杉生城・宝星寺居館・若城・愛宕山城・笹尾城・木間生城・木津城
北摂:川辺郡猪名川町 (五万図=木津)
宝塚〜篠山方面の登山行き帰りによく利用したルートだが、山城は三蔵山〜今井岳以外は空白地帯の、猪名川町北部・杉生〜木津周辺の山城に出かけてみる 。多田源氏の祖:多田(源)満仲に始まり、
景福寺:駐車場前から杉生城取付点を探す

庶流や累代の家人達により構成される多田院御家人によって、摂津国川辺郡多田庄を所領とし多田神社(多田院) 付近に居館を構て本拠とし、在地支配される多田荘は・木器(木器城)・波豆(?)・大原野( 天狗松城<山城と知らず城レポートは無し・妙見堂の山頂は城域?>)・木津(木津城 ・蔵山城と今井岳城 )・六瀬(杉生城・若城・愛宕山城・笹尾城・木間生城)等に地頭職が置かれて、地頭が夫々の地に城を築いていたのでしょう。播磨赤松氏と但馬山名氏の様に?、北摂には塩川氏と能勢氏が積年の対立を続けていますが、
杉生バス停前から若城のある低丘陵

天正14年(1586)多田院御家人筆頭の!!?塩川国満が秀吉命に背いて能勢頼次を攻撃し、 多田院御家人達が塩川氏に荷担したが、秀吉方の片桐且元・池田輝政・堀尾吉晴等による塩川の山下城攻撃に、国満は開城して切腹。 多田院御家人等は知行の領地没収され無録となって周辺の地に隠住していた様で、最後に残された慶長19年(1614)「大坂冬の陣」に徳川方について参軍し旧領回復する願いも、
猪名川霊園事務棟!?から望む愛宕山城

無録となり長年 (30年弱!!)充分な軍事訓練もしていないため、訓練された大坂方の兵には適わず、敗走し知行回復の機会も活かせず、 翌:元和元年(1615)大坂夏の陣に”銀山砦”に大坂方の伏兵を攻撃するが、戦略に長けた豊臣方の敵では無く・再興をかけて徳川氏に取り入るすべを失い終わった。



 杉生城と宝星寺居館 若城  愛宕山城 笹尾城 木間生城  木津城


定星寺居館と杉生城


定星寺居館   xxxm 兵庫県川辺郡猪名川町鎌倉字古門
杉生城(六瀬城?)
 向山(寺山?) Ca330m 猪名川町杉生向山
杉生城:主郭北の土橋付堀切

篠山市日置から県道12号(川西篠山線)で後川の”丹波渓谷の森公園”前から”丹波猪村”のキャンプ場側を抜け、 大野山東登山口の西軽井沢を下ってくると、能勢町栗栖からの県道602号線と鎌倉川が此処で合流する”杉生”交差点に着く。県道12号線を挟んで鎌倉川沿い北東の丘陵裾に定星寺があり兵庫県遺跡分布地図に ●定星寺居館とも記されている。
同 堀切から曲輪の切岸

定星寺の背後の霊園(正規!!参道は本堂東側)へと本堂西側を抜ける細い通路は、西に1.5〜2m程の土塁(土塁頂部は幅1m程と狭く、切崩されているのかも・・・?)が30mばかり延びる。外側(西)は3〜5m程の崖状切岸で雑木藪の広い畑地か果樹園跡の様な平坦地で、土塁下部には堀状窪地が延びる?。周囲は民家側や西下の集落内地区道まで、
杉生城:主郭の北〜西へ廻る帯曲輪

段差を伴い区分された曲輪状地形の畑地もあって、県道 12号線側を見通せる位置に有る。定星寺からは南方・能勢町に通じる鎌倉川沿いの県道602号線の街道を見通せ、此処に領主は不明ながら六瀬氏・平野氏の居館が在ったのかもしれない。宝星寺背後・霊園西側下の広い空地(古墓地跡か?)には五輪塔・一石五輪塔・宝筐印塔の残欠(法輪)が五輪塔に乗せられていたり・・集められ祀られてもいます。
主郭の堀切東斜面に並び竪堀が一条落ちる

