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加古川市の歴史散策・・・・・三木合戦に消えていった城と・石棺仏と・・・・・ |
兵庫 東播磨(五万図=高砂・北条)

加古川市の館城と石棺と・・・H19年02月25日
近畿の山城
井ノ口城 野村城 加古川城
長砂構居 古大内城 野口城
神吉城
中道子山城
常楽寺(神吉城址)の石棺仏
中道子山城の石積土塁
三木合戦関連の三木市内の城砦群や、
三木城攻城の付城群や探して(まだまだ廻りきっていませんが)、何度か往復に利用するR175号ですが、今日は三木市との境界近く万勝寺川の深い渓谷を眼下に見て丘陵を越える辺り、
小野市の「市場東」交差点から西方へ県道23号〜県道18号を加古川沿いに走ります。この時期(比較的寒くなく・積雪も無いだろうと・・・して)恒例になりつつある播磨方面の城めぐりオフの、集合場所のJR加古川駅に向かう途中に有る城の新情報を、
地元”KAIさん”から得ています。正法寺古墳を右手後方に見て直ぐ其の城への県道84号分岐ですが、
近場?には・もう一つ「立寄りの湯」ならぬ「立寄りの城」がありました。趣味の登山からも疎遠になり、城郭関連の遺構や歴史にはトンと興味をもっていなかった頃、日帰り温泉や自然水ブームの頃には名水汲みに近在を廻っていた頃に
立寄った事のある加古川温泉「みとろ荘」を振り出しに、加古川市内から小野市へと山城を一つ挟んで下記にレポートします。


井ノ口城 野村城 加古川城
長砂構居 古大内城
野口城 神吉城
井ノ口城(井ノ口構)
xxxm 加古川市上荘町井ノ口
加古川の右岸土手沿いに走る県道18号線から県道65号線に採って上荘橋を渡ります。西方に無線施設の鉄塔が目立つ神野の城山:西条城が見える。
加古川左岸に移って東へ戻り気味の山手?田圃風景
の拡がる北方の
少し小高くなった丘陵部に目指す「みとろ荘」が見えています。国民宿舎の看板が掲げられていた頃の寄った「みとろ荘」は、田園風景と加古川沿いの土手を望む露天風呂があった。今は民間の経営に移った様ですが概観は昔のまま。
其の玄関口脇の小さな築山の中に「井ノ口城址」の表示案内板立てられています。
井ノ口城址案内板(みとろ荘玄関)
「みとろ荘」東面の谷が堀と高い切岸を彷彿させる
【加西市:「根日姫の湯」のパンフレットには
根日女の物語があるが、 此処・加古川温泉「みとろ荘」のパンフレットには「みとろ姫」の話が載せてあった。室町時代初期:赤松満裕に従った城主:井ノ口家治の姫:美登呂姫が名称の由来になっています。
根日女は二人の皇子に慕われ、其の心労から病死するが、美登呂姫は想い叶わぬ家来の青年による逆恨みから殺されてしまいます】の伝説や、近くには供養の塚や石棺仏があることを思い出したが、他に寄る所もあって割愛する。
井ノ口城は「みとろ荘」の建つところが本ノ丸跡とされ、整地され遺構は残らないと云われます。しかし:城の規模は「播磨鑑」によると本丸は26間(46.8u)、二の丸は27間(48.6m)x21間(37.8m)有ったとされますので周囲を廻ってみます。
玄関前の車道を隔てた北側には4m程の切岸状と細い溝を廻した田圃があり、田の東側を流れる溝川は、東面から南面一帯を急斜面で囲まれる”みとろ荘”の外周を取り巻き、西端部で南方の加古川側へ流れ出て外堀然としています。
城址とされる敷地内西面から北側の車道に沿っては高い土塁が築かれていたのでしょう?。南側は遠目にも判る急斜な崖状を呈しており、露天風呂からも展望が拓けます。築城年代は不明ですが室町時代初期:南北
朝期末の至徳三年(1386)赤松氏範(赤松円心の四男)が播磨国清水寺
