南丹市園部町の城 埴生城 船坂城・北船坂城 宍人館 黒田古墳 黒田城・上木崎城 天神山城
京都:南丹市(五万図=園部)
近畿の山城: 埴生城 宍人館  船坂城  北船坂城  黒田城と上木崎城 天神山城
歴史散歩: 大山祇神社 九品寺 園部黒田古墳
宍人館:空掘に添って折れを伴う土塁が続く

八上城の北山麓を通るR372号(デカンショ街道)で、 篠山市の最東端にある西野々砦まで出掛けてみた。八上城配下の籾井城南裾の宿場町福住を抜けると 籾井城の支城・安口城の在った丘陵が見えてくる。福住から僅か1kmと進まないうちに藩政時代には 亀岡藩の領地に入ります。しかし中世・篠山八上城の波多野氏が勢力を張っていた時代には 反対に:天引峠を越え京都府側の園部町 ・亀岡市にも波多野氏の領地と諸城があり神尾山本目城を京都口丹波を制圧する前線拠点にしています。
宍人館

其の本目城を舞台として”丹波八上城攻略”がなかなか進展しない事に焦った明智光秀が八上城主:波多野秀治に和議を申し入れ、神尾山城に赴いた波多野兄弟を・招いた席で捕らえ、安土へ護送途中 ・この際の傷で波多野秀治は亡くなります。此の神尾山城主が野々口西蔵坊で今日:最初に訪れた埴生城の城主でもありました。京都丹波側にも兵庫丹波の勢力や、 丹波攻略の織田氏に抵抗する宇津氏や黒田の森氏も居り、府道54号線に沿って流れる園部川が本梅川と合流する辺り 船坂城と北船坂城が 54号線を挟んで呼応する様に天引峠に繋がる街道筋を見張る位置に建っており、此の城は丹波:足立氏一族と云われます。
黒田城東郭(曲輪三方に低土塁を廻す)

八上城波多野氏とは緊密な関係にあった北方の 八田城には籾井城の籾井越中守教業が拠って援護しており波多野氏の七頭:荒木山城守氏綱 園部城に拠ったと推定されています。R372号線を埴生城に近い南八田から府道453号で船坂に向う中程には宍人館 (宍人城と小出氏の園部城完成までの仮館も在るが未調査)があり城主:小畠氏は波多野氏傘下にもあった様ですが天正3年(1575には)期初め頃:信長方に組みして口丹波船井郡内の知行分を此処に安堵されてもいます。


 埴生城  宍人館 船坂城 北船坂城  黒田城と上木崎城 天神山城

埴生城(野々口城)  城山 270m 南丹市園部町東本梅埴生

R372号(デカンショ街道・京街道)で天引峠を越えると京都府に入ります。今はトンネルを抜けると…其処は京都府南丹市(旧船井郡)園部町。坂を降りきった辺りで瑠璃渓府立自然公園からの府道54号線が合流します。此の少し先”天引”で府道54号線は北方(左折して)の園部市街地に向かい 、瑠璃渓を流れ出る園部川に添って走ると船坂で府道453号と交差します。
埴生の街道筋から埴生城址

54号線を挟んで北側の興禅寺背後の丘陵に北船坂城が、南側には船坂城のある4等三角点峰239mが見えています。南八田からバイパスの快適な峠越えで埴生郵便局前へと降りてくると気が付かないが、 狭い旧国道筋の両側には京街道(山陰道)の宿場町として繁栄し、本陣の在った野々口三善家は消失したが旅籠屋の名残の旧家や 地酒の酒造蔵が在って小城下の風情も感じられ、家々の表札には野々口姓を多く見掛けます。

最福寺山門(城館の移築門)から望む埴生城

埴生垣内の郵便局から少し東方を山手(南側)に入ると本光山最福寺 (曹洞宗:船井郡西国二十三番)がある。広い空地にポツンと山門が有り、空地の先に本堂があり横に小さな墓地があります。 墓地の裏手には蛇ヶ谷が断崖状の深い谷を形成しており、街道筋の蛇ヶ谷橋から北方へ流れ出ていきます。蛇ヶ谷に”ハブ(埴生)城 ”とは!。 山門の正面は街道に面し南裏手から東を堀状の谷川・背後は山を背に、西方にも北に突き出す低丘陵に 挟まれたような地形や、段差を持った山裾の平坦地が自然の要害を成す蛇ヶ谷を天然の堀とした居館跡の思えます。
本郭南西(堀切側)の石積み

此処に在った居館の門が其のまま目前の寺の山門に 転用されている様に思えます。ただ城門や館門には余り見かけない寺院様式のような流麗な桟木というか垂木?からは移設・修築の際に何処かの廃された社寺建造部材が再使用されたものかも知れません?。墓の裏手に架かる蛇ヶ谷橋を渡たり果樹園跡か…居館址とも思える数段の平坦地から比高約70m程の山の尾の端に向って登れば、地元では城山と呼ばれ 「山上には石垣も残っているよ…随分昔に登ったが、今では誰も登らないので道は無いかも…?。
蛇ヶ谷を渡った山裾は居館址?


其の頃は松茸が採れた事を聞いたが…!」そんな居館と詰め城がセットの埴生城があります。南に続く尾根筋を遮断する本丸の堀切側には一段高く大土塁というよりは、高い土壇があって櫓台というより 天守台の祖形とも思えます。其の北側に主郭(約20mx25m程)と高い段差で副郭(約20mx15m)が有り主郭側には 石垣として 積まれていたらしい 大きな石が残存しています。北方から城域西側へ最福寺から延びる登城道は主郭と副郭の間へと幅広な虎口が通じます。2郭からなる単郭の城ですが見所はありますよ。其の虎口周辺の特に西側には諸処に土留めと 切岸補強の石積みが残ります。
埴生城の大堀切