背後の霊園内高位置へ登る石段道から 西国三十三ヶ所ミニ観音霊場の巡礼道に入る。 西国霊場の再興者・法王:花山院の石像から続く山道に沿って石仏が立ち、よく踏み固められているが薮っぽい霊場巡りの細い九十九折れ参道が、 尾根伝いに杉生城に向う登城ルート。尾根筋北麓の景福寺は元・平尾氏の別邸だったと云う。杉生城を詰め城として南山麓の定星寺の位置に平尾氏か 六瀬氏が居館を構えたものか?。
南尾根筋左右にも小曲輪群に附随するように小規模な平坦段を持つ!?

同行の大師像が並ばない一体づつの各寺本尊の観音像が立つ。 いずれも摩耗していたり・像が欠けていたりと損傷が激しい古仏群は文久2年(1862)に祀られたものという。多田荘六瀬の領主には下記:景福寺に記す が、応安年中に平尾越中守源景勝<源満仲の後裔>がおり、六瀬城に居したと云い景福寺は平尾氏の別邸だったという。 六瀬城が杉生城の前身かは知らないが、南方の鎌倉側には能勢町に通じる街道を見下ろす位置に在る定星寺が居館跡といわれ、
南尾根末端付近:低段差で小曲輪が10数段連続する最下段の空堀(堀切?)地形

平尾氏や多田院御家人の六瀬の土豪六瀬氏が定星寺居館にあったものか!!?.。同族の平尾氏 ・六瀬氏はどちらが本家で分家がどちらかは(六瀬氏から分かれたと思えるが!!?)未調査です。県道12号線の杉生バス停から「杉生下〜杉生中バス停」へと車道沿いの東側を北に延びる丘陵の最高所に杉生城が、杉生〜杉生下バス停の西に民家に見え隠れする低丘陵が県道沿い同様に北方に延上がっていく南側の 丘陵頂部Ca250mに金刀比羅宮の社が祀られ参道が通じている若城城がある。
南尾根上の曲輪群を下り此処も曲輪!?西国ミニ霊場の参道に出る

定星寺から西国ミニ霊場参道の山道を杉生城へ向かうと最奥の霊場石仏から・猪除けケーブルを跨いで薮の尾根筋を進むと直ぐ、 薮も消え浅い堀切状?や低土塁?を見る。土塁と堀切の組み合わせにしては肝心の尾根筋を充分堀切ってはいない?。 土橋が崩れ埋もれているのか?浅い堀切(空堀)状からの南尾根筋は、幅(約10m程)一杯に・高低差の少ない小曲輪群が切れ目無く10数段続いて、最高地点(Ca330m)の円形(7〜8u)の主郭に着く。
定星寺背後・霊園下の一画に祀られえる五輪塔・宝筐印塔の残欠

南尾根筋の曲輪群も 主郭の前2〜3段の曲輪に来て、やっと切岸が意識されてくる?。主郭から西へも三段ばかりの曲輪を降りると、遺構も消え単調な斜面を下るだけ。主郭から北側に延びる尾根筋の急斜面下に埋もれかけた堀切が有り、竪堀とその落ち口に土橋をみて堀切の片鱗を見る程度!!だが杉生城唯一の見所。 主郭と堀切の間には急斜な東面を除いて、北から西〜南への三方を帯曲輪が巻いています。
定星寺と鎌倉(杉生中心地!?)

東方向に緩斜な尾根筋が延びるが、北下方へ短い枝尾根沿いに下れば 5分とかからず景福寺の第一・第二駐車場前に降り立ちます。薮は少ないが急斜面下降では 踏み跡も判かり難く倒木に難渋する。東への長い平坦地形は、鎌倉の定星寺側から杉生の景福寺へ丘陵(地図に破線 )の峠越え道からの緩衝帯!!?。県道12号線の杉生中バス停からは景福寺への大看板を見て景福寺の第一・第二駐車場に向かう。
定星寺西の空地・田畑は居館跡!!?

