小野市:来住地区の歴史散歩 養父寺・来住城・阿形城・赤松氏館
小野市来住町 ・阿形町(五万図=北条・高砂)
近畿の山城
: 阿形城 来住城
赤松氏館
 養父寺石造九重層塔・石造五輪塔・石造地蔵像板碑(石棺仏) 
  阿形町の地蔵堂と古文書保管蔵跡 文化溝(走り溝)と文政溝
中村の道標・常楽寺のハメ塚・塩の井等・・
養父寺本堂と石造層塔

JR加古川線粟生駅を南下し万願寺川の加古川合流点に近い来住地区阿形町に入る。来住城・阿形城等の中世城館が在る来住地区は奈良時代に編纂された 播磨国風土記に伎須美野(キスミノ)として著され古来より拓かれた 豊かな地域で古墳時代後期(6〜7世紀)の岩倉・福甸・陣塚・下来住・勝手野古墳群等、多くの古墳が点在する。聖徳太子が建立した東明寺(廃寺)の広大な寺域の一角に江戸時代養父寺が再建された。
阿形町:地蔵堂

慶長5年(1600)姫路城主:池田輝政の頃には 姫路藩領となって以後幕末に至っています!!。 加古川に向って突き出す様な段丘上部の北端から南に拡がる平坦部分は南端部から緩やかな登り坂となって、西に向って狭い車道を進むと阿形集落中心部への東の入口で直ぐに地蔵堂前に着く。其の並びに庄屋家だった旧家が在り・其の車道向かいの畑地(空地?)には古文書保管蔵の案内標柱が立つ。 地蔵堂は阿形村寺社明細書上帳・宝暦10年(1760)5月に記載され、二間四方の東向きで・堂内には
阿形町:古文書保管蔵跡

高さ 60.5cm檜寄木造りの彩色された地蔵菩薩立像一体と高さ15.3cmの一木造り地蔵菩薩坐像及び、高さ10cm一木造り弘法大師坐像がある。しかし本堂は昭和35年の火災により新築されています。お堂の並びに旧家松尾邸が建ち、車道を挟んだ畑地の中に 古文書保管蔵の案内板が立つ。
阿形町の松尾邸

姫路藩滝野組に属し庄屋:松尾七兵衛家に 営々と引き継がれてきた古文書類が、此処の蔵に保管されてきた。中には小野市で最古の検知帳【慶長6年(1601)の播州加東郡阿形村御検知帳と仝阿方畑検知帳】を初め、 548点の村方文書が町有文書として現在は 小野市好古館に収蔵されています。
(阿形町へようこそ・みどころマップ 及び現地各所の案内板を参照)

文化溝(走り溝)と文政溝
阿形町西南に位置する竹山Ca145m山頂には甕塚古墳(5世紀前半の前方後円墳・全長23.5m)があり、その東裾付近からは南方にある貯水池の中池と新池へと山腹の斜面を導水の為の溝が延々と引かれており、 走り溝と呼ばれ江戸時代の文化溝<文化(1804-18)>年間と伝承されています。
文政溝碑(鴨池傍)

此方へは未訪ですが先に寄った鴨池の東南端からはゴルフ場背後に見える・なだらかな丘陵尾根の ピークが竹山ですが、鴨池の此の位置にも車道側に大池(男池)明神を祀る明神山(空地?の奥)があり、横には文政溝記念碑が建てられています。
「いつまでも かはらざるらむ ふる雨に 満(みた)さる水嵩(みずかさ)も 人のよき名を」
村社の春日神社(来住町岩倉)
建立は文久2年(1862)だが文政13年(1830)に完成した旨の碑文があり、上来住藤左衛門・下来住荘右衛門等によって、女池に水を引くため工事された事が書かれています。 加古川を灌漑用に自由に使用出来なかった来住地区の人達の貯水池や疎水灌漑工事による、その着手から完成までの努力を顕彰する碑文です。
【「来住地区の歴史を歩く」資料より 小野史談11号・蓬莱由雄氏「文政溝の記念碑に憶う」を参照】


