光秀に付いていたものか?、 織田信長と浅井長政が北近江に展開した姉川の戦い:元亀元年(1570)に討死して吉富・新庄・志満の領地を失うが、のち信長により遺児 ・小三郎に旧領が安堵されたという!?。
(Wikipedia/丹波の荘園を参照)

野条城と畑中城
野条城 xxx 220m   南丹市八木町野条北ノ谷
畑中城   xxx 287m  南丹市八木町諸畑赤岩谷


野条城は新庄城とは 文覚池を挟んだ斜向いの東南に約1.5km程の丘陵上に位置して、筏森山(295m)から北方に延び出す二本の尾根の東(府道25号線側)丘陵尾根の標高 220mピークに主郭を置く。畑中城と共に新庄城の東玄関口の監視・守備する出城とも思えるが、両城砦ともに明確に曲輪を区切る切岸・段差は小さく、自然地形に近い緩斜面・平坦地形が尾根上に延びるだけ?。
野条城遠望(中央は府道25号)

小規模な城遺構は山上に荒れた平坦地形と南尾根続き鞍部に、 此れも埋もれ掛けた堀切状を見るだけで、調査資料や城史については一切不詳。嘗ての荘園監視砦か?。 前回同様に船井神社側の駐車場からスタート。文覚池手前で東側の丘陵北麓を東へ抜け出て、八木町室橋交差点から野条への府道25号線一つ西の地区内の道を南下する。文覚池側・西方の独立小丘陵が切れる南東麓には
野条城主郭

巴御前所縁?の如城寺(文中に詳細記)が在る。南に続く丘陵裾の墓地(観音立像が見える)を目指す。 墓地へゲートフェンスには立入り禁止?は、其の背後尾根続きで行われている地滑り防止の為の大規模工事(平成25年12月25日迄)の為か?。 工事中丘陵斜面西寄りの細い踏み跡を辿ると高くは無いが切岸?かと何となく思える斜面から、荒れた幅広い平坦地形の尾根に出る。
野条城主郭一段南下曲輪と低土塁?

主郭迄およそ幅約15-18m・長さ70m程が城域の野条城は、細くなる尾根筋上の主郭南端に一段低い低土塁?曲輪と、其の南下鞍部に堀切状(浅くなった堀切と片堀切<竪堀>?)だけが 城遺構を感じられるだけ!!。此の堀切からの踏み跡を辿る東麓が八幡宮。空堀へ通じる登城道であったか?は不明だが、 何れにしても古い時代の城址の様です。小祠が祀られる八幡宮境内に「共生(ともいき)連理の榊」がある。下鴨神社等にも雌雄二本の木が地上で結ばれ、縁結びの神木として信仰の集め、
野条城南鞍部の堀切状

此れにも”神人和楽 縁結び 夫婦和合 家族団欒 村人結束 仲間団結…”の文字が並ぶ。南丹市の野条遺跡説明資料 (京都府遺跡地図)により野条城や畑中城及び船井神社から府道25号を越えた北東に舟枝館跡の位置は確認出来るが、舟枝館の現状等不詳で未訪。 野条や室橋は圃場整備による遺跡調査(平成10年?)が実施され、弥生時代の土器や灌漑の為に掘削された大規模な用水路跡等、
野条城南鞍部の片堀切(竪堀)状と堀切状(右上)

奈良時代-平安時代の掘立柱建物跡や柵列・土坑・溝・土師器や須恵器が出土している。平安時代:承安4年(1174)に成立した後白河院・法華寺領の吉富荘、其の後:後白河院から神護寺に寄進され、神護寺を再興した文覚(もんがく)上人により灌漑や文覚池等用水池の開墾がなされている【下記: 文覚池と文覚上人を参照してください】。文覚池・xxx工場の東には鎌倉時代初期:正治元年(1199)創建の古刹如城寺(臨済宗妙心寺派)が在る。
八幡宮と「連理の榊」

寺名は巴御前の戒名「如城寺殿大照祖心大姉」に由来するが、野条城名の由来に関連?していそうです。治承4年 (1180)4月:後白河法王の皇子以仁王が平氏打倒の挙兵は失敗に終わるが、以仁王の令旨を受け源頼朝や木曽(源)義仲等が各地で平氏追討に挙兵。壇ノ浦に平氏滅亡を待たず寿永3年(1184)近江粟津の戦いに討死。 没後:愛妾御前は乳母(当地吉富荘の出)の里に隠棲し、乳母が此処に草庵を結び・巴御前も晩年は尼となり義仲の菩提を弔ったという
<大津市の義仲寺、現:富山県南砺市の某氏の元に身を寄せ生涯を終えたとも…云う>巴御前縁の寺といい二人の位牌が祀られ
野条城北端曲輪の段差に観る崩れた切岸!!?