駐車場の車道側に立つ”景福寺”石碑から、山林用か寺院の霊園造成工事用の未舗装車道から、 右手直ぐの尾根に取り付いて詰めれば主郭北 ・堀切近くの尾根に上り着く。杉生城域の山一帯は景福寺所有の山ですが、県道12号線を挟んで杉生城の在る東側や・若城の在る西側の山は、 藩政時代「御林<おはやし>」と呼ばれた幕府の直轄林で、大坂城などの普請修復等・幕府が用材を必要とした時に伐採し使用する為、その管理は厳しく「御林」に入る事は固く禁止されていました。
定星寺:西の畑地と薮中に土塁・空堀地形を見る・・!?

瑞松山景福寺(曹洞宗)は室町時代初め (南北朝期)の応安2年4月(1369)曹洞宗本山の総持寺(神奈川県)第五世を務め、住持職を太山如元に譲った高僧通幻寂霊禅師が翌3年多田荘杉生の大悲閣(現:茶ノ木観音と呼ばれる永正庵)に憩止された際、道幻禅師を開創・開基として、 六瀬の領主平尾越中守源景勝<源満仲の後裔 >の援助を受け、其の別邸を寺として創建されたと云う。通幻禅師の弟子の一人が景福寺を開山し、通幻禅師を初代住職として迎えた?とも伝えます。寺名は平尾氏の法名:景福寺殿傑厳仝英大居士から。応安7年(1372)には足利幕府管領で、 摂津国守護職にあった細川頼之が後円融天皇の勅願を受け 永沢寺が創建され通幻禅師を開祖に開山されます。
定星寺境に幅狭い土塁と西下に空堀状と数区画の曲輪か?、空地・畑地がある

三田の民話に「道幻禅師と竜のうろこ」のお話がありますが、 景福寺には竜のウロコが8枚有ったと伝えられており、その内の一枚が”竜のうろこ”伝説となっています。寛文3年(1663)より丹波国・南桑田郡・船井郡・播磨国・美嚢郡・加東郡・加西郡・明石郡の寺院を指揮したと云われ、 藩主のお国替えで姫路・岡山を経て鳥取に移った曹洞宗四景福寺と称される一つとして知られる名刹です。


若城   東山 Ca250m  兵庫県川辺郡猪名川町島字若城・東山

能勢街道を走るR173号が鎌倉川沿いに県道12号 (川西篠山線)で、猪名川に合流する杉生交差点 ・杉生バス停から杉生下〜杉生中バス停へと北上する車道沿いの東側には、北に延びる丘陵尾根の最高所に杉生城があり 上記にレポート済みですが、杉生〜杉生下バス停へと県道12号線の西側にも、民家に見え隠れする低丘陵が同様・
若城主郭に祀られる金刀比羅宮

県道沿い北方に延び上がっていく(比高Ca50m)。丘陵頂部Ca250mに金刀比羅宮の社が祀られており、杉生バス停から西側の丘陵部南先端部に向かえば、県道12号線側からは、旧家の石垣土塀横の狭い車道を抜けると杉生ポンプ場の西側に、また大野山山上へ通じる県道 507号線側のバス旋回場の真北 100m?程に金刀比羅大権現神社の奉納石碑と灯篭・木の鳥居が見える。
副郭から主郭への平入虎口部?

此処から若城城主郭まで参拝の登山道が通じる楽な登城ルートです。景福寺への参詣道を分ける県道12号線「杉生中バス停」北方から県道507号線へ向かう車道の峠付近、三角点峰291mから南へ延びる細長い半独立低丘陵の、南方鞍部に鳥居マークのある峰上から、等高線を追ってみると登り降りも、緩急の差も少ない ・ほぼ直線的に南端山麓に延びる尾根上に曲輪(平坦地形)を置くが、
若城北面堀切と主郭側切岸