中村の道標・常楽寺の蝮(ハメ)塚・・等  兵庫県小野市来住町

下来住町中村の道標JR小野町駅前を南に出て西に進み 前谷川を渡る上野橋の手前を右(北方の来住小学校側)に、 川魚の泳ぐ小川を見ながら 進むと地道を直ぐ・畑の前の分岐に小さな四体の石仏が立つ。少し高い石標は上部に船形石仏が浮彫りされており、合掌して蓮台に座した女性の様で像の下部には”右 高砂江”其の横に xxx信士の戒名が刻まれている。親族供養を兼ねた道標になっているが示す方向は小野市市街地を指す。西向きに立てられていれば右方向は姫路・高砂方面なので圃場整備等で移転されているようです。 この石仏道標に彫られた建立時期を示すと思われる江戸時代中期「享保13(1728)申11月3日」は小野市内の道標では最古のものとされています。
屋形墓地・五輪塔の残欠来住郵便局前交差点から東へ進み加古川堤防沿いの県道に出る辻の手前、車道からも周囲からも 一段高台地上に墓地がある。名前からも屋形・構居跡かと思えるが?。車道との墓地入口境に小さな石仏道標と青面金剛板碑が立ち、草叢に隠れるように宝筐印塔の笠部がある。欠けているが隅飾からも中世の古いものの様です。 墓地最奥の施錠された寺墓地内には五輪塔残欠の地輪(基礎部)だけが置かれおり、正面だけに種子(梵字)のを配し、右に正応三・左に八十の紀年銘が刻印されている。銘文に年月日の三字を略したものは加古川市の日光寺笠塔婆の他・例は少なく鎌倉中期の正応3年 (1290)造立は兵庫県下の在銘五輪塔では神戸市 ・最法寺の文永12年(1275)に次いで最古に属するものとされます。
常楽寺の蝮(ハメ)塚:
播磨では蝮をハメとよばれ、小野市内にもハメ塚を祀るところは他にもある。 寛政年間(1789-1801)蝮の毒を怖れ、その消滅を祈願し紀州熊野で修行していたところ、仙人から授かった守り札が蝮の毒に対して霊験あらたかなことから堂を建て祀ったとの由来があり、覚星山常楽寺には本堂脇に瓦葺 ・入母屋造りのお堂が建ち「ハメヅカサン」と呼ばれ毎年5月8日の潅仏会には蝮(マムシ)から身を護る護符を求めて、近在の東播州地域はもとより遠く淡路からの参拝者もあるという。 【「来住地区の歴史を歩くU」資料を参照】

鍬谷温泉の塩の井
常光寺から赤松氏館 前を通り南へ進むと鍬谷神社下に至る。龍神・鍬谷温泉の石碑と小野市の「塩の井 」の石標が立つ。泉質は含鉄ーナトリウムー塩化物でアトピー性皮膚炎に特効があるといわれています。疫病が流行って多くの死者が出た頃・天正10年(1582)鍬谷神社の氏子の家に神託があり、 潮水が湧き出しており、
鍬谷温泉の塩の井

成分は塩鉄で・此の水で沐浴すると 疫病に罹っていた者は瞬く間に治ったといわれ、昔は湯治湯として賑わい・軒を連ねる程の宿屋があったといわれます。 昭和の初め頃には此の冷泉を使った鍬谷温泉がありました。戦後途絶えていた温泉は復活し、飯場のプレハブかと思える建物で、今も地元の自治会により運営されています。鍬谷神社参道前から峠を越える車道に 白雲谷温泉の案内板が立つが鍬渓温泉とは同じ成分!!。
鍬谷神社近く:狐塚古墳

此の峠の北側丘陵に 狐塚古墳と書かれ板札と注連縄の後ろに一基の横穴式石室をもつ古墳の墳丘部が見える。県の遺跡分布行政マップや他の資料にも無さそうです。付近には下来住古墳群等多くの古墳が点在する小野市にあっては、 最近発見されたものなのか?。古墳名が表示されているだけでも稀有なのですが…。
(現地:塩の井 説明板参照)