・古くから開けた土地柄。創建時は真言宗に属し・神護寺より巴御前の供養田を授かり、 末寺も三ヶ寺を有したという。建久3年(1192)源頼朝が鎌倉幕府を開くと摂関家の荘園は武家政権下で源氏系領有していき、吉富荘も承久の乱(承久3_1221)に鎌倉幕府領となり嘉禄元年(1225)幕府から再び神護寺に寄進されている。


畑中城は
船井神社から府道25号線に出て八木町室橋の交差点を府道408号に入り 東へ進み諸畑地区に入って直ぐ、政徳寺・老人ホームラポール八木への案内板を見て 左手山手の車道先で清源寺谷川に架かる大谷口橋を渡った 山側で終点の金龍山清源寺(曹洞宗)駐車場に入る。平安時代:寛徳2年(1045)天台宗の寺として創建され文明13年(1481)中興されたか?曹洞宗に改められている。
文覚池側から望む畑中城中央右手の峰)

境内への入口に八木町指定文化財・木造木喰仏像 (八木町教育委員会)の説明文が風雨で掠れ読み辛くなっているが、シールされた南丹市 xxxだけが新しい案内板が立つ。躍動感溢れる荒々しい鑿(のみ)痕が力強く”怒りの円空”の野性味合われるイメージが強い円空仏とは対照的に比較されるのが丸みを帯びた素朴で温和な表情で優しい微笑みを浮かべた 微笑仏で知られるのが 木喰仏ですね。木喰(1718-1810)は木喰五行上人・木喰明満上人等生涯に三度改名・全国を遍歴した遊行僧で、訪れた先に一木造の仏像を刻み奉納している。
畑中城・幅広い尾根上に長い平坦地形が続く

清源寺12世当観和尚の文化3年(1806)10月から 翌文化4年2月まで約5ヶ月を寺に滞在し28体の仏像を彫り上げたといい、羅漢堂には上人晩年(89-90歳)の十六羅漢像・釈迦如来像・聖観世音菩薩像・勢至菩薩像等22体が収められています。 諸木山497mから西へ延びる尾根の510m嶺から南への尾根は其の先端を清源寺へ落とす。510m峰に西に山岳寺院跡か 卍マークの有る付近から南への尾根筋を政徳寺背後に落とす丘陵上の287m付近の峰?に畑中城が在る。清源寺駐車場から左手・清源寺谷川を渡った処から林道が畑中城域の北側へ通じているが、
畑中城北端曲輪とコノ字状の低土塁

入口ゲートは鍵付きフェンスで関係者以外立入り禁止で近づき難い。正面の諸木山に入っていく?林道の 清源寺山門を過ぎた先のフエンス開閉部から畑中城を目指して結構長くキツい急斜面に取り付いて、尾根筋に這い上がると直ぐ下方に 小曲輪らしい平坦地(城域最南端か?)を見るが、尾根続きは幅広く長い(尾根幅約20m程・長さは5-60m?程で尾根幅は狭くなり下草藪地になるが)平坦地形が延びていく。傾斜を落とし始める藪地の尾根端部がコの字状の低土塁囲みになっている。
北端曲輪低土塁から左下に林道と林道側に落ちる片堀切?

幅広く段差も無い平坦地の端に突然の土塁状?。 此処には炭焼窯にしては少し小さ過ぎる石積みが有るが火が通った形跡は無い?。土塁状を降る直ぐ先に左・続いて右手に片堀切状の溝を見て、左1.5m程下に清源寺から登ってきている林道に降りた。土塁状・堀切状が城遺構なのかは、 側まで登ってきている林道がある事からも林業用地か?不明。林道が地図に有る510m峰西の山岳寺院跡卍マークまで通じているかも未確認。城史も不明ですが・野条城と同様に室町時代初期以前の城なのか?。
(現地:清源寺案内板 Wikipedia を参照)