戦国時代の城遺構から比較しても、自然地形を切岸としている程度か?。参道整備で改修されていると思われる・登リはじめて直ぐの虎口状と空堀土塁状は、急斜面回避の迂回路か?、見張台に適所の最初の展望曲輪も休憩所?。此れが若城の城遺構で無ければ、長い尾根筋の空堀道や主郭部(約25X15m規模)は祠造設時の削平地。
南端参道入口付近の空堀・土塁虎口

主郭から北尾根筋に自然地形の切岸 (10m程)下にみる堀切状?だけが、小字名の若城からも、城砦であった証か?、尾根上の中央を割って長く続く空堀道、 明確に曲輪が意識出来る主郭と南一段下の副郭から主郭に入る平入り虎口状も神社改修によるものか?。主郭の祠西面は激急斜となって落ち込、北へ続く尾根筋へも10m程の急斜面を降るが此処に唯一・浅い堀切が有る。 尾根筋が細いだけに堀切よりは土橋の左右に竪堀が落ちている感じ。
若城・主郭まで延びる空堀道

さらに延びる丘陵が尾根筋を分ける北端付近まで行ってみたが、左右の尾根に自然地形と思える平坦地が広がるが、其の先に平坦地等の城遺構に繋がるものを見ないまま山裾に続く様(未確認)です。 総体的にみて防備施設に簡素過ぎ、地方土豪間での小競り合い程度なら、近くの同族・友軍が救援に駆けつけるまでの、数時間を持ち堪えれば良い…と思える程度ですが、同じ多田源氏の能勢氏とは旧来より(承久の乱以後か?)敵対しているし、 同じ多田院御家人相互での名田押領等の紛争も起こしてもいる!!。県道12号線を挟む平尾氏の杉生城支城か?。


愛宕山城(清水愛宕山城)  愛宕山 414m 兵庫県川辺郡猪名川町清水愛宕山

杉生城・若城を後にして県道12号線を南下して仁頂寺分岐を過ぎ、 右手の丘陵が南先端で切れる清水地区に入って直ぐ「猪名川霊園」の大きな石碑のある霊園内に向かう車道へ右折する。 坂道を登っていく谷間の西には、 三角点峰の追谷山(475m)から南へ延び出す丘陵尾根の東南斜面に拡がる猪名川霊園がある。霊園の最奥部が・此の丘陵尾根筋の鞍部に達しています。
愛宕山城主郭切岸と北面の小曲輪

鞍部からは更に南へと比高100m、一気に高度を上げる尖峰上に愛宕山414mの山容が、 県道12号線の霊園入口から常に望まれる。愛宕山からの尾根筋は霊園の西面を南へ・さらに西南から東へ回り込んで清水地区背後に 其の先端を落とす。 愛宕山山頂には愛宕社の小さな祠が祀られる平坦地が有り、崖状の激急斜面を登り着く北に一段の小曲輪を含めても幅約8m・南北の尾根筋15m程を主郭とする山城跡です。
愛宕山城主郭に祀られる愛宕社

愛宕山城への登城・愛宕社への参詣道は南東尾根筋先端部の清水地区から延びていたのでしょうが、 山上部の荒れた雑木薮の惨状からも、 利用者は絶えて久しい様です。立木に縋り付くほどの激急斜面が控えていても、 猪名川霊園最奥部の駐車場からなら凡そ 15分程度で到達できる北尾根からは、 誘導テープ類や石積みで整備されていた跡も見られる参道が主郭部直下の鞍部に続く(露岩が目立つ尾根に出て、真上に見える城址へは約60m程の激斜面)。
尾根上の露岩帯の狭間を抜ける自然の虎口!!?