埴生城の廃城後は跡地に最福寺が建立されていたといい石垣 ・石積遺構や土壇が城のものか寺院建設に関わるものかは判らない。埴生城は 本目城(神尾山城) の支城であったと云われます。北麓を通る京街道(山陰道)を眼下に望み兵庫丹波・篠山市へ抜ける西端部に位置して、木目城と八上城を密接に結ぶ繋ぎの城となっています。野々口庄の庄司親広の入婿となった 6代目義盛が将軍義政に仕えて、左衛門尉に任官されて野々口庄本梅郷を賜り7代目の野々口左衛門尉親永の時・埴生城を築いて入城。8代目が清親(野々口西蔵坊)で本梅城の本城に居たが、 明智光秀の”丹波八上城攻め”に天正 7年 (1579)2月攻撃を受けて降下し、前年降伏していた 荒木山城(細工所城)の荒木山城守氏綱と相談して光秀の仲介役として八上城主:波多野秀治との和睦を図かり、秀治を西蔵坊の本目城に招き入れるが光秀から織田信長に面会して降伏せよとの 勧めを断り捕らえられ安土へ送られた。
本郭への土塁通路と石積

結果的には裏切り者と云われる野々口氏と荒木氏の ・皆さん周知の舞台でもありました。其の西蔵坊の支城:埴生城は園部町から丹波町へと観音峠や中山峠を越えて山陰道や、天引峠や天王峠を越えれば能勢妙見道や攝津池田へ通じる間道にも通じていますので新江ノ両要害(船坂城・北船坂城 )や宍人城同様に軍事的にも重要な要衝であったと思われます。
(戦国、織豊期城郭論ー丹波国八上城遺跡郡に関する総合研究 八上城研究改編を参照)


宍人館 xxxx 170m   南丹市園部町宍人小字平

城山と呼ばれる胎金寺山 (標高424m)に府道 54号線の竹井:摩気神社から”奥ノ天狗杉”を見て、以前に登った山頂が城跡かと思ったが城遺構は何も無かった ?…どうやら其の城山の城とは、尾根続きの北東側の標高335m峰に在った宍人城(摩気小学校の西南にある丘陵上)の事だった。其処から尚も山裾を広げる低丘陵上の尾根の細長いが広い台地の東端に位置するのが宍人館だった様です。
宍人館北郭から摩気小学校・黒田城・高山を望む

此れよりさらに北方100m程の尾根末端(摩気神社付近か?)には園部藩小出吉親が元和5年(1619)が入封し 園部城の築城完成を待って移るまでの間の小出氏仮館があったという。宍人館の詰め城”宍人城と小出氏仮館は未訪で、今回分かった宍人館への”!登城口を今度は胎金寺山の東麓を走る府道453号からとします。本梅川沿い「バス停宍人」手前(南西方)に宍人公民館が在ります。
堂ノ橋(本梅川)から宍人館(左手)其の奥に宍人城と胎金寺山か?


其の背後の崖上にサイレン塔の立つ位置が 宍人城の見張り台的な北端部の曲輪で、此の南西側へと続く広い尾根に主郭部を置き幅約10m・深さ約7m程の大きな堀切が曲輪を遮断し堀の東端は竪堀となって落ちる下方に民家の屋根が見えています。反対側は北側から大きく主郭を捲いて 西方にある副郭との間を幅広 (約2m)の土橋で繋いで主郭部の南端へ延びています。この土橋付近は主郭側・副郭側共に幾重も鋭角に折れを伴って 屈曲し横矢掛けを意識した空堀と土塁です。
宍人館・副郭(西面と曲輪の段差にも空掘が巡る)

其の最も顕著な主郭西側中央付近には、 副郭からは枡形状を抜けて土橋付き空掘りを渡って入る虎口が有り、 土豪による遺構ではなく丹波での豊織系 縄張りの特徴を見せています。宍人公民館横からの踏み跡は直ぐに平坦な尾根に出ます。字名通りの「平」ですが、先ず方形の空掘りに囲まれた3〜4段の広い曲輪を見ます。

宍人館・副郭 (西面の空掘りから入る虎口部か?)


此れだけ…!?と思ったが此処は屋敷跡。東南に向って進んで行くと長い土塁に囲まれた曲輪が 次々に現われる居住部の副郭から主郭へは更に深く長い空掘が土橋を介して遮断されています。宍人館は室町時代の在地領主 :小畠氏が居城していた低い丘陵上の城で、副郭には一族・家臣団の居住区、主郭には小畑氏と重臣の 屋敷があったのでしょう!。「小畠文書」「北野社家日記」によると長享2年(1488)頃:守護職細川氏の被官となっていたようで、 北野社の荘園代官を務めたが、細川氏が内紛で衰える。室町時代末期(1501年-57)には黒田城と宍人城が争い、その兵火に九品寺が焼失していますが合戦の詳細は不詳。
宍人館・本郭と副郭の空掘りを土橋が繋ぐ

天文年間 (1532-55)頃には八上城(篠山市)波多野氏の被官となっていた時期もあった様で、 永禄8年(1565)波多野七頭:細工所城主で園部城主でもあった荒木氏か?荒木民部太夫から船井郡知行分を安堵されています。なを八上城:波多野氏は天文23年(1554)三好長慶の将・松永久秀と戦い落城して内藤宗勝(八木城主・蓬雲軒)等が約 10年間程・丹波を支配していた時期があり、小畠氏をはじめ多くの京都丹波の領主達が三好氏配下に有ったと思われます。天正3年 (1575)織田信長から小畠左馬助宛てに忠誠を尽くすよう命じた朱印状を受けて、織田方に居り領地支配を許されていて、明智光秀の丹後及び丹波攻略に際しては、其の助力(手引き!)を行い此の知行する領地は安堵されていた様です。
宍人館・クランクする空掘り沿いの高土塁