に籠もって挙兵したが敗れ、氏範に従った家則ら一族は此処に自刃して果てます。志方庄に残されていた志方城主志方家則の遺児二人を養育したのは櫛橋伊範で後ち、一子を櫛橋別家に立て、二男志方孫次郎家金が城主であったと伝えられます。
「播州諸城交替連綿之記」によると、明徳2年(元中8 1391)の合戦に武功をあげた家金が井口氏の始祖となり、その子の井口伝右衛門家基・兵庫助家繁と居城しています。
「みとろ荘」正面玄関と北側の田圃の様子

山名氏と戦った此の明徳の乱で櫛橋伊範は戦死します。井口氏は後:揖保郡浦上荘・栄の城に移り、その後、天正年間には志方城の麾下に入り、
三木合戦の際には別所長治方に付いた志方城の家臣:依藤三河守・同小八郎(別所安治の末子)の居城になった様です。そして天正6年(1578)依藤氏は三木城にあって、羽柴秀吉軍と戦い、三木城と運命をともにしたというのですが!?。
永禄2年(1559)別所重棟に攻め滅ぼされた東条谷の依藤氏ですが、三木合戦開幕当初:別所長治に付かずに攻め滅ぼされた
細川館の冷泉家へも救援に駆けつけた依藤太郎左衛門?がおり、結果は敗走し自刃に追い込まれます。三木・別所方にも重棟等の織田方がいた様に、
三木別所方にも依藤氏がいたのでしょう?。家系存続の為・敵味方に分かれる苦渋の選択があったのでしょうか?井ノ口城の訪城後にJR加古川に向かうのに、今日の播磨城オフ関連では欠かせない神吉城があるので廻ってみたいが、
もうひとつ場所がよく判らない。地図上で見る限りは簡単に判りそうですが、この後:神吉城近くを通って中道子山城に行くので、寄って貰えるだろうと思う。其れよりオフ企画の”KAIさん”から野村城の山城情報と縄張り図まで用意して貰い、
18号線を宗佐交差点まで引き返して県道84号線に入る。
(現地井ノ口城址案内板 平成14年3月 加古川市教育委員会等を参照)

野村城 xxx 55m 加古川市八幡町野村 (城址案内板は城域とは離れた宗佐八幡神社にある?)
結果から言えば先に野村城へ寄った方が良かった。県道筋から眺めても城址までは其れ程離れた距離でもないと多寡を括っていて、「宗佐の厄神さん」と呼ばれ信仰を集めている八幡神社から背後の山に

入り尾根を辿ってみようと思い、参拝者用駐車場に入る。
宗佐の厄神さん(八幡神社)は祭神に息長足媛命・品陀別命・仲姫命を祀り、天平勝宝年間(749-757)に孝謙天皇の勅願所として創建されています。九州宇佐八幡に向かう和気清麻呂が 道鏡の家来に襲われたとき、
一頭の大猪が現れて清麻呂を救った伝説があり、其れ以来・厄除の大神様として崇拝されるようになり「宗佐の厄神さん」と呼ばれています。
宗佐八幡神社:石棺
宗佐八幡神社本殿:背後の山が野村城だが・・!!
一般駐車場から参道石段にかかる登り口が濠状になって山裾を巡るが参詣車道側に「御神水」の看板・・・・神社設備のひとつの様です。宗佐の八幡神社本殿前に続く参道の石段を上り詰めた敷き石の両側には、
古墳時代後期に造られた凝灰岩(竜山石)製の石棺の蓋石が立て置かれています。共に高さ約115cm・幅80cm・厚さは25cm程のもの。 さて野村城は最近:城址探索された地元加古川の”KAIさん”から情報を得て寄ってみたのですが、
判ったのは城址看板のみ・・・(^^ゞ 宗佐八幡神社本殿(内拝殿)西側(左手)の社務所奥にある「なまこ壁の倉庫(神輿庫か?)」の北:山の斜面との境には、20数年を経て錆が目立ち始めた鉄板だが文字は読める「野村城址」の案内板が立てられていますが、
城跡の位置はこの低丘陵北方に延びる幾つかの小ピークの先にあります。
場所が違う!!?。城址目指して神社背後の尾根北方へ向う。高離も少なく稜線も緩やかなのですが、本殿裏手に廻って進み・始めは神社域に道筋は有ったが