霊園内最奥墓地からフエンスを乗り越えた先の鞍部から 尾根通しは、最初の急斜面上端には自然地形ながら石列で囲った様な露岩の マウンドが有り、物見台にも見える。現状の城域からみても ・わざわざ此処に物見台は不要と思えますが!!?。暫く延びる緩斜面の先で、 駐車場から直上してくる参道と合流する此の緩衝帯のような露岩部を通る。
愛宕山城:南尾根上の堀切

愛宕山城は主郭から南尾根を城域にして、中ほどの浅い鞍部を堀切で分ける様だが、祠のある主郭と小曲輪と此の堀切を除けは、 途中の細い尾根上の露岩を抜ける狭間が虎口と見られる程度で、 上記レポートの杉生城・若城と比較しても、険悪な要害上の条件を割り引けば縄張りに代わり栄えはしない。眼下に猪名川沿いの要衝: 県道12号線と清水地区を望むだけで、 在地小領主・此処では多田院御家人の領内監視・警固の城か。多田院御家人達を束ねる塩川氏勢力や統制力は知らないが、 其の城塞群の一つとも思えない?。
霊園最奥の鞍部上尾根端にある露岩の物見台!?状地形

(太多 )田庄奥三十三所順(巡)礼」古文書に、多田荘北部では鎌倉の定星寺・仁頂寺の洞泉寺・笹尾の安楽寺・清水には平安時代創建を伝える成仏寺があり、大江山鬼退治伝説に欠かせない 摂津源氏(多田源氏)源満仲の嫡子:頼光が、鬼退治の帰路に休んだという伝承が”討越瀬”というところに残り、 要衝の地とはいえないが・古くより拓けてきた土地ではあったようです。


笹尾城    xxx山 Ca230m 兵庫県川辺郡猪名川町笹尾

愛宕山城
へ向かう猪名川霊園入口前を、更に猪名川沿いに県道12号 (川西篠山線)を南下して笹尾集落に入り、六瀬住民センター (バス停:六瀬支所前)に着く。其の北隣にある笹尾公会堂との間の 地区内道を東に入ると、正面の民家背に迫る標高230m・比高約70m程の低丘陵上に笹尾城が在りました。城山へは集落内を北に向かえば、東に折れ北方にと谷奥に進む林道がある。
笹尾城 :笹尾公会堂前付近から・・

林道入口直ぐ・果樹園側に細い踏み跡が尾根筋に向かうが、20m程先 ・畑からも右手の丘陵に向かう山道が同じ尾根筋を辿り、 笹尾城唯一の明確な遺構・土橋付き堀切の外側(北)の出曲輪まで続く。鞍部を遮断する堀切も此処では・鞍部と云えなくもない?高低差も小さく 僅か1m前後・幅も3m程だが、登ってきた笹尾集落側へ竪堀となって落ちる様をみて!!土橋付き堀切なのだと再認識させられる程度?。堀切北8u程の円状の出曲輪から北へ降ると直ぐ
唯一の見所は北端曲輪と主郭?間の土橋付堀切

尾根筋は東へ向かい幅狭いが緩斜な平坦地形となる。土橋を渡った主郭部は南北に7〜80m程・尾根幅も 6〜8m程の極狭な尾根上の平坦地形を30m程進んで、段差の低い切岸を南端の主郭に入る。主郭からの尾根筋は東へ延びる。主郭切岸とも呼べなくもないが、さほど急傾斜でも無い下方10m程・鞍部とも呼べない様な斜面途中で、一旦傾斜の弱まる肩の様な部分に浅い堀切があった。 尾根幅一杯に堀切ほど深くも長くもない堀切で、堀としての深さは埋もれかけているが、 北方の斜面に深くも長くも無さそうだが、竪堀となって一条落ちている。
唯一の見所は土橋付き堀切:土橋西面の堀切<竪堀>

南側へも少し掘り込まれていたのかも知れないが、この先に続く自然地形に近い出曲輪を区分する片堀切 と思える。尾根筋は東南の270m三角点峰の延び、栃原集落西の県道12号線・猪名川に先端を落とす。対岸の半独立丘陵部の尖峰上に 木間生城がある。笹尾城・木間生城・木津城の三城が猪名川沿い :南東の一直線上およそ1.5km間隔に位置している!!?。
主郭南西下に続く小曲輪