信長命により丹波の豪族・小畠助大夫や島城 :川勝大善亮(継氏)等が八木城:内藤如安(忠俊)や宇津城:宇津頼重等を攻めさせた様で、京都丹波の反織田勢力も”丹波侵攻”の明智光秀軍によって天正3年(1575)には内藤氏の八木城が落とされ、余部城(亀岡)も救援に向った宇津右近太夫が ”明智軍記”によると鉄砲で落命しています。小畠越前守は大坂本願寺攻めに参戦し亀山城(亀岡市)普請にも協力しているが、波多野氏の八上城攻略時に討死したと云われます。一方:抵抗を続けた宇津氏の城も天正7年 (1579)八上城を落として迫る明智勢によって陥落しています。落城後の宇津城の改修普請には小畠左馬進があたっています。元和5年 (1619)園部藩主となった小出吉親が初めて 園部に入部し、築城地選びに際しては宍人館北方の摩気神社にむかう丘陵部に在ったものか?
宍人館・北郭曲輪(最端にサイレン塔が立つ)

小畠屋敷?に逗留し(小出氏仮館)を築いて一時期・藩陣屋として堀や土塁が改修されたものか!。またその時の功を得て 小畠氏は園部藩士として二百石と園部城蓮池の東台地の一部を与えられ以後は此処に移り住む。小字”平”が示す広い平坦地には折れを伴う横矢掛を意識した構造と 高い土塁や深い空掘・堀切が曲輪を分けています。石積の井戸や今も水を湛える用水池、とにかく兵庫丹波の山城では目にすることも無い吃驚するほどに広大な台地には、居住性と防備設備を整え、 比高の低さを充分カバーした城館(居館付き城砦!?)の趣きがありました。

宍人館・本郭と北郭を遮断する大堀切


街道監視を重視するなら胎金寺山山塊の東西を南北に走る府道と、其の二つの府道を繋ぐ間道が宍人集落を通る此の宍人館と宍人城が適地です。ただ天文年間や天正期には明智方と反明智方として対峙した黒田城の監視や、 城遺構からは天正期には廃城か物見台的機能しか果たしていなかったと思われる?船坂城・北船坂城を監視または通信用に利用するなら穴人館側の山上が適地なのですが?。

(船井郡誌等を参照)

船坂城と北船坂城
船坂城(新江ノ両要害)  九品寺背後の山城 xxxx239m 南丹市園部町船坂
北船坂城(新江ノ両要害)  興禅寺背後の山城 xxxx 320m 南丹市園部町船坂

船坂城は府道54号線(園部能勢線)を挟んで、興禅寺北側の背山と南方の久品寺側にある二つの山城を新江ノ両要害と呼ばれるが、 此処では船坂城と北船坂城として紹介します。築城時期や城主等の城史の詳細は不明。R372号線(デカンショ街道・京街道)の天引から府道 54号線を園部川上流の天引川沿いに船坂へ、また南八田からは本梅川に沿って府道452号を北上すると船坂で二つの川と府道は合流します。
4等三角点山頂の船坂城主郭と東側の曲輪

其の合流地点の南に古刹:九品寺の堂々とした山門(仁王門)だけ?が目立って建っています。九品寺背山の山頂(4等三角点)に主郭を置く 船坂城の遺構が残ります。九品寺背後の山裾を巡る白河院三十三所観音霊場・船坂観音霊場のミニ巡礼コース途中からか、観音堂裏手から取り付いて藪尾根を辿れば其の山頂中央に(4等三角点 239m)の石標柱が埋まる主郭(15u)の平坦地に登り着きます。東方向に二段の曲輪があり下段の曲輪が西方の尾根迄延びる帯曲輪になっていますが、西尾根先へは2段程の極小曲輪を経て 其の先は緩衝帯?。
船坂城主郭東側にある二段の曲輪

緩斜な自然地形の平坦地が延びる尾根先にも ・主郭の周辺にも堀や土塁は見かけず、ただ削平段があるだけで防御性に弱く、要衝監視を主体の砦か陣城として使用された遺構の様です。埴生城の項に記した様に埴生城・宍人城・新江ノ両要害(船坂城と北船坂城)・黒田城へと 延びる園部川沿いの街道筋は北東に園部町市街地・北へは観音峠を丹波町へ通じ、南へは京街道(E372号)を東へ亀岡へ・南へは瑠璃渓を越えて摂津 ・能勢へ、京街道を西に採って天引峠を越えれば篠山市から播磨・攝津・有馬へと交通の要衝です。
府道54号側の興禅寺から北船坂城

小山の古城(船坂城)には山垣城(丹波市青垣町)の足立氏一族: 足立猪兵衛!?が拠ったとも、八田城:井尻氏が拠ったともいわれます。南北朝:元弘3年 (1333)後醍醐天皇の挙兵に呼応して足利尊氏に従わず、南朝方として千種忠顕に従って行動した足立氏の一時期の砦だったか?。 丹波守護代 :荻野朝忠に付いて南朝方として・其の後尊氏方に従った足立氏だったのか?。どちらの足立氏にしても此の頃が 足立氏一族全盛の時 ・朝廷方にも足利幕府方にも足立氏がいて京都と兵庫丹波(丹波市青垣町)の本拠地を往来したと思えます。
府道54号から船坂城遠望(左山麓に九品寺がある)

其の後:山名氏と 細川氏の争いの中でも、其の境目にある船井郡・とりわけ篠山市から中山峠を下ってきた船坂の地を重要拠点として足立氏一族が 細川方の内藤氏に付いて此処に出張したものと 推察しますが城の歴史は極短命だったことでしょう。室町時代末期(1501-57)頃に船坂城を挟んだ南北の黒田城と宍人城の合戦に関わったかどうか不明?。奥丹波に勢力を張ってきた黒井城 :荻野・赤井氏と芦田・足立氏との関係に三好長慶が介入して弘治元年(1555)奥丹波最大の激戦 :香良合戦(丹波市氷上町)が起きて 芦田氏と足立氏は敗れ、共に黒井城主:赤井氏傘下に組まれます。
北船坂城:主郭東曲輪(手前)と西曲輪