藪や倒木を避けて進むうちに踏み跡を
外したものか、
思わぬ手強い密生した雑木と藪に進退窮まり、歩いては進めず其れでも”ほふく前進”しながら進んでxx播磨学園前の車道に出た。諦め切れずに城址ポイント付近の丘陵北西端付近を歩いていて二重に並ぶ竪堀状を見たが、
縄張り図に其んなものは載っていないし、 城域は稜線より西下方に伸び出すが此処は急斜面上にある。
民家裏の低丘陵上に在る野村城
宗佐八幡神社の北奥に立つ城址案内板
トレースした尾根筋が、本当の?野村城とは大堀切(自然地形の谷筋を横掘りとしている)を挟んだ
東側の藪尾根だった事が判った。この横掘り(緩やかな竪堀状?)を北へ降りきると、東側少し上にXX播磨学園正門前下方から県道84号(宗佐土山線)への車道に出る。集合時間まで30分程しかないので急ぎ八幡神社に戻り、
2号線経由で加古川駅に向かうが遠回りなので稲美町に入って直ぐに西方への車道に入ったが、土地勘も無いのに細い道に入り込んで焦る。辛うじて間に合ったか?駅出口付近で資料を配布しあっているオフの参加メンバと合流出来た。
【再訪を期して野村城について付記】八幡社裏手の案内板には野村城の城主を宮部吉祥坊 ?(後述の英賀や鳥取攻めの項で宮部善祥坊継潤 (つぐます)と判るが)で剣術の達人だったとも云われます。
近江国浅井郡宮部村の出身の比叡山僧兵で信長に惹きたてられ、信長が本能寺の変に斃れた後は羽柴秀吉に従って軍功が有り、野村氏によって築かれたとされる野村城の城史については、築城
年代や城主名も不明の様ですが、文明元年(1469)から落城する天文年間(1532-55)まで代々野村氏が居城していたのでしょうが、
天正6年(1578)秀吉の中国平定の際の評定に起こった三木合戦初期には、三木城主別所長治の麾下にいた城主(城主・城史共に不明)も退き、秀吉方の宮部善祥坊継潤が入って野村城を改修します。
野村城:北面の切岸
野村城:土塁囲みの曲輪と横掘

地肌を見せる切岸を越えて広い本丸(南北に幅約20mx東西長さ約50m)に入る。東側には段差約5m程で横掘があり、横掘に面する曲輪端三方を低土塁が廻る。
横堀の東と北にも堀を挟んで二の丸と三の丸がある。この二ノ丸・三の丸を南北にも横掘りが走り、此の城で珍しいのは?東西・南北二つの横掘りが二つの曲輪を分けているのに横掘りが交わる部分には、曲輪を結ぶ土塁がある?。
閉鎖土塁と呼ばれるらしいが、土橋付空掘や堀切と如何違うのか分らない!!?。本丸下方側に二ノ丸・三の丸を繋なげる通路が有るのに、何故堀を塞いでまで土橋(土塁道)が必要なのかがよくはわからない。
加古川の河川監視には少し離れ過ぎている様です?が、野村城の付近には加古川沿いに三木城:別所長治方の家臣:上原氏・加古氏の宗佐構居や、西隣には加古氏の国包(くにかね)構居が有りました
【埋蔵文化財調査の分布図に頼っても・細い田畑や住宅内の道を推定地!!だけで探してみるのは時間の無駄だと、諦めて引き返したが・・・】。
稲美町や加古川市方面から県道20号(加古川三田線)、
三木鉄道(第三セクタで事業存続されていたが平成20年3月末で廃線となった)沿いに、三木へ入る西側境界の入口にあたり、三木城の付城とい
うより三木城へ篭城等で向う別所氏方の援軍に対する監視・阻止する任務を担って、三木合戦が始まった当初に築かれた城と思えます。
また三木合戦に際しては法界寺裏山の城砦を落として、此処に善祥坊砦(這田村法界寺山ノ上付城)を築き秀吉軍の部将として武功を顕し、
天正8年(1579)毛利氏との英賀戦争にも功が多く、且つ天正9年(1581)7月の因州鳥取城攻めの時には、一方の旗頭として従い軍功があり翌天正10年には5万石で因幡鳥取城主となっています。
野村城:閉鎖土塁?