(偶然と思えるが )多田院御家人として、同属意識で呼応していたとも、塩川氏の家臣団にあって、其の城塞群として連携していたとも思えてこない?。 小規模な南北約100m程の主郭部の南と北を堀切るが、南北の堀切の外にも曲輪をもつ。いずれも猪名川の要衝・監視守備する方向には背を向け ・およそ敵の侵攻も考えられない?東方の山稜尾根続にあって、狭い主郭部を補う !?為の兵の武者隠しを兼ねての待機・収容曲輪となっていたのかも?。
笹尾城主郭南東下の片堀切(埋もれ浅くなり見辛いが・・)と出曲輪

主郭から笹尾集落側の西へ僅かに膨らむ枝尾根上にも三段ばかりの小曲輪が並ぶ。露岩・石類が散々するが石積み・石列等を当地城砦群に求めて曲輪に探すのはやはり無駄の様ですね!!?。ただ丹波・播磨・隣の能勢方面の城と対比して、猪名川の城の縄張りや機能面を他国の城の特性に合わせてみると 合点のいかない部分が多く困ってしまう。
土橋付き堀切から主郭に向かう幅狭く長い平坦地形

自然地形の尾根上の城域前後を堀切る手法は杉生城も同じで、此処も六瀬氏関連の城か?。六瀬住民センターから県道12号線を 南200m程で南西に分岐する橋渡って進む車道は、今井岳西山麓の宝塚市佐曽利地区に抜ける。佐曽利地区からは・今井岳から東の 三蔵山へ延びる尾根の北山麓を猪名川町木津へ抜ける山道とも林道とも思える?
笹尾城主郭

幅狭い道が抜ける。 市境の峠から猪名川町側へは 簡易舗装道路となっており、今以前に三蔵山への取り付きとしたところですが、随分と様変わりしていると思われますが現状は知らない。井岳・三蔵山共に山城遺構が遺る。二城砦については別項に譲り ・今井たけ城を笹尾城との関連からは見ると、多田院御家人・領主と云うより、塩川氏被官となった土豪の城で、猪名川町笹尾や木津方面から宝塚市方面の佐曽利へ通じる街道筋の要衝・間道を監視守備した砦と思えます。


木間生城(万善砦?)   宮山 323m 兵庫県川辺郡猪名川町木間生

猪名川町には低山ながら尖峰が多く木間生(こもお)城も猪名川から比高約180mを一気に伸び上がり・そそり立つ。 見る方向によっては・それほどの急登とも思えないが、何処から取り付こうかと地図を見ながら、県道12号線・笹尾から約700m程南で林田集落へ向かう分岐橋を渡る。
林田からの宮山(木間生城):此の山裾を160度Uターン気味に猪名川が廻る

此処から木津へ抜ける林道?然とした狭い車道だが、峠を”くろまんぷのトンネル ”で木津側の天沢寺付近に抜け出る。 此のトンネル上部尾根筋から辿る北峰:宮山の頂部に木間生城が在りました。 林田・栃原・木間生地区にある何処かの神社の御神体山なのでしょう。トンネル上の尾根からも比高120mはある。
林田〜木津間「くろまんぷのトンネル」西出口

猪名川は林田集落への分岐 ・栃原集落西端で南下した流れが、木間生城の在る山塊に突き当たり屈曲して栃原集落に戻り東山麓の木間生地区へと、 山塊の三方を囲む天然の濠ともなって南へ流れ出ます。東西約600m・”くろまんぷのトンネル”上から南北に約 900m程の狭い範囲の山塊は 比高が示す尖峰の山容からも半独立丘陵。木間正地区から望む姿から想像して取付ば、踏み跡があっても厳しいと思われます。
主郭部北端の堀切底(堀切外側の土塁跡?石積み(自然石?)

