「いまはただ 遺構もあらじ 魚住の城・・・!!」  魚住古城(中尾)・魚住城(西島)
明石市魚住町・大久保町 (五万図=高砂)
二つの城は其々に漁港と住吉神社・同じ酒造会社が近くに在る 2007年09月19日
近畿の山城 : 魚住城(西嶋城)と魚住古城

明石名産!!「たこ漁法のタコ壺」・江井ヶ島漁港

玉津のインター(第二神明道路)から南下、R175号から森友交差点で県道21号(神戸明石線)へ右折し枝吉城跡・ 吉田郷士館・神本神社側を通って、西明石駅前のR2号と交差する。直進するR250号(明姫幹線)を高砂方面に向うと「江井ヶ島港・海岸」の案内標識を見る。 此処で江井ヶ島漁港に向かうと歴史的によく知られる魚住城(西嶋城)があります。織田信長に叛いて毛利元就についた別所長治を攻める羽柴秀吉軍との 三木合戦の際、別所氏についた魚住氏が入って兵糧攻めにあっている三木城籠城の友軍に、 毛利方から救援の兵糧物資を輸送する補給基地となった魚住城(大久保町西島・山陽 電鉄西江井ヶ島駅南約800m・極楽寺付近!?)がありました。このままR250号をも少し走ると魚住町西尾の「住吉神社」標識を見る。明石海峡に面した神社の隣には魚住漁港が有り、 東に延びる沿岸の防潮堤の先方の高台!には西灘郷のxx酒造会社の建物が見える。
江井ヶ島漁港
阪神・東播磨 (五万図=北条)

瑞雲寺付近にかけて南北朝時代魚住城(魚住古城・山陽電鉄魚住駅南約600m程)が在ったとされます。播磨灘の海岸線に沿った東西約1.2km程を隔てて二つの魚住城が在ったが、 酒造会社の酒蔵や狭い宅地内の路地を歩いてみても、 いずれの魚住城も宅地造成によって遺構は消滅し其の確かな所在さえ定かではありません?。大久保町西島の城は平成10年 (1998)発掘調査により掘の一部と考えられる遺構が確認されているのですが、唯一城址を示すものは、空地が目立つ宅地造成地の1画に造られた小さな児童公園の中に「注意書き」かと 思えるような城址説明板がポツンと立てられているだけです。其の小公園さえ城址の中核からは 外れた位置に設置されている様で、城の立地・位置関連が益々分かり難いものとなっています。旧酒造会社敷地跡の広い空地が発掘調査されたところなのでしょうか?
住吉神社(住吉公園)と魚住漁港

兵庫県都市地図 (1990年版 エアリアマップ)に魚住城跡と記されている極楽寺西方約120m程、PR館から海岸沿いに4〜5番目の宅地内の細い坂道の路地を抜け出た辺り・住宅が建つ東側一帯に広がる空地には 段差を持つ曲輪状の平地が有ったり!!?(城址案内板の南50m程・酒造工場跡地の南側)、酒造工場跡地と車道を挟んだ北東側の赤根川・極楽寺に下る1画も段差が囲う曲輪状で、 小さな石仏と五輪塔が祀られており、濠で区分された城域の北端にあたる位置だったとも思えます。
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播磨五泊…魚住泊(魚住とはあるが地理的に見ても魚住町ではなく、 入り江をもつ大久保町江井ヶ島と思えるのですが・・!!)は天平の時代瀬戸内海の船の停泊地として、遊女の発祥の地としても知られる室津泊(むろうのとまり・揖保郡御津町)・福泊 (姫路市的形町)・飾磨泊・高砂泊があって、僧行基により開かれた播磨五泊の一つに数えられていました。
赤根川河口の日本徳利博物館から 魚住漁港(最奥)を望む