野村城本ノ丸:広い曲輪の東は土塁で囲まれている

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで西軍に属した為領地を没収された。「播州古城蹟集禄」には野村城、野村本丸東西19間、南北13間 二の丸は東西20間・南北13間、
三の丸は東西18間・南北13間で城主不知 別所長治幕下と記録されている。(昭和59年3月 加古川市教育委員会の野村城跡案内板)丘陵部の山裾を囲むように南に八幡神社、東面を北へ・特に東北部のxxx学園から西北の県道84号へは工事車輌専用道路。
宅地開発されれば神域を除いては直ぐにでも破壊消滅しそうな勢いです。城域に至近の八幡神社なので境内も居館等、野村城に関わる遺構の一部だったのでしょうか?。
(現地加古川市制50周年記念の「わがまち加古川50選」野村城址・石棺・八幡神社の案内板 加古川市文化財保護協会等を参照)

加古川城 加古川市加古川町本町
JR加古川駅から西へ約1km程・最初に向かったのがR2号線沿いにあって、加古川橋の手前にある仏頂山称名寺
(真言宗 本尊:阿弥陀如来)が加古川城です。 ・・・とは云っても城址を語る遺構は無く、参道左右の生垣の奥に四脚門の山門が建ち、其の横の築地塀に立つ「加古川城址」案内板くらいのもの。しかし加古川城の歴史は古く、
「寛政重修諸家譜」によると、糟屋氏を藤原北家良方流としている。相模国糟屋荘に生まれたため糟屋
氏を名乗る様になったといい、播磨での糟屋氏は加須屋とも書かれます。平安時代末期:遠祖・糟屋有季が寿永3年(1184)平氏追討の宇治川の戦いに戦功があって、源頼朝より加古川町付近(播磨国加古郡雁南荘)を与えられ、
糟屋(糟谷)有数のとき加古川城を築いて初代城主となったとされています。
加古川城址の案内説明板
称名寺参道から山門を望む
室町期の加古川城は播磨守護所として守護代の糟屋氏が赤松氏・更には別所氏に仕えて代々継いで在城していますが、なんといっても有名なのが、
糟谷助右衛門(内膳)の時には加古川評定の舞台ともなり、賤ヶ岳合戦「七本槍の一人」糟屋武則の居城だったことですね。「播磨鑑」によると称名寺付近一帯50間(約90m)四方の方形館だったようです。戦国時代:
城主は別所長治の幕下であった糟谷助右衛門(内膳)で、天正5年(1577)織田信長:天下布武による中国攻めで、羽柴秀吉が毛利氏攻略の為に播磨へ入った際には「糟屋の館(加古川城)現在の称名寺付近」に寄って休息し、
当地領主の事等を詳しく尋ね此処で軍議が開かれ、其れ以来:糟谷助右衛門は秀吉に仕えて小姓頭となっています。当初:別所氏らの協力を得て僅か1ヶ月足らずで播磨大半の豪族を掌握し、但馬や毛利方勢力の福原城や上月城(佐用郡)を武力平定して
後:天正6年(1578)改めて秀吉の播州入りでは、加古川城に本営が置かれ国内諸城主を召集して軍議を行った。三木城城主別所小次郎長治は若く、其の補佐する後見役として織田家と親密な別所重棟と毛利方とは誼にしている別所山城守吉親がいた。
城主の代理で出席したのが家老三宅治忠等と、毛利贔屓で名門意識の強い叔父:別所吉親だった事が、三木合戦の悲劇を招く元凶となった加古川評定でもありました。立身出世した秀吉を”成り上がり者”として嫌っていたようで、
席上で其の秀吉から一喝を受けて面目が立たず!!?、三木城へ帰った吉親は織田方に付こうとする長治を説き伏せて信長からの離反を決意させます。
おりしも・丹波では織田氏と交戦中の八上城主波多野秀治の娘が別所長治の妻であり、三女は黒井城主赤井直正の妻・波多野秀治の二男は毛利元就の三男:小早川隆景の養子にと三者共に姻戚関係にあって 反織田色が濃い。この加古川城の会議決裂によって、