登路とした林田集落側からも樹木に覆われてはいるが、相当な峻険さを隠しているが、それが実感出来るのは露岩が現われてくる西面中腹から急斜面からなので、 お楽しみです!!.。”くろまんぷのトンネル”西口側から始まる水平林道跡?からを登路に、 トンネル東口手前50m程から尾根に続く山道は 下降点とするのが無難な周回コースで、歩き易そうに見える逆コースでの下降は直ぐ露岩帯に入り、滑りやすい軽登山靴等・足元不安定では一寸危険かも知れません。
主郭部北端からの堀切 (高離約6m程の切岸)

水平林道跡の終点からは当初・山仕事用の踏み跡が荒れ・崩れてか急斜な露岩部や岩溝状を攀じ登ることになるので、水平林道跡に入って ・早いうちに右手斜面を尾根筋に詰め上がる方が安全なのかも?。急に傾斜が弱まると踏跡は 山道状に明確?になるが其処はもう平坦な尾根上に出る。 北に向かうと直ぐ・想像も出来なかった広い平坦面を確保した主郭部に着く。
主郭部北端の堀切底(堀切内側の石積み状?

薮もなく雑木・倒木に邪魔されることもなく、単郭で技巧的な縄張りをみることのない単純な城ではあっても、遺構確認と展望の良さだけでも ・山城探訪の満足度はアップする。現状:削平状態はよくないが南北に 曲輪を挟んた中央部には僅かに (50〜80cm程)盛り上がるマウンド (7〜8u程)があり、此処が主郭(本ノ丸!!)。北側曲輪の尾根筋北面からは、 高離6〜7mの切岸下に堀切を見る。
主郭部南曲輪からの本ノ丸低マウンド

此のスケールは猪名川町城郭内でも最も堀切らしい堀切と思える!?。堀切外側の土塁線には底部に石列を見る。残石上部の状態からは掘り残された自然石とも見えず、 堀切作造時の土砂留め・固めに使用して、切岸(衝立壁)としたものか?。ただ猪名川流域の山城に、城を補強の為に改修したと思える程の 城砦を未だ見ないのでわからないが主郭側切岸下部の東西尾根端にも石積み状の箇所を見る。
南郭との鞍部堀切(埋もれた片堀切?)

主郭部は北と南側の鞍部を掘切りで区分する東西の尾根幅2〜30m・南北に70m程の城域だが、鞍部の堀切(埋もれ明確では無いが、尾根を遮断すると云う程の規模でもなく、 東面に落ちる竪堀は確認出来るので笹尾城に似て主郭部を区分する片堀切なのかも?)から南尾根側にも出曲輪状の一郭が在る。 之も笹尾城に似た兵溜まりか?。南出曲輪からは西方への尾根筋を下るが、急峻な左右の斜面上に堀切や竪堀は有っても見過ごしてしまいそう。 城遺構らしものを見ないまま峠越え”くろまんぷのトンネル”東口手前50m程の車道に降り立った。
木間生城の南出曲輪

猪名川町内の他の城郭同様に主郭部を大きく外れてまでも、城域の拡大を測る城を未だ見ていない。 領主の勢力や兵力・築城目的等情報は皆無で推察の域を出ないまでも、山上の主郭部と南出曲輪までの南北約150m程を城域として、 猪名川沿い街道の要衝監視。今は車道の林田〜木津を結ぶルートも往時は、短絡の間道であり生活道路、 旧街道だったのかも知れないが、南出曲輪から西へ延び出す尾根からは・真下を通る此の間道筋の監視所としては最適所。


木津城(木津砦・万善砦!?・塩川堡!?) xxx Ca190m 兵庫県川辺郡猪名川町木津

猪名川町のWebに城址として紹介されている九ヶ所の城砦のなかでも、阿古谷の西峰城(猪名川自然公園地域内にあって、 開発 <猪名川グリーン・カントリー内>の為消滅した)を除けば、此の木津城と銀山城が「縄張り」の判りにくい城砦と思えます。多田の銀山城は一等?三角点と城山の名に釣られて、以前に登山対象として出掛け山頂の曲輪だけ?の遺構で、 よく判らないまま山を下りているので、宝塚市と境を分ける
猪名川町スポーツセンターから木津城(尾根左端底部)

三蔵山城と今井岳城(どちらも山城跡)と共に、再度訪ねるべき山城とは考えています。 万善の「道の駅いながわ」から北方の木津へ、県道12号線沿い東側の低丘陵が南北に延びる。三角点峰239mから少し降った北のCa190mの頂部が 地元で城山と呼ばれており、塩川氏軍記物の「多田雪霜談考」にある”万膳砦”が木津城との推察もあるようです。
関電巡視路分岐点の土橋付き空堀状!!?