住吉神社・・・
播磨灘の沿岸に防潮堤に囲われた魚住漁港が在り、 浜に添う松並木の中に大小二つの石鳥居が建つ。此処:明石市魚住町中尾にあるのが海運・漁業の神を祀る住吉神社があり、魚住荘(現在の大久保町南部を含み住吉神社の 社領だった)の総鎮守社として住民に崇敬されています。明石市市内には八木 ・江井ヶ島・西島等に 数社が建つ住吉神社の代表とされるのが中尾の住吉神社で、祭神に底筒男命・中筒男命・表筒男命(住吉大神)・気長足姫命(神功皇后)が祀られます。
播磨灘の浜に面して二基の鳥居が並ぶ住吉神社

伝承によると、 仲哀天皇の妻:神功皇后は、仲哀天皇の急死後:神託により応神天皇を懐妊したまま海を渡って朝鮮半島へ出兵された。 新羅国ご遠征(三韓征伐)に当っては住吉大神の御加護を得て、大いに国威を輝かされましたが、 そのご親征の折り播磨灘で暴風に遭われ、 魚住の地に避難:ご滞泊された際、 神籬をたてて住吉大神に海上平穏を祈願されたところ、波風たちまちおさまったと伝えられています。又その時に皇后の着衣を松の枝に掛けて 干されたのが、風にたなびいて錦のように美しく見えたので当地を「錦ケ浦 」と名付けられたと云われます。 凱旋後・神功皇后によって摂津の国住吉に御鎮祭された。「住吉大社神代記」によれば「吾が居住はむと欲りする処は、播磨の国に渡り住はむ」と・お告げを出された。
魚住古城推定地付近に建つxx酒造の倉庫群

そこで大藤を切って 海に浮かべ神意を伺うと「この藤の枝の流れ着く処に我を祀れ」とご託宣なされた。藤の枝を海に浮かべると魚住の浜に流れ着いた。この御神慮によって雄略天皇の8年(464)4月初卯日に、 摂津の国住吉に鎮座の住吉大神を所縁の此の地に勧請して、祭祀りされたのが当住吉神社の創建とされています。初めて住吉大神が祀られた地ということで「住吉神社発祥の地」とも称されます。
(現地:住吉神社の旧社地跡説明板 等参照)



 魚住城



魚住城(魚住古城)     xxxm  明石市魚住町中尾
魚住城(西嶋城)    城山 xxxm   明石市大久保町西島

三木合戦で毛利方の兵糧補給基地として知られる魚住城へ向う。 山陽電鉄江井ヶ島駅の南で五差点に出て一瞬・正面の細い宅地への道に入るのかと迷ったが、信号待ちで正面電柱に「海岸・少年自然の家」への徒歩と車での表示が有る。潮の風と香りを感じて程なく播磨灘に浮かぶ淡路島の島影も見えて、江井ヶ島海水浴場・漁港に降りてくる。 明石は蛸が有名・海路にはタコフエリー、陸路も循環タコバスが走っている。
明石市タコバス「江井ヶ島バス停」

海峡を挟んで望む北淡路の黒っぽい西岸の島影に、 忌まわしい兵庫南部地震(阪神淡路大震災 )の震源地を眺めているようで、悲しい感慨を覚え漁港を抜け、赤根川に架かる西島橋を渡ると海岸線に沿って延びる 防潮堤の西端に緑地が見える。 魚住漁港と住吉神社の松並木や境内の様です。西島橋っを渡ったところには ○○酒造のPR館?が建ち日本徳利博物館も併設されているようです。三木市の有名レストランかとばかり思っていた店も入っていたが後日:赤穂・相生に行ったときも見かけたのでチエーン店だったか?。
魚住漁港から末端のxx酒造付近(魚住古城推定地)を望む