さらに天正5年(1577)に始まる明智軍の”丹波黒井城攻め”の本拠の山垣城は落とされ足立一族の多くは討死し滅亡するが、一族の中には赤井氏に背いて明智方に付き黒井城攻めや、本能寺へも攻め入っている。 南北朝期から天正期にかけて亀岡市を繋ぐ船井郡周辺に足立氏一族が居た事は否定出来ないでしょう…?。また”京都丹波平定”を進める明智軍に抗した宇津氏が船坂城に拠っていたともされるようです…?!!”新江ノ両要害”は共に 名前ほどに険しい要害を呈してもいないし、中世戦国の山城として空掘りや竪堀・切岸をもつ曲輪と土塁で防御性を強めているわけでもない?…果たして何時の時代・誰が拠った城だろう。足立氏・井尻氏・宇津氏?、 小畠氏の黒田城攻めの向城となったか?。天文23年(1554)波多野氏と三好長慶の将・松永久秀との間で続いていた抗争では八上城が落城し・其の後10年余りを内藤宗勝(八木城主・蓬雲軒)が多紀郡(篠山市 )を支配していますが「湯浅家文書」によると・此の二つの船坂城には波多野氏方が拠っていたようで京都守護代:内藤氏方が攻め落としたとあります。
北船坂城:西末端の曲輪

船坂の二つの城は仁王門の様に府道54号を挟んで街道側を見下ろして園部市街地から京街道 (デカンショ街道)への侵攻や、京都丹波の拠点・本目城への侵攻を監視する八上城配下の監視砦だったのでしょう。天正年間初め:宇野氏が拠ったともいわれるのですが…?北船坂城についても城史は船坂城と同じと思われますので省略します。 九品寺から府道453号を北上すると府道54号線と合流します。其の交差点を左折すると50m程で興禅寺前・其の背後の丘陵上に北船坂城の遺構を見ます。民家の裏手から取り付く山道を尾根通しに進むと 此の尾根先部には幅約10m ・2段程の遺構とも思える平坦地がありますが、周辺の斜面も・さして急では無く、尾根も50m程は緩やかな傾斜で 此処まで城遺構と思えるものは何も無い?。 小さな曲輪の段差が細長い尾根上にあるようですが雑木藪の中で山道も尾根に平行して少し南側についている。
北船坂城:西末端の曲輪から主郭の西曲輪(立木部)と東曲輪(最奥部)


やがて少し幅広の曲輪段差を確認したら其処が主郭で約10mx15m・高さ約1.5m程の方形台地が二つ有り、道は此の二つを繋ぐ帯曲輪となっています。 西の台形郭の先には15x20m程の平坦地があり、地面は勿論・周囲の立木も猪の土風呂!の洗礼を受けて一面白っぽく荒らされています。曲輪は低い段差で堀切も無く其のまま緩やかな尾根道が続く緩衝地?二つの城共に・室町時代末期から 天正期の動乱期の合戦に備えた城砦とも思えません。波多野氏方や宇野氏が拠った船坂城の戦いはどんなものだったのでしょう…?
(戦国、織豊期城郭論ー丹波国八上城遺跡郡に関する総合研究 八上城研究改編、 丹波史年表等を参照)


黒田城(木崎山城・片山城と 上木崎城
黒田城
 木崎山(黒田山 264m)   南丹市園部町黒田岩谷・片山城

田園が拡がる府道54号線から「黒田古墳」の看板を見て工業団地と黒田集落に向う 一直線の地区道からは城山から東へ高度を下げ府道 54号線沿いの園部川に本梅川が 合流する川沿い新黒田橋(東行き・西行き専用二本の橋が架かる)からは丘陵尾根北西の木崎山(標高264m)に目指す黒田城・一気に高度を下げ伸び出す舌状丘陵部中程?には上木崎城が在りました。
黒田集落から望む黒田城南尾根

新黒田橋の東詰め:横田の交差点でR477号に繋がり、 尾根末端部が落ち込む所の”園部河原町”交差点でR9号(山陰道)と交差する。黒田船阪工業団地に 園部黒田古墳があり、此処から望む黒田城の東から北方へR9号線山陰道が亀岡方面から観音峠を越えて 市森城(須知城)や水戸城(位置不明?)へ通じる要衝。、
南出郭:北面切岸と帯曲輪

南方へは船坂城・北船坂城の間を抜けて天引峠や、園部川沿いに宍人城側を通って南八田からR372号線を西方の 篠山市福住方面に通じる街道が走る交通の要衝に位置している。天正年中(1573-92)明智光秀の”京丹波攻め”の際には北に須知氏の市森城 ・南には小畠氏の宍人城が、共に早くから明智方に付いていました。
南出郭と南郭間の二重竪堀

其のため宇津氏(京北町)や波多野氏(篠山市)等と共に反織田方にあった森氏の黒田城は、 特に園部町の旧船井庄を挟んで3km程で対峙する宍人城とは再三小競り合いが有ったと思われ両城の中程にある名刹:九品寺が兵火に焼かれてもいます。 山裾に並ぶ集落内を辿って府道と合流する集落東端民家傍まで狭い地区内に路駐スペースは少なく当初は黒田古墳から往復したが、
黒田城 :東曲輪の三方を囲む土塁

集会等予定が無く空いているときは黒田区公民館を利用させてもらい地区東端の丘陵裾に向かうと、地元自治会によるものか「黒田城山を守ろう会」の看板と、スキー板を案内標識として整備された登山道を 10分程で南出郭に登り着く。登山口で右手尾根筋に向かう杣道も南郭段曲輪下部を捲くように延びるが、 途中の急斜面に薄い踏み跡を辿ると南出郭群頂部の主曲輪?に着く。
南郭西面下の虎口受曲輪!!?