木津城への取付き点を:県道12号線の六瀬郵便局と猪名川町スポーツセンター前バス停の中程から東山裾の木津総合会館(葬儀場!?)か、其の入口南隣の八幡神社から背後の丘陵に取付くつもりが ・どちらも行止り。八幡神社は弘化3年(1846)摂津国東郷地黄村の荒木某が岩清水八幡宮の祭神を勧進したのが始まりでは、木津城は既に廃城 ・因果関連など無い!!。町立木津会館側も敷地と境する山側は農園の様でフエンスに囲まれた入口部は閉鎖。引き返して六瀬郵便局の手前(南側)から木津東山住宅地への車道を進み、
木津城?主郭と思える尾根北端の平坦地

山瀬池と東山小公園から住宅地内の東南端から山道に入り、当初の位置から外れるので 少し引き返し下ると大きな土橋付き堀切状を渡って関電巡視路宝塚線のNo17とNo18分岐に着く。此処から尾根に向かうNo.18に進む。尾根筋の緩斜面が少し傾斜を増す頃、尾根幅の西面半分を塞ぐ様に、炭焼き釜跡でも堰堤でも無い !!?古い石積みを見る。中央正面に竪堀か空堀道状の溝が、東側には竪土塁状が空堀道に並行して続く。 猪名川沿いの山城に石積や、 このような空堀・竪土塁など見たことも無い。堀切以外にこれ程深く・大きな竪堀を見る事もないので、山林作業用に造設されたものか?。
木津城?主郭から南へ延びる平坦尾根

尾根は此の先・急斜面も無く自然地形だが平坦地形が長く延びる山塊の尾根筋北端の頂上付近を通過する。木津側の城なのに!!?頂部の尾根に出る手前や 平坦尾根西面(県道12号線沿い木津集落側)に、竪堀状を三本程見るが曲輪状を見ない。 薮に覆われ確認できなかったのかも知れないが、 東側斜面や東南側斜面には幾段かの小曲輪形状の平担段が有り、見通しはよくなさそうだが槻並川沿いの監視も可能の様子!!?。低い段差で南へ延びていく尾根上の平坦地形に、僅かでも堀切等で城域を区分する様な遺構も無いまま、 南方の239m三角点峰に延びていく。
木津城主郭?西面にみる竪堀?

山道は西山腹を捲いて降るので、 猪名川沿いの要衝監視には適所だ。木津城は西に猪名川・東を槻並川が屏風岩で合流する北方を除く三方を川に囲まれた山域に位置し、登路とした東山住宅地南端との間を・木津から槻並へ抜ける山道があり、 此の間道と猪名川沿いの要衝監視にあたった塩川氏の城砦群のひとつか?。多田荘木津村の多田院御家人として、木津に安村氏・槻並には田中氏があった様?ですが、木津城の位置や築造の目的、城の位置 ・遺構の不確かさに加え、 猪名川町では外に類例の無い石垣・竪土塁等の遺構から、 在地領主の城砦ではなく、銀山城と共に多田銀鉱山に関係する 監視砦なのかも・・?。
木津城?尾根東面の切岸低い曲輪群?と竪堀状(手前)

尾根上の段差の低い曲輪遺構も 要衝側ではなく東の槻並側に有る事も不可思議で、山城としての存在さえ疑わしくなってくる。”万善砦”は波豆川沿いの三田市から、宝塚市は武田尾方面から県道68号線が、県道12号線と合流する万善の交差点を北尾根先に見て、 其の400m程下流で猪名川・槻並川が合流する地点も東北尾根先に見る。一本松山に砦が在れば、 木津城以上に要衝監視の適地で、更に万善から一本松山の西尾根鞍部を越えれば多田銀山へも抜ける。

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