地ビールも造られている様で、 この後行った魚住(三木合戦以前の魚住城が在り魚住古城と呼ばれるが遺構はおろか其の推定地さえよく分からない )の同酒造会社にも欧風の建物が在った。魚住町中尾の魚住古城へは ・住吉神社側・魚住漁港から、住吉神社への道すがらに「瑞雲寺」への標識を見かけたので、方向を見定め適当に迷路の様に入り組んで狭い住宅地内の道を歩くが、城が在ったという比定地すら見出せず、 ○○酒造会社の工場・倉庫が建ち並ぶ一角まで来てしまった。魚住漁港から見える最東端岬部分の高台付近が魚住古城比定地らしいが、魚住城同様に宅地の平坦地周辺に城址を感じさせるものが何も無い。 魚住城(魚住古城)は南北朝時代の文和年間(1352-56)赤松則祐に従った赤松氏一族の魚住(太夫判官)長範が 住吉神社の社領魚住荘の領主として魚住町中尾の瑞雲寺〜住吉神社付近に 居館を構えたのが始まりと云われ、応仁の乱には赤松政則に仕えた魚住長秀が軍功をたてたといわれます。 天正6年(1578) 加古川城(糟谷氏)における毛利攻めの軍議の決裂で別所氏が織田信長に叛いた為、 羽柴秀吉による三木城攻めが始まると別所氏についた魚住(左近亮)頼治が毛利軍の播磨の前線基地として、
極楽寺:魚住城(西嶋城)付近

高砂城と共に兵糧攻めにあった三木城籠城の軍を支援する為、毛利軍からの兵糧等物資輸送の一大補給基地として 魚住町中尾の城から、赤根川によって東面を遮断する大久保町西嶋の丘に城を移したとされます。魚住左近が在城していたとされますが、魚住氏の居城は魚住吉長の代(1560〜1570年代頃?)には 安田城(加古川市尾上町・赤松政村の頃の城主:魚住左近太夫)に移っていたようです。 俄か造りの魚住城は掘割に柵を巡らしただけの簡易な城だった様ですが、毛利氏と別所氏を繋ぐ連絡の城として、 三木城支援の紀州雑賀衆を迎え入れ、毛利方からは吉川元春・小早川隆景等が魚住城に入り、 二万の大軍を率い軍船数百隻には兵糧が満載されて播磨五泊の船泊港の「魚住の泊から高砂泊」にかけて 碇泊したといわれます。 梶原(平三兵衛)景行が守備する 高砂城からも加古川を遡上して三木へ搬送されていたが、 「三木の干殺し」と云われた悲惨な作戦に、同年10月頃には秀吉方の大軍に攻められた高砂城は、 梶原氏は毛利の援軍を待てず城を放棄し三木城に入っている。
小公園内に立つ魚住城址案内板

主要補給基地の魚住城からも魚住泊 (現在の魚住港ではなく江井ヶ島港の事でしょうか!!)で毛利軍による兵糧を陸揚げして、陸路を福中城(平野)や端谷城(櫨谷)等の三木支城に守られた間道が利用されたものか?。 花隈城(神戸市)の荒木村重が信長から離反して毛利に付くと摂津から六甲・丹生山越えで三木城への補給路も出来、各所・各ルートから搬入された事でしょう。明石市史や三木合戦関連資料に 此れ等の推定ルートが記されているのかも知れない?。 秀吉軍も搬入ルートを阻止して補給を絶つ為の監視は厳しく 丹生山越えの搬路には稚児ヶ墓山 の名に残る 悲話が伝わります。魚住城からの物資輸送には西島の卜部安知(うらべやすとも)という人がいて 厳重な警戒の目をかすめて余り知られていない間道を使って搬送を指揮し活躍したと云われます。 三木城の開城で魚住城も廃城となったが、兵糧輸送に関わった卜部氏や付近の住民の多くが、 江井ヶ島の馬石の丘で殺されました。
xx酒造

其の馬石の丘も昭和の港改修の際・西に堤防の下に隠れ見ることが出来なくなったそうです。なを処刑された卜部安知の子・占部源助が神戸市垂水区伊川谷に 身を隠して生き残り、播磨支配が姫路城主:池田輝政になった時もどり、子孫は代々酒造業を営み、西灘の酒として有名だという。当地名のxx酒造がそうなんでしょうね!。 天正8年(1580)1月:三木城の落城とともに魚住城の毛利軍や雑賀衆は城を引き揚げて其の役割を終え廃城となりました。平成10年の発掘調査で魚住城の掘割の一部と考えられる遺構が見つかり 此処に城のあったことが確認された。
(現地:魚住城跡説明板 平成12年9月 明石市教育委員会・j郷土の城ものがたり兵庫県等参照)
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