北面に1段帯曲輪が付随するが藪で状況は不確か。登山道と合流する南出郭の緩斜な尾根筋が傾斜を増し始める尾根沿いに大きく見事な!!竪堀が二本並んで落ちる。南郭・主郭・東郭が三方を囲む谷筋に等間隔ではないが、更に奥に数状の竪堀が平行に並んでいるよう?。展望が拡がる尾根筋の出たかと思うと東下部へ下る道が南出曲輪へ通じます。
黒田城南出郭から黒田山の本郭部

荒れているが細い尾根筋を均して2〜3段の平坦地が有り、 尾根筋の曲輪に沿って急斜面となる南西には幅の極く狭いが幾段もの階段状阻塞群とも呼ばれる雛壇式に小曲輪が配されているが、 雑木藪に被われ写真には撮り難く元の尾根道に戻ると、主郭南尾根の登山道は直ぐに主郭部に入り南端の曲輪切岸が見えてくる。登山道は南郭の切岸正面を迂回し南西端虎口から南郭に入る。
南郭・南出郭間の竪堀

北へ延びる尾根に2段程の小曲輪を通り、主郭への尾根を遮断する土橋付の堀切を越え階段状 2〜3段の小曲輪沿いに南西面を主郭に繋がる上り土塁通路から一際高い切岸を見せる尾根最高所・黒田山山頂にある主郭の本丸曲輪 (25−30u程)に入ると中央に祠を祀る平坦地で、本丸からは樹木が育ち園部市街地方面の展望は
主郭・東郭間に土塁を挟む二重空堀と土橋?

期待出来なかった。主郭切岸沿いに北へ”スキー板の標識”をみて下る先に土橋付き堀切と外側に一つ・土塁曲輪が備わる。祠の東側へ”スキー板の標識”を進む東尾根は主郭下部から続く東西45m・南北 20m程の東曲輪と主郭を二重の空堀(肩堀切 )で遮断して、尾根端の一方を土橋とし二つの曲輪を繋ぐ虎口状。東曲輪は周囲三方に 土塁が廻らされています。
南郭:虎口受け曲輪から腰曲輪へ

曲輪内部は草木も少なく、しかも此処からの眺望は良く、観音峠方面を望むが、曲輪内は獣の足跡が入乱れており随分荒れている上、土塁も崩れて 幅広くなり砂地の丘に倒木・枯れ木が覆う残念な様相です。東側の土塁囲み曲輪は本丸下部の細い通路で繋がっているようです(未確認)。本丸から北の山側は土橋付き堀切で遮断した曲輪が一つあるだけで搦め手の抑えか物見台だったか?。
南郭・主郭間の堀切

高屋茂男氏が黒田城の曲輪と竪堀の関連を不明とされるように、 南尾根筋の南出郭にみる 規模の大きな(畝上?)竪堀といい、東尾根からの侵攻を意識して対処した東郭を取り囲む土塁等縄張りが、 在地土豪の構築のみではなく・後期”丹波攻め ”明智軍に対して防備を強化し共に抗した宇津氏 (京北町 )や波多野氏(篠山市)・内藤氏(八木町)等外部勢力との影響による城の修・改築が考えられます。

堀切から主郭に向かう :上り土塁と段曲輪


黒田城主:森氏は信濃国に発し近江国森庄の佐々木一族の出とされます。 平安時代:村上天皇の天暦元年(947)森筑後守宗政が此の地:黒田に居住して 木崎山に陣屋を築いて移ったと云われ片山城とも木崎山城とも呼ばれます。 黒田城は源頼朝が鎌倉幕府を開いた建久年間(1190−99)初め:筑前守宗友の頃に落城し麓の館に移ったとも…落城に至った起因や居館の位置については定かでなく不詳です。
主郭から北尾根側の堀切と土塁曲輪

南北朝期には下記大山祇神社の落人伝説にもあるが、城の北方をR9号 (山陰道)が観音峠を越え京丹波蝶の水戸・須知に入る。 水戸もまた楠木氏の落人伝承地で、微力ながら?南朝方の砦として水戸 (三戸)城<未訪 >が”三戸山の戦い(詳細不詳)”の舞台になった事でしょう。 南朝方有力勢力は無さそうで、一時期南朝方についた土豪も足利氏の傘下に入った事でしょう。
横田新橋から :上木崎城(中央)−黒田城(左奥)へ延びる舌状丘陵尾根

森氏も北野天満宮社領の船井郡内の荘園領主として、其の後は京都守護代内藤氏方に 付いていたのでしょうか…?。天文2年(1533)三好氏・内藤氏が執拗に侵攻を繰り返す氷上郡の赤井氏(黒井城)・多紀郡・籾井氏の安田城(籾井城)の戦いに森越前守高之は戦功を積んだのだろうか?。天文年間は八上城主波多野氏家臣 :荒木氏綱(荒木鬼の異名をもつ細工所城主)が園部城主として拠ったとの伝承がある。
上木崎城:露岩台地の物見台?は低位置だが足下に山陰道・東北の園部ICへ眺望有

八木城の内藤氏方の参戦して同じ波多野氏配下の家臣:籾井教業(のりなり )も丹波の青鬼の異名をもつ武将等・兵庫丹波に攻め入って軍功を挙げたとは…?。天文19年(1554)黒田山合戦に於いて竹内弥五郎の軍功により領地知行を安堵する旨の感状【園部村下司職の竹内孫五郎宛古文書】があり、此れが室町時代末期の 1501〜1557年頃に黒田城と宍人城が争い、九品寺が其の兵火よって燃亡したという。
上木崎城 :東先端から西尾根続き鞍部の片堀切状は登城道か?(下方は居館適地!?)

その後天正6年(1578)高之が城主の時:天下布武・信長命による”丹波平定”の明智光秀軍に滅ぼされた。落城後の森一族は此の戦いに 降伏した多くの丹波の領主が辿ったと同じく?帰農したか!!・明智光秀に付いて更に本能寺の変に参戦したか、なをも一族再興を託して豊臣秀吉の軍下で転戦したものか?。 
(丹波史談会「丹波 」4号 高屋茂男氏掲載等を参照)
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上木崎城  xxx山 Ca200m   南丹市園部町上木崎町下中畷

黒田城(木崎山)から東に向い延々と舌状の低丘陵尾根が本梅川を蒐めて園部川左岸に沿って伸び出す。宍人城は本梅川沿いに在り園部川合流地点付近には 九品寺がある。
城域中央付近(東郭)の段曲輪・土橋状は踏み固められた近年の山道か?