養父寺  兵庫県小野市来住町1099

元:聖徳太子が建立したと云われる福聚山東明寺(廃寺)があり鴨池辺りから来住小学校付近?辺りまでを寺域とする広大なものだったようで、隆盛を極めた時代もあったようです。常福寺は播州黄檗開宗の祖:實傳道鈞禅師による開山で實傳道鈞禅師に帰依した 姫路藩領だった。
養父寺本堂・養父寺石造

☆!!姫路城主:本多中務太輔政武(忠国)によって江戸時代:延宝6年(1678)再建されたのが禅寺の水谷山養父寺(黄檗宗 本尊:薬師如来)で、 コミュニティセンターきすみの」から約300m程北西の丘陵裾に在ります。
☆本多忠国が福島より入封して姫路城主になったのは天和2年(1682)…延宝年間の城主は松平直矩!!??
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養父寺石造九重層塔
養父寺本堂前に立つ花崗岩製の石造塔婆は九層の笠(屋根)部と相輪の一部に 欠損や補修の跡が見られるが、小野市内では数少ない南北朝時代の供養塔遺品となっています。笠は軸部造り付け式で塔身の南面には 室町時代初期の造立を示す南北朝期:「貞和4年(正平3 1348)□□戌子6月7日」
養父寺旧本堂屋根の鬼瓦と露盤宝珠?

北朝の刻銘が有り九重に笠(屋根)を重ねた高さ390cmの石造の塔は昭和63年(1988)11月1日小野市指定文化財となっています。本堂と庫裏の両正面に在った石塔は近年の庫裏改修等にあたり、本堂より5mばかり東正面に移設されています。塔身は左右にも文字の刻印が見られるが風化摩耗しており判読出来そうにない!!。
養父寺石造五輪塔
養父寺石造五輪塔
本堂の左手後方の墓地へ向う詣道入口から、ホンの数段上に雑木と低い土塁で囲った平坦地があり、土塁沿いに 花崗岩製で大小 5基の五輪塔が並んで立てられ何れも同時期のものと思えるが目にする説明は大きな2基についてのみ…!!?。2基とも高さ約1.5mで完存しており、各部はすべて素地のままで右塔の基礎正面には石造九重層塔建立の4年前 :南北朝期の康永3年(1344)4月15日の刻銘があり、
養父寺:石造地蔵尊板碑の裏面

その造立時期が 明らかとなっており、左塔も形式がほぼ同じであることから同時期のものと推測されます。なお塔身がいずれも 逆さまに据えられており、此処に移設された際・安定するふくらみのある部分を下にされたものか?篠山市:承明門院の五輪塔も、 平坦地に在った供養塔を檀囲いに整備してその上に祀った際、塔身が此の様に上下逆になっていたのに気付かれた市内の郷土史家N氏により正常に置き直された。この五輪塔も何処かに祀られていたものが此処に移転して収められた際 ・誤って此の様に置かれたものか?
養父寺石造地蔵像板碑
養父寺参道の石階段両脇に正面(東)して建てられています。裏面には石材を組合わせる窪みも残り流紋岩 質(石英粗面岩)凝灰岩製の組合式石棺を再利用して、其の側板と底石で造られた高さ約1.6mの二基の石棺仏で板碑面には両碑ともに 延命地蔵立像が半肉彫りされています。両像は比較的よく似ており、像全体を板状に浮彫りし細部は線彫に近い技法は蓮華座や被紋部の彫りによく示されている様で、 2基ともに其の様式から室町中期頃の造立と推測される様です。
養父寺の石棺仏:地蔵尊像板碑

向かって 右側は小型の未開敷(みかいふ・つぼみ状態)蓮華か持蓮華(僧侶が合掌するときに手に挟んで使用する僧具?)と小型の宝塔を持っているように見え、左側の地蔵像は右手に錫杖・左手に宝珠(薬壺?)を持ち、 人々の苦しみや悩みを救うされます。文字は彫られていない様ですが室町中期の作と云われています。
【現地:養父寺境内の案内板 好古館パンフレット 小野市史 小野ふるさと散歩等を参照】