毛利氏と別所氏に挟み撃ちされた形となり書写山に本陣を移した秀吉軍が三木城配下の周辺の諸城を次々に攻め落として、今日廻る城館の野口城を手始めとして神吉城・志方城等が次々と落城させられていきます。加古川城は
・これら三木城攻略の基地ともなったようです。三木城の別所長治も周囲の播磨の豪族に号令して勢力を結集し秀吉方に付こうとする勢力の掃討に出ます。其の見せしめとなって、此の時に討たれたのが藤原氏の末裔である冷泉為純の
細川館で、生き残った為純の3男が朱子学の祖とされる藤原惺窩です。糟谷助右衛門の子:加須屋朝正は三木城主別所長治に付いて三木城に篭城して討死しています。
七騎供養塔(称名寺境内:火伏八幡前)
一方弟の武則は糟谷を名乗って12代加古川城主となった糟谷(内善正)武則で、
黒田官兵衛の推挙により豊臣秀吉に仕え、三木合戦に於いては箕谷ノ上付城(三谷ノ上付城)に布陣して武功たて、其の後も各所に転戦していたが
天正11年(1583)賤ヶ岳合戦では「七本槍」の一人に数えられ、一番槍の功名を挙げる活躍から加古川12000石を秀吉より与えられていますが、関が原の戦いには西軍に付いた為に領地は没収され廃城になったようですが、糟谷武則の消息は不明です。
その子宗孝も西軍の秀吉方として慶長20年(1615)大阪夏の陣に参戦して戦死し加古川城は破却されたようです。称名寺境内の「火伏せ八幡」の堂の前に七騎供養塔が建っています。あります。七騎供養塔の碑文は撰文も書も頼山陽の筆になるものと
云われ、文政3年(1820)に建立されています。七騎とは南北朝期の正平5年(貞和6 1350)塩治判官高貞が、事実に相違する告げ口によって京都を追われ、本国の出雲へおちて行く時・足利尊氏の軍勢に追われ、米田町船頭!?付近で追いつかれた。
其の時・弟の六郎ほか郎党七人が高貞を護って、この場に踏み止まり足利の軍勢と激しく戦ったが、 遂に全員討ち死にしてしまった。此の七騎の塚は船頭付近に有ったが、洪水等で流された様で今は残っていません。
此の碑は七騎追討の為:山田佐右衛門が願主となり、加古川の小石に法華経を一石一字づつ書いて埋め、供養塔を建てようとしたが果たせず亡くなり、寺家町の川西彦九郎・志方町の桜井九郎左衛門が施主となって完成させられ、境内に建てられています
(「わがまち加古川50選」 加古川城址の案内板 フリー百科事典ウィキペディア等を参照)

長砂構居 xxm 加古川市野口町長砂605 長砂八幡宮
加古川城を後にして古大内城に向かう途中、細い地区内の車道を抜けていくと、1.5m程の石垣の上に立つ説明案内板と「長砂構居跡」の標識を見つける。
R250号線(明姫グリーンロード明姫幹線)安田交差点の東方2km程の範囲内
には安田構居・細田構居・長砂構居・古大内城・野口城等の名が遺跡分布図にはみえる。
此の石垣で囲まれた台地上に建つ長砂八幡宮が長砂構居跡で、「播州古城記」によると二郭から成り、本ノ丸が約36mx34mの方形、二の丸が約39.5mx37m程の規模だったようです。長砂八幡宮は奈良時代・九州宇佐八幡に向かう和気清麻呂が
道鏡の家来に襲われたのが此の辺りだと云われ、一頭の大猪が現れて清麻呂を救った伝説が宗佐の八幡神社に残りますが、
長砂八幡宮も此の清麻呂公の徳を慕い建立されたといわれます。加古庄長砂村の領主は越生氏とされます。鎌倉武士団で武蔵七党の中でも最大勢力の集団を形成していた児玉党の一派であった越生(おごせ)氏一族は
奥武蔵の入間郡越生郷(埼玉県)を本領としていました。
長砂構居跡
鎌倉各武士団・諸氏族は承久の乱(承久3 1221)以後の恩賞や、蒙古襲来に備える為【文永の役(1274)頃か?】鎌倉幕府の命で西方に散らばり、これ等の地に土着していったものか、足利尊氏等と南北朝の戦乱を戦い、