室町時代末期(1501-57)頃・黒田城の森氏と南方の宍人館・宍人城小畠氏 の争いでは其の中間に位置して兵火に遭っている。北方に黒田集落・木崎山(黒田城)を望みながら府道54号線の新黒田橋を渡る。 橋の真北の尾根上から尾根東先端部にかけて、粗直線的に延びる低丘陵(比高30-40m程)痩尾根上を
中央郭部の土塁・曲輪

先端部にかけて分布する平坦地形(曲輪?)が上木崎城の城域!!。黒田城の出城・東出曲輪的存在だが建久年間(1190−99)初め筑前守宗友の頃に黒田城は落城 ・麓の館に移ったと云う。居館なら黒田城南麓よりは尾根を背にして南は園部川・東から北麓も溝谷が廻り自然の濠が要害を成す尾根先端部の南から 北へ廻り込む一帯が適所と思われます。
主郭(西郭)の大土塁

新黒田橋を東に渡るとR372号線埴生 (埴生城がある)から八木町境を経て半田川沿いのR477号に合流し再び園部川に架かる横田新橋を渡る。R477号は東北約200m程でR9号(山陰道)と合流する河原町交差点。半田川が園部川に流れ出る真南約200m程地点が旧 園部城の在った小麦山と園部公園・半田川左岸を遡れば小麦山の南西約600m程に 大村城や黒田城の南・園部川を挟んで
主郭(西郭 )部西尾根の大空堀(巨大な箱堀)状?

約1km程には半田城館・半田城等が点在する。此れ等の城砦と黒田城との関わりは不詳だが、 園部城からみれば天引峠を源頭?とする園部川沿いの府道54号は黒田城南麓を抜ける利便性の高い篠山街道。東先端から北麓を山陰道(R9号)
が通る交通の要衝。上木崎城への取付き点を探して R477号線”横田新橋”東詰めからR9号へ抜ける200m程の狭い地区道に入る。
主郭西尾根土塁道?:西に曲輪は無さそうだが左右斜面は空堀・竪堀状

丁度中間付近の竹藪の横の溝谷に架かる小さな橋を渡った処・小屋の北側から露岩の急な細い尾根沿い階段道がある。直ぐ上部15m程に愛宕社らしい?小さな祠が祀られており其の参道らしい。祠手前を直上すると東末端に在る物見台!!。低位置に在りながら足下を北方へは山陰道(R9号)・東から東北方の園部IC付近一体を 眺望できる細長い尾根上の城域唯一の展望台。直ぐ西尾根続きの鞍部は北方からの片堀切状で、
主郭(西郭)南面に数段の腰曲輪・帯曲輪

尾根筋北麓の溝谷と丘陵を背にした居館適地の平坦地形!!?。虎口ともなる登城の堀底道か?。緩斜な尾根筋が最初の段曲輪を見る東郭部に入る。中央の土塁道状は近世以後の山仕事で踏み固めらた山道か?。主郭(西郭)東北端には竪堀が、尾根南端の上り土塁沿いに3-4段(切岸は曖昧だが残存状態は良さそう …)曲輪が続き最上段西南端に大土塁が築かれている。
中央郭西・主郭(西郭)東北鞍部の竪堀

西尾根続きは堀切かと思ったが尾根幅一杯に拡がる大空堀(箱堀状)より西尾根には土塁道・土橋状地形や尾根左右に空堀・竪堀状を見るが此の付近だけに集中する為、大き過ぎる空堀状を見ても自然地形と思える。 黒田城前衛の出城なら、東下方からの攻撃に対する防御が主体となる筈だが顕著な土塁は反対側の西南に有るだけで、 東面に土塁や曲輪の切岸加工処理は弱く ?・防備面の弱さばかりが目立つ。中世戦乱期・どの様に利用・使用されてきた城砦だろう?。
主郭(西郭)南面帯曲輪

只取付き点付近は狭い地区道で、広い草地の駐車スペースも個人所有地で路駐出来る処はなく黒田区公民館から黒田城を訪城の後 ・園部川沿いの府道 54号で新黒田橋・R477号の横田新橋を渡った東詰めまで延々と歩いて取付き点に向かったが、南側の園部公園グラウンド付近に駐車可能なのかも知れないが?。


天神山城 天神山・城山 Ca190m   南丹市園部町竹井マキ・城ノ越

南丹市園部町の山城で天神山城と云えば、多紀郡(篠山市)八上城波多野氏の家臣で 細工所城主でもあった荒木氏綱が拠ったとされる小麦山(小向山)山上に在ったとされる 旧園部城?の事だと大概の方は思われるでしょう。園部城近辺で地図上に山名が唯一?表示されているのが小向山ではなく園部城を挟んで南東に位置するのが天神山(標高236m)だが、此の天神山が城址であるという(縄張り遺構等 )報告を未だ知らない!!?。山麓には全国唯一・生前の菅原道真公が祀られる生身天満宮が鎮まる。、
城山天神(二段曲輪)と主郭虎口に向かう上り土塁

園部城から園部川沿いにR477号・府道54号(篠山街道)を西方へ約5km程走ると、府道454号線分岐のさき・篠田橋を渡った摩気神社前バス停の北正面・車道に覆い被さる程に迫り出す崖状丘陵が天神山。篠山市方面からR372号(デカンショ街道・京街道)で天引トンネルを下ってくると瑠璃渓口で府道54号を右折すると、 瑠璃渓から天王坂を経てR173号(能勢街道)を大阪府能勢町・川西市・池田市に通じる。
府道 54号を挟み天神山城と蛇行する園部川

左折し園部川沿いの府道54号線を走る 。府道の傍に在りながら今まで寄らなかった天神山城へは城下・西方の辻田垣内に在る竹井公民館の駐車スペースを暫くの間借用して250m程先の城址に向かう。丘陵部西端沿いに北へ向かう狭い坂道は直ぐ民家の建つ東へ分岐するが民家先からは山道が東へ抜けるよう!?。
主郭から南東端:下方に上り土塁

”城ノ越”の小字名が残る 細い丘陵北麓の山道と南麓を抜ける府道 54号に挟まれた天神山・城山天神は東西約250mX南北130m程の丘陵先端部の頂部に主郭を置く天神山城が南へ3-4段切岸高い段曲輪下部の中腹・ 二ノ曲輪(仮称)広場に城山天神社が祀られている。生身天神が祀られる園部町内の天神社には、なにか特別の憶いがあるのかも知れない。天神社は築城以前より既に此処に鎮まっていたか廃城後・近在に祀られていたものが 此処に移遷されたものか!!?。
主郭西北端から西面切岸