 阿形城
来住城赤松氏館

阿形城(東林山城・東林山構・阿形北林城・林山城) 陣山・城山35m 小野市阿形町字林山西島

JR加古川線粟生駅から南へ、加古川沿いの堤防車道(県道81号線)を走り万願寺川を渡って直ぐ”阿形町”の標識を見て加古川線ガードを潜る。 加古川の右岸・万願寺川が加古川に合流する辺り 「若一王子大明神(若一神社)」があり阿形集落に向う車道の
加古川沿い県道からの阿形城

南150m程前方には、南方の阿形の高台に並ぶ集落から北方に延び出す低丘陵の北末端部は三方(南側を除き東から北・西へ)が8-10m程の段丘崖となって崖下を流れる溝谷を水堀として 落とす要害の自然地形です。比高15m・東西60m・南北に140m程の小さな丘の「南端に陣山・北端の少し高い?城山と呼ばれる」頂部一帯を 縄張りとした阿形城がある。加古川堤防沿いの県道81号線と並んで田圃の中に浮かぶ船の様にも・鯨の様にも見える山容は目立って城の所在はよく判ります。
阿形城:櫓台と主郭に入る 唯一?の虎口

「小野市史」に載っている戦後間もない航空写真でも既に城域内は開墾され遺構は壊滅しているといい見るべきものは残らないうえ、 周囲は溝谷に囲われているので、初めて訪れた時は藪の丘を遠望するだけにして訪城を諦めたが再訪してみると、 県道からJR加古川線のガードを潜った先・南東部から丘陵部へ斜上する細い車道右側の切岸上は櫓台跡。丘陵上南端部には数軒の民家と畑の中に続く低い堀切跡の道が丘陵尾根を西側へ抜ける。
阿形城U郭

この一画は字東殿垣内とあり城主・家臣達の屋敷跡だったのでしょう。 堀切跡から鋭角に平入虎口が上方の伸びて丘陵上部の主郭にはxx一家・一族の詣り墓があり、陣山と呼ばれる主郭部の主要部。 其処から北に向っては一面畑地・北奥に木が繁り高く見える辺りは 果樹園となっている城山と呼ばれるU郭で、加古川沿いの流域・交通監視の任を兼ねた曲輪だったのでしょうか?。
阿形城:丘陵北端部の断崖と水堀の溝谷

崖上にまで広がる平坦地形だが一段低く犬走りか通路 ?が一段下部に帯状・棚状の平地が伸びています。 嘉吉の乱以前は公文職の上月伊勢守氏と地頭職の柏原右京亮が知行していたが、赤松惣領家再興後・上月氏の所領は徳平源太則近に与えられた。 両氏の代官は阿形に居たと思われていますが阿形城との関係について明らかになっていないよう?。 天文9年(1540)頃から上月八郎が由緒を申し立て訴訟になりました。
主郭櫓台跡の詣り墓と低土塁先の虎口

阿形城の創築は不明ですが文献等には・天下統一を進めて 室町幕府を倒して築いた織田信長〜豊臣秀吉も、徳川家康に家臣まで奪われて滅亡するまで僅か30年ばかりで終えた安土桃山時代:天正年間(1573〜92)城主は三木城主:別所長治の麾下にあった油井土佐守勝利と云われ三木合戦の 際に三木城に籠城して 戦い天正8年(1580)三木城と運命をともにしたと云われ
「播州古城軍記」主無き城はそのまま廃城となったのでしょうが、それ以前の事は不明です。 阿形町の東出入口部に在って城域の丘陵部は天然の要害地でもあり、
阿形城主郭は畑地・奥のU郭城山も畑と果樹園

室町時代初期:嘉吉の乱以前より地頭職にあった柏原氏らにより、既に構居として・また砦として存在していたと思われます…!!?。阿形城の南方から阿形町を抜けて 西脇町から加西市の北条町へ、北条から福崎へ達すれば山崎町方面や市川町・神崎町へと西播磨・北播磨へ通じる北条街道なので、早くから要衝監視の砦として機能していたとは想定出来ます。