文覚池と文覚上人:一帯は平安時代末期:吉富新庄の一つ刑部郷に属し平治の乱(平治元年_1159)に 義朝(よしとも)の私領は平家に没収された後、平家と縁戚関係にあった後白河の近臣 :大納言藤原成親(なりちか)に与えられ、此れに熊田・志麻・刑部等を加えて承安4年(1174)後白河法皇に寄進された。 ついで源頼朝が平氏を滅ぼすと旧領は頼朝に返された。
文覚池から新庄城(左:主郭・右に東郭)

此れを寿永3年 (1184)神護寺に寄進され宇津郷を吉富本庄、平安時代末期:荒廃していた京都高雄の神護寺を中興した文覚上人の請いにより後白河法皇が寄進した神吉・八代・新庄・志満・熊田の五郷を吉富新庄と称して立庄された。新庄城の東麓 野条城麓の北西に文覚ふれあい公園があり、北方の府道408号に出る手前には文覚池が有り新庄城の在る城山の姿を水面に映している。此の灌漑用・新庄用水池の開墾も文覚(もんがく)上人<神護寺再興のため 諸国を勧進し”高雄の聖・勧進聖とも呼ばれた>神護寺領となった地域の開発に勧進聖として深く寄与した一つで平安時代末期:文治4年(1188)に開削したと伝えられます。正治元年(1199)文覚は 御鳥羽上皇の政を批判したため疎まれ佐渡に流罪となる途中で客死した(神護寺沿革)といい、神護寺領を没収・吉富庄は藤原範光の所領となるが承久の乱(承久3_1221)に鎌倉幕府領となり 嘉禄元年(1225)鎌倉幕府から再び神護寺に 寄進されている。
船井神社

文覚上人は俗名を遠藤盛遠と云い、 摂津源氏渡辺党の出身で北面の武士として鳥羽天皇の皇女:統子内親王(上西門院)に仕えていたが、渡辺渡の妻「袈裟御前」に懸想し夫・渡を殺害するつもりが袈裟御前を殺してしまった事が盛遠19歳で出家した原因ともされる。 また後白河天皇に神護寺再興を強訴したため伊豆に流された際・同じく伊豆に配流されていた源頼朝に優遇され、のちに挙兵を勧めたのも文覚上人であったと云う。船井神社:多国山の刑部城訪城の際に寄った住吉神社には神功皇后(仲哀天皇の后で応神天皇の母 )が新羅征伐の為に対馬に出航した際・住吉明神に守護を祈られた伝説がのこるが、住吉明神が御船を守護し、つつがなく航海出来た上・新羅征伐も成功したので、
腕守社

凱旋後・神功皇后が此の地に住吉神社(船井神社の前身)を祀ったとある。「船井」の社名大堰川(桂川)を下る船の停泊地「船居」に由来する。保安元年 (1120)崇徳天皇の御宇 (…とされるが鳥羽天皇<在位1108-24>の時か!!?、崇徳天皇在位は1124-41)丹波国司:藤原家保郷に、南都より春日四座を勧請して合祀された。船枝の鎮座する船井神社が船井郡の地名に由来しているのかも知れないが、船井荘(郷)内では無さそう。北野社領の船井荘の荘域に熊崎村があり、永正5年(1508)此処を井上又五郎が横領している。 新庄城主:井上治部の先代か一族なのでしょうか?、船井神社南正面の鳥居西側に竹垣囲みの祠がある。
腕守社の宝筐院塔

腕守(かいなもり)社:祠の背板が一枚外されて?古い宝筐院塔がのぞく。平安時代後期・朝廷は独立した勢力を持っていた陸奥の豪族:安倍氏に対し、朝廷への貢租を怠ったとしてか?、 源ョ義等に征討を命じ11年間に及ぶ戦いの前九年の役(永承6年<1051>-康平5年<1062>)に一族の長安倍貞任は討死し安倍氏は滅亡した。貞任の亡骸は朝廷に送られ陰陽師の進言により有頭の地(右京区京北下宇津 )に埋められたが、生き返り祟りを成した為、体を七つに分けて埋め下宇津八幡宮に霊を祀り祟は鎮静した。亡骸を七つに切ったところが切畑・首を埋めたのが貞任峠・足と手は足手谷等の地名が残る。 腕を祀ったと云われる”腕守社”は腕の痛みに効くとされます。
(Wikipedia/丹波の荘園・船井神社由緒案内板 腕守社は”京都新聞”「ふるさと昔語り安倍貞任伝説」掲載文の参照抜粋 …)

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