天神山城の主郭の東面に 裏虎口が有り一段下の腰曲輪の降りるが東斜面下に長さ20m程の大土塁と空堀がある。主郭と3m程切岸下の腰曲輪から東斜面は 急斜面だが途中に何も防御施設・曲輪はないまま、下段に空堀と大土塁が横たわる。東南下の篠山街道 (府道54号・園部能勢線)からの侵攻に対し応戦するには有効な武者隠しの遺構らしい。南側直ぐ下に墓地…北側は 城域北裾を東西に抜ける山道?が有る。
主郭東面中腹:空堀土塁は武者隠し

府道54号から北に向かう 地区道西端付近・民家が建つ付近の小字に”城ノ越”の名が有り、東裾の屋敷跡?を府道54号線”摩気(まけ)神社バス停前”に抜ける道にタワ(鞍部・峠の意味か!?)やマキ(捲く…の意味か!?)がある。府道54号線東のマキ・タワを通り 城址北裾を府道54号線西に抜ける道が”城ノ越”の 搦手ルートだったか。北裾のタワ側からの比較的緩斜面が”武者隠し”の空掘に通じる。 大手は摩気神社バス停前からマキの民家裏から続く城山天神への参道。主郭南端にも虎口があり、どちらも土塁虎口ではなく・
主郭東南側虎口と腰曲輪

曲輪切岸の角を削り落とした溝状を入る虎口受け曲輪が主郭一段南下にあり、此の6-7m切岸下の二ノ丸<仮称>広場に鎮まる城山天神(天満宮)から 尾根西端に造設されている上り土塁が主郭に入る虎口受け曲輪の西端に通じている。二ノ丸広場は天満宮【創祀年代は不詳だが御祭神の菅原道真公については園部町内には全国唯一:生前に祀られた生身天神が鎮座する土地柄・同町内の 天神社には特別の憶いがあるのかも…知れず ・また天神社は築城以前より既に此処に鎮まっていたか、廃城後に近在より移遷されたものか !!?】が祀られる覆屋の建つ土壇と7-8段の石段参道の段差1.5mで二段曲輪で成るが、上り土塁道が二ノ丸の南西端まで廻る。曲輪南端中程に石鳥居(平成元年4月建立)が建ち石碑は”足立株(一党)”によるもの。
大手土塁虎口を二ノ丸<仮称>の城山天神へ・右手曲輪は屋敷跡・武者隠しへ

鳥居からは南東側の土塁虎口を出て二段の曲輪切岸を廻り込む様に 城下の民家側へ降り立つ。上の二段目曲輪が空堀・土塁の武者隠し下の古墓地?に通じる様だが井戸(泉)跡もあるよう?。一番下段の畑地跡等?平坦地形が二ノ丸屋敷跡とも…。旧船井郡園部町(南丹市)の郷史からの抜粋らしい?が、城山天神社の覆屋内にある説明記事には土岐源氏の後胤足立日向守忠満が応仁元年(1467)上新江に移住し、その子大和介信光が 室町時代中期:明応4年(1495)天神山城を築いたとある。
二ノ丸(城山天神)南端の土塁虎口部

在地土豪となって二代後の日向守栄政により永正6年(1509)新江(仁江甲溝畑)に徳雲寺 ・玉雲寺共に「船井の三うん寺」龍隱寺を開基したという。小山の古城は船坂城を指す様だが 船坂城と北船坂城が在り新江の両要害と呼ばれ、共に足立氏一族の居城であったと推察され足立猪兵衛が居城を伝える。土岐氏は清和源氏の一流・摂津源氏の流れを汲む美濃源氏の嫡流で最盛期には美濃・尾張 ・伊勢三ヶ国の守護大名ともなったが、戦国時代に斎藤氏・織田氏・北畠氏等との勢力争いで没落した。
主郭から南東端:下段方に虎口受け曲輪と南正面に土塁虎口!?

同族の武将には明智光秀・浅野長政・土岐定政等がおり、家紋は黒色ではなく珍しい水色の桔梗紋。しかし天神山城から麓に降りてきた民家の屋根に見る家紋は丸に五本骨扇紋。全国足立姓の祖・丹波 山垣城を本拠とした足立氏が用いている家紋だ。しかし丹波足立氏は平氏・源氏ではなく藤原北家流で武蔵国足立郡の地頭職。室町中期の戦国期にも城史が不明なうえ、家紋にも振り回される。
”マキ”から屋敷跡曲輪下を捲き上がり城山天神社へ・最上右が主郭

足立氏開基の龍隱寺は園部藩家老:大田氏菩提寺になっており (足立氏の菩提寺でもあるのかは確認していないが、荘林氏開基の徳雲寺が園部藩歴代城主・小出家の菩提寺となっている様に、寺格も高くそのまま転用され開祖が「おざなり」にされている様!!?に土岐源氏(美濃源氏)”の足立氏も「丹波攻め 」では同族の明智光秀に攻め落とされたものか?。
(現地:城山天神社にある城址説明書 及びWikipediaを参照)


大山祇神社     南丹市園部町大河内溝ノ上5

R372号(デカンショ街道)で天引峠を京都府側に越えると府道54号 (園部能勢線)へ右折して、瑠璃渓自然公園方面を目指すと途中の大河内地区に入ります。此処に神戸湊川での戦いに敗走した楠氏の京都丹波への落人伝説地は、園部町から観音峠を越えて丹波町に入る(R9号線)水戸付近にも残っているようです!!。楠氏ゆかりの大山祇(おおやまずみ)神社があるので寄っていきます。御祭神に素盞男命・伊邪那岐命・伊邪那美命を祀ります。 創立は平安時代中期:藤原純友(すみとも)【天慶の乱(939-41)を起こした】の弟純索(すみもと)が敗走後、再起を期して此の地に隠世し天暦3年(949)熊野三所権現を祀って産土神としたのが始まりといわれます。
大山祇神社(楠公訣子図)