【小野市史 文化財編・兵庫県の中世城館・荘園遺跡を参照 】

来住城 (来住構居・沖之城) xxx 45m 小野市来住町小字沖の西

小野アルプス(紅山〜惣山)への 登山基地ともなっている 鴨池キャンプ場へ向う車道が、男池(おいけ)東端の大池明神(男池明神)と並んで女池に水を引く為に造られた文政溝の由来が書かれた記念碑が建つ明神山の傍を通る。男池の鴨池と呼ばれる由来!?や「かも池」の案内板も立つ。此処から田園風景の拡がる東下方へと階段道が下り田圃と丘陵裾にはビオトープとして整備された 小川沿いの道を辿ると来住町唯一の村社として祀られる春日神社前に出る。
南からの来住城主郭:中央右手樹の 陰に城主を祀る祠

広く長閑な野中の道に月遅れになってしまったが10月なら一面に白い蕎麦の花畑が広がっていた。今は田形に深い鋤跡の残り殺風景な刈り取り後の田が残るだけ。先に寄ってきた養父寺付近を北に見て、 南方に来住町集落側を見る。JR加古川線小野駅付近から鴨池に通じる車道を隔てて、其処だけが遠目にも一段高く見える場所が在り、 立木と小祠の小さな赤い鳥居も見える。参考資料とした「兵庫県の中世城館…」に南西から北東に長く延びる低い丘陵上突端にあり
来住城主郭の祠:城主を祀る祠?・石造廟も有る

xxxの説明に所在位置を再確認するもシックリと合点がいかない?。近場にある家老戸谷公民館の名が城・居館があった事を匂わせる!!?が、 公民館は本来・城址に有ったようで、字名が家老戸谷・小字が沖の西なのか?。宅地や車道拡張工事・圃場整備で周辺地形が大きく変わったのかも しれないが此処に来住城が在りました。主郭部(50m四方)を高さ 2〜3mの土塁が囲む掻き上げの館城だったのでしょう。其の主郭との段差の下段は 田圃に囲まれており、外側は車道や民家との高低差は殆どないが、
来住城主郭内の祠と石造廟

溝谷の水路を利用したり 堀(圃場整備等で改変されており縄張りは調査図から推定するだけですが)が廻る。北側や西側は車道や圃場拡張整備等で消滅している様ですが南側から東側へと集落内の数軒の民家が並ぶ地区内に、 溝谷が流れていて此の水路も 自然の堀として利用していたのでしょう。この南面の溝谷側にある田圃からは主郭に斜上して登る平入り虎口状の通路が在り、 右手に低土塁が残るようですが、此の一角だけが藪。削り取られて壁状 3m程の切岸は周辺で一番高い。主郭上は全て畑地で一部に作業小屋が建つ。 正面北東端に鳥居と小祠が建つ。城主来住氏を祀ったものか?。
来住城主郭:西北から東角の祠

虎口から祠に向う東端部が主郭内を区分するように僅かながら高く感じ、 小祠が建つ北東コーナー部が一番高い位置かも…と云っても数10cm程度の差だが櫓台だったか…!!?祠のコーナー部から北面切岸下部に沿って配水溝状の溝だが水堀跡のようです。確認してはいませんが来住(きし)町に来住姓は無いという。三木合戦の際・三木城主別所氏に付くか、秀吉方に従うかは加古川市 ・小野市・加西市・加東市等の三木市隣接の近在領主達は、
来住城主郭祠西面切岸:奥の民家直近を 北の小口へ延びる

形勢を見定める余裕もなく選択には苦慮していたと思われます。来住氏は三木城主別所氏方に付いたが秀吉方の攻勢を察知し逸早く城を捨て一族全て 逃走して帰ってくることは無かったという。播磨の旧赤松家の一族か秀吉方に付いている近在領主の 伝(つて)を頼って逃れ其の地で 帰農したものか? 。「播州古城軍記」等によると来住城主は清和源氏の後胤で多田満仲の三男 :源珍が但馬国に流され名を多田法眼と改め、其の末孫がいつの頃か不明ですが当地方に下向し代々来住姓を名乗ったと云う。