延元3年(1338)高師直に従って和泉に北畠顕家を討つ等の戦功があって、西国に所領を得て来住してきたものか・・・?。赤松満祐が将軍足利義教を殺害した嘉吉の変(1441)〜赤松政則がお家再興を果たした頃の越生氏は赤松氏の傘下にいたものか
?越生市右衛門尉の名がみえるが?、赤松氏が衰退していく頃には三木城主別所長治の幕下にいた領主生地市助の居城だった。三木合戦の際・別所方の諸城を攻める秀吉軍によって落城し市助は討たれたのでしょう!!、
城主名や城史の変遷には不明も多く此処で終えます・・・・(^^ゞ
此の記事直後に関東武者”武ちゃん”の援軍を得て追記:児玉党に属した越生氏は有道遠峯を祖とし、孫・入西(有道)資行の子:入西有行が越生郷に住んで
越生姓を名乗った。其の子が源頼朝の御家人越生有弘で「承久の乱」による恩賞として、転戦先である西日本に移住したという。越生有弘か其の一人息子越生有高が此処に居館を構えたのでしょう!!。
関東武士(むさ)の来住【西遷御家人】は丹波でも芦田・荻野・中沢・久下等、中世戦国史を語る領主の多くは関東御家人に繋がります。越生氏・西日本の系図は有高の後も子の藤内有信・越生有直・末永有綱へ続くが、
城史・更には越生市右衛門尉の素性も不明(郷土史等資料未調査)です・・(^^ゞ
(現地 長砂構居の案内板 等を参照)

古大内城 加古川市野口町古大内
古大内城・賀古驛・古大内廃寺跡
●古大内(ふろうち)城 遺構も城史もよく判らないが、其れでも城址案内板の立つ”長砂構居”を後にして、次に訪れたのが此処:大歳神社境内が城址と云われる古大内城です。
・・・・・幅の広い壕が有り・立派な城址
碑が立ってられてはいるのですが、城址説明の案内板も見当たりません。
此処には赤松氏の祖である村上源氏:源季房(秀房)が居城していた との伝承が残るだけです。其の四代の末・家範が赤松村の地頭代官となり赤松氏を称したのが始まりとされますが、家範の孫:赤松(円心)則村以前は確かなことは判っていないようで、
実態は悪党(土豪)だったとも思えます。
●古大内廃寺跡
天栄年間(1110-13)赤松(源)季房が居城とした古大内廃寺跡は、遺跡から出土する古瓦等から奈良時代後期(天平時代)から平安時代中期頃までの寺院跡と推定されています。 ●壇の森
遺構としては「壇ノ森」と呼ばれている、戦前までは松林(大歳神社境内)が有って、東西約14m・南北約12m・高さ約80cmの略方形になった土壇(塔跡と考えられる)が残っていたといいます。檀とは韓国建国の「壇君神話」によるものといい、
朝鮮半島からの渡来者が此処に住んでいた事を示すものという。
古大内城(古大内廃寺跡)

古大内城址碑
●賀古の驛(うまや) 伽藍の礎石が散在していること(小祠の台石や積石にも用いられているが)等から寺院跡と云われていますが、
一部研究者の中には出土する古瓦がもっぱら播磨国分寺系列の瓦が多く、其の瓦は播磨国司の統制下に置かれた屋根瓦で有るとの見方から、此の遺跡を賀古驛(かこのうまや)とも推定されています。築城時期も城の規模や城主の変遷等の城史は、
上記の長砂構居以上に不明ですが此処が城地とされた理由は廃寺跡・賀古驛の説明や、近くにある驛ヶ池の案内板によっても推察できます。●驛(うまや)ヶ池「播磨鑑」によると、
近くの教信寺の開基教信沙弥が農耕を手伝うかたわら、其の必要を感じ正安年間(1299-1302)の初期に造ったといわれます。播磨国風土記に記される「驛家の里」が”驛ヶ池”付近が、
白凰時代初期:大化2年(646)頃に創設された賀古驛(かこのうまや)が有ったところろ云われ、池の名称も此れによるものと思われます。賀古驛は奈良・京都から大宰府を結ぶ山陽道で、
山陰道・北陸道・東海道と共に我が国上代交通の重要幹線道路で、当時の産業・行政・文化一般にわたり、