其の純索は安和元年(968)大江山の鬼退治で有名な源頼光に討たれます。其の後 :京都「宇治川の合戦」で平氏に敗れた源頼政【攝津:多田源氏の棟梁で、和歌を嗜み鵺(ぬえ)退治の武勇で知られ 祖先が源頼光です】の弟:頼一が元暦元年(1184)に修築したといいます。室町時代初期(南北朝期前):延元元年(1336)湊川の戦で足利尊氏に敗れた楠正成の弟正季 【(まさすえ)湊川の戦いで兄 :正成と刺し違えたともされます!!】が幼少の尊恒親王を奉じて挙兵するも敗れ建徳元年(1370)湯原村に来住した正季は、 翌年には大河内村と改名し文中3年 (1374)社地を定めて 楠氏一族を祀る湊川神社や長田神社として建立されたのでしょう。明治3年(1870)現社名の大山祇神社に改名されるまでは閑明山田大神社と呼ばれていたようです。
大山祇神社:絵馬堂と本殿

本殿の建立は室町時代(南北朝合一以後)の応永26年(1419)11月20日の棟上で 楠氏の子孫という郷士:下村義親・田井義高が再建したものとされます。覆屋根下の本殿は一間社流造りで建物の構造は全て簡素ながら建立年代が明らかで、特に柿葺も初建当時の形式を良く保存している。屋根は 柿(こけら)葺・箱棟をのせ鬼板を据えている。此の鬼板には鬼面を彫刻したものを貼り付けた珍しいもので 類例の乏しい貴重な資料。また建立当時の工作型板12枚も保存されており稀有な資料として共に重要文化財となっています。

(現地 大河内:大山祇神社案内板 Webフリー・ウィキぺディア等を参照)


九品寺    南丹市(旧船井郡)園部町船阪大門

鴫尾山九品寺は「船坂観音」の名で親しまれ白河法皇ゆかりの寺です。遠くからでも山裾の朱色が目立つ山門(仁王門)は三間一戸・入り母屋造り・檜皮葺きの楼門。鎌倉時代の優れた建造物として重要文化財に指定 されています。山門から真直ぐ延びる参道奥には白河天皇の皇子で九品寺二世で京都仁和寺三世門跡でもあった覚行親王の陵墓が有り、 山裾を巡る白河院三十三所観音霊場・船坂観音霊場のミニ巡礼コースが有ります。この九品寺背山の山頂(4等三角点)に主郭を置く船坂城が在る。
九品寺大門(仁王門)

弘仁元年(810)弘法大師の開基を伝え、開山は白河天皇で承暦3年(1079)皇后の安産を祈願し九品寺の僧に加持祈祷させたところ皇子が誕生。 其処で阿弥陀堂・五重塔・鐘楼等の七堂伽藍を建立され、船井郡内の広大な領地を寺田として寄進された。其の後:白河天皇は第三皇子 :覚行法親王を九品寺に入山させ第二世門跡として中興されます。覚行法親王は御室仁和寺の第三世門跡でもあったが、長治2年(1105)31歳で崩御され九品寺に祀られています。
白河天皇の皇子:覚行親王の御陵墓


第72代:白河天皇は1095年出家して法王 (白河院)となり院政をしき、第73代:堀川天皇が成人後も政権を返す事無く専制的な政治を行い 1129年崩御されたといいます。戦国時代・室町時代末期(1501-57)頃には北方の黒田城主:森氏と南方の宍人城主:小畠氏の争いがあって、丁度その中間点に位置する九品寺が戦乱に巻き込まれ、その兵火により堂舎僧坊 ・七堂伽藍の多くが消亡したが、本堂と仁王門が焼失を免れ残ったといい、元和9年(1623)園部城主小出吉次により 堂宇は修築再建されたが、其の後は寺も荒廃して…。



園部黒田古墳    南丹市園部町黒田池ノ上

園部川沿いに走る府道54号か南八田から府道453で九品寺前を通って府道54号と合流して黒田地区に向かいます。「黒田古墳」の案内標識の先に○○機械工業の白い建物が見え古墳は黒田地区内へ向う車道から・此の会社の門までの工場敷地内の北西側に芝生の丘を見せて横たわっています。 駐車場は無く左手には取水溝と貯水池があり、其の間から古墳に向う見学遊歩道が付けられており「黒田古墳」と書かれた看板が立つ。
後円部の墳頂に出土品のパネル説明板

園部町の北西部にあって黒田・船坂工業団地の造成に伴って平成2年(1990)に発見され発掘調査され、古墳公園として復元されたもので、口丹波最大の垣内古墳 (4世紀末〜5世紀 )よりも約100年程古く、弥生時代から古墳時代前期にかけての我国でも最古級の古墳といわれ、○○機械工業敷地内の門に向う右手に見える。 全長52m・南北約32m・東西約27m・高さ約5.5mの前方後円墳(または前方後円形の墳丘墓)で、墳頂部には古墳と出土品を写真パネルにした説明陶板が置かれています。
前方部から後円部

後円部は楕円形をしており埋葬施設は2ケ所で、第1主体部は2段に掘り窪められた底から木棺をはじめ、副葬品の鏡・管玉・鉄製品や漆器 ・土器等が出土しています。中でも意図的に割られた状態(当時の風習を知る上で貴重な発見)で出土した鏡は、龍鳳文様(双頭龍文様鏡)と呼ばれる中国(後漢時代)製と考えられています。此れ等の出土品から、古代の丹波を知る上での貴重な 資料であるばかりでなく、弥生時代後期から 古墳時代への変還を考える上でも大変貴重な資料といえます。なを此の黒田古墳の周辺には、北側の尾根続きに5世紀末から6世紀中頃に造られたと思われる古墳群や北黒田古墳があり、 また西側の尾根上には町田東古墳等、いずれも古墳時代中期(5世紀後半 )頃のものと考えられています。
(現地 黒田古墳案内板 Webフリー・ウィキぺディア等を参照)
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