第一級の拠点であったと伝えられています。各驛家には5〜8頭の驛馬が置かれて官吏公用で通る驛使に馬の乗り継ぎや、休憩や食糧の供給・宿泊等の便宜を図っています。驛馬の頭数で驛家の規模が判るのですが、賀古驛は40頭を数えたといい、
日本でも最大規模の”驛(うまや)”だった事がわかりますね。
(現地 古大内遺跡案内板:加古川市教育委員会等を参照)

野口城 加古川市野口町野口
古大内城からR2号線に出て直ぐ?案内板にある「野口念仏」で知られる教信寺の屋根を見て、其の手前で右折する東北への分岐道を入って駐車スペースも無い細い集落内の道を野口神社に進む。此の野口神社付近が神吉城・志方城・高砂城等と共に、
三木城主別所氏の支城野口城跡とされているようですが、私達は”KAIさん”の案内で「城のつち」と呼ばれる場所へと車道を少し戻ります。道端に石仏やカーブする段差上の田や民家を見ながら
、道筋一帯が湿地帯・沼田だったら僅か数メートルの高低差であっても要害になると思えてくる。車道から少し入り込んだ民家横の空地?に僅かに土塁跡を感じさせる5m程の土盛?は生垣に植えられた木の為に 寄せただけの土でしょうが、
贔屓目にはその様に見え生垣前に「野口城」の案内板が立てられています。
路地奥の空間にポツンと「野口城址」の案内板が立つ
野口城は室町年間:長井四郎左衛門尉国秀が築城したとされ、野口段丘の先端部に位置して周囲を沼等の低湿地帯で覆われた自然の要害地で、
城の規模は約83mx42mの丘城だったと伝えられています。別所氏が毛利氏に付いたことで加古川城から書写山に本陣を移していた秀吉は天正6年(1578)4月、三木城攻めに際しては其の支城攻略に乗出し、
加古川流域に軍勢を集結させる場所にも近かった野口城が最初の攻撃目標となり、先ず手始めに選ばれ3千騎の兵で攻撃が開始された。大筒・小筒の名手だった城主:長井四郎左衛門長重?(政重)は一族郎党僅か380人足らずを率いて籠城し此れに対峙します。
織田信忠・秀吉軍には加古川城の糟谷氏・姫路の小寺氏の援軍が加わり、麦藁・草木でこれを埋め立て3日3晩攻め立てます。法界寺に残る三木合戦絵図に・草木を運ぶ図が有り其の様子を物語ります。この戦いには近くの教信寺の僧兵や農民も城方に加わり勇戦し、
怪力の僧兵:不動坊・十輪坊等が目覚しい働きをします。しかし三木城からの援軍も無く、多勢に無勢で孤立し遂に城主:政重は降服します。教信寺は兵火にかかって全焼してしまいますが、開祖:教信の像を救い出そうとしたが間に合わず、
首部だけを持ち出したとされるのが今残る教信の首像だといわれています。
(現地 野口城案内板平成14年:加古川市教育委員会 郷土の城ものがたり「東播編」を参照)

神吉城(真名井城・奈幸子城) 加古川市東神吉町神吉
今日の東播磨の城巡りオフでは加古川城を手始めに上記の城館を廻って志方町の中道子山城に向かう。途中には神吉(かんき)城の本丸(中ノ丸で天守閣があったとも云われる!!)跡の法性山常楽寺(浄
土宗西山禅林寺派 本尊:阿弥陀如来)があるので是非寄って欲しいと要望していて、地元:KAIさんに案内を請う。お陰でスンナリ行き着けた神吉城ですが車で目的地に一発で到達するのは至難ですね。
ナビがあれば簡単なのかな?R2号(加古川バイパス道)の加古川西で県道43号線に入り北に向かう。昨年寄った平荘湖への分岐手前から突然・細い車幅一杯の住宅地内の路地道を右折・左折して常楽寺の参詣用駐車場に着いた。
寺と民家の塀の間を擦り抜けてきた南側が常楽寺本堂裏手の墓地で、墓地内には最期の城主:神吉頼定の墓があります。境内の西端には石棺材を利用して造られた石仏がある(高さ81cm・幅62cm・厚さ29cm・像の高さ35cm)。
台の石棺材全体に手が加えられていて、こうした変形のものとしては市内唯一のものとされます(当概ページ最上欄の画像を参照ください)。銘は不明ですが室町時代以前のものと推定されます。
神吉城中ノ丸跡の常楽寺
駐車場からは気付かなかったが城址案内板のある本堂正面に廻ってみて、
周囲より数段高い台地に建っていて濠を廻していたである事は想像できる。別所一族として「神吉荘」に1万余石を領して、三木城主:別所長治に付いた神吉民部大輔頼定の廟所が有って墓碑が此処に祀られています。
神吉城の築城年代は不詳ですが赤松(神出)範次 【赤松(円心)則村の孫:光範の嫡男】が赤松義則に仕えて南北朝時代:文和年間(1352-56)に武功が有って明石郡の神出城主となり、其の子元頼が神吉荘を領して神吉氏を称して
城を築いたのが始まりとされます。赤松満祐が将軍足利義教を殺害した嘉吉の変(1441)〜赤松政則の赤松家再興へと赤松氏に仕えるが、赤松宗家の衰退・滅亡により多くの播磨の土豪と同様・別所氏傘下に組み込まれて、8代城主頼定の頃の神吉城は、
三木城支城となっています。 中の丸・東の丸・西の丸・二の丸の4曲輪で構成された環郭式縄張りで石垣・土塀を築いた堅固な平城で、中の丸には天守閣も建てられ、現:神吉町全体を城域とする大規模な”惣構え”の城郭だったとも云われます。
但馬や毛利方勢力の福原城や上月城(佐用郡)を平定して播州入りした秀吉は加古川城に諸城主を召集した。三木城主別所長治は若く、
城主の代理として出席した毛利贔屓の叔父:別所吉親により三木合戦の悲劇を招く結
果となった加古川評定により、
三木城へ帰った吉親は織田方に付こうとする長治を説き伏せて信長からの離反を決意させます。天正6年(1578)三木城籠城が決まると、三木城からは梶原十右衛門景治(入道庵)・柏原治郎右衛門・黒田若狭・中村壹岐等が神吉城に送り込まれ、
頼定も約1800余りの兵で神吉城に篭もります。織田方の軍は信長の嫡男で秋田城主の織田信忠を総大将として、信長の三男:信孝・信長の弟:信包・明智光秀・荒木村重・筒井順慶等三万余騎の軍勢で神吉城を包囲し対峙し、
果敢に善戦して半月近くをよく防戦に努めます。
神吉城主:神吉頼定の廟所
城主頼定の叔父:神吉藤太夫貞光と秀吉方の佐久間盛隆が
親しい事を知った秀吉の策略で貞光を味方に引き入れます。貞光の守る西の丸の城門は内から開かれて、羽柴秀長・蜂屋頼隆・佐久間信盛等の軍がなだれ込みます。混乱に紛れて貞光は家来に命じて頼定の首を打ち落とします。
堅固だった城も身内からの裏切りによって、あえ無く落城してしまったと伝えられます。西の丸を攻めたのは後に謀反の荒木村重・裏切りや多勢に無勢の孤軍奮戦記は面白く良く出来た話で、事実ではなかった様に思えます。
『信長記』巻11には天正6年7月15日:滝川(左近将監)一益・(惟住五郎左衛門=丹羽長秀:惟住は別名・五郎左衛門は通称)が両手より神吉城の東の丸に攻め入り、十六日には中の丸に攻め込んで、神吉民部少輔を討ち取り、
天主に放火して城は焼け落ち、篭城していた将兵の過半が焼死したと記されています。法界寺に残る三木合戦絵図にも神吉合戦に於いて、梶原十右衛門景治(入道庵)が橋桁上に立ち、また同人が橋を渡って首級を挙げてもいる。
続く二人が魚住助五郎直忠と柏原沿郎衛門・・・毎年三木・法界寺に於いて、城主別所長治の法要(4月17日)が行われ寺所蔵の三幅の三木城合戦図「絵解き」があり、これ等状況の解説が聞かれますよ。
(現地 神吉城案内板: 加古川市教育委員会 郷土の城ものがたり「東播編」フリー百科事典ウィキペディア等を参照)
今日の城オフの予定では神吉城から一路・県道43号線を北上して中道子山城を訪ねて小野市の諸城に向かいます。
いずれも過去のHPログに載せていますので順次、画像や記事を更新していきます。