来住城主郭南面:西から東へ


「赤松家播備作城記」によると来住城は 鎌倉時代後期 :正和2年(1313)来住安芸守惟友が築城して代々安芸守を世襲した。城主の系譜は文献により大きく異なる為に実際のところは不明。天正年間(1573-92)別所氏に従った来住(右衛門佐)景政と 嫡子源三郎景利と其の弟:源四郎貞重は三木合戦の際:来住城を出て三木城に 籠城し 天正8年(1580)正月の三木城開城とともに自刃したか三木城から出撃した 野戦に討死したようで、此れにより主を失った城は廃されたとみられます。其の後:子孫は来住の地に帰農し今日に至るとされますので、姓を替え名を変えて土地に留まったのでしょうか?。
鴨池(男池)南東端付近の道標
(享和3年(1803)銘 左:粟生 右:市場を示す

城史に来住城攻防を伝える伝承等は無く、此の地区にのみ勢力を有し・普段は農耕に従事していた土豪とされますが城の立地からは、城の西側傍を通る間道は加古川市との境界尾根の小野アルプス 惣山東の鞍部「あざめ峠」を越えて加古川市に通じ、北ヘは加古川流域を遡れば粟生町に入る。 加西市を経て市川町や福崎町へ・加東市経て篠山市へ・社・西脇市を経て丹波市へ間道とはいえ交通の要衝!!?。来住町側の峠道筋や鴨池付近に古い道標や地蔵尊が遺り古来からの往来を示し、 通行監視と代官任務を兼ねていたのでは…今後の郷土史研究により、城史がより明確化され進展がみられる事を期待します。
(兵庫県の中世城館・荘園遺跡 小野市史等を参照)

【追記および訂正】天正:三木合戦以後の来住氏について
来住本家より分家した子孫の方より貴重な報告を受け謹んで追記・訂正致します。 ●三木合戦には来住 家一族郎党23名が討死した云い、 城開城の際来住勘五郎景量という人物が生き延び、大阪の陣では東軍に付いて戦功を挙げたが、 徳川家に旧領地来住の回復を願い出て認められませんでした。来住家一族のものは篠山藩及び姫路藩・尾張藩に召し抱えられています。
来住城主郭と畑地のU郭

西脇市の来住家は初代篠山藩主:家康の子 (松井)松平康重に仕えていたと思われ元和5年、篠山藩2代目(藤井)松平信吉に代わった際に 浪人して?西脇市へ移ったと思われます。姫路藩の者が来住村本家と思われます。系図では槍術師範とされていますが何らかの原因で 姫路藩の家系は絶えています。尾張藩に仕えた家は現在名古屋に、来住という名字があるがその関係はわかりません。
西北角の溝谷を渡り主郭に入る上り土塁虎口

【和気郡(岡山)浦伊部村の来住氏は先祖を桓武平氏とし、平姓を賜った鎮守府将軍村岡良文の後裔に 鎌倉四郎景村が相模国鎌倉郷長尾村に住み・其の後裔の長尾氏が来住氏の先祖といわれ、讃岐国に居住したとの別ルーツもあり 同一視は出来ないが!!?参考まで】●来住町に来住姓の家は一軒もないと聞いていた。また秀吉方の攻勢を察知して、逸早く城を捨てて一族全て逃走して帰ってくることはなかったともいうのですが?。 播磨の旧赤松家の一族か秀吉方に付いている近在領主に伝(つて)を頼って逃れ其の地で帰農したものでしょうか?」とも記していますが、三木合戦後に存命し旧領地再興の為に尽力した一族がいた事。
主郭祠側から民家を掠め延びる西切岸

現在は居られないと云うことらしいが来住町には近年まで来住姓の方が住まいされていたが継嗣 ・家族もなく絶たれたとも。また喜始(きし)と改姓して近隣の地に代々来住(きし)の名籍を継承されているとも…云う。元和1〜2年頃には莇新田・岩倉新田等の新田開発が行われているので来住地区に移り住んだ人達も居たのでしょうか?。”逃走して…”と記し、来住氏一族の方に失礼な表現をしているが、帰農(侍を捨て服従の意思を示)しても 旧領地に戻れる事を約された訳では無かったでしょう。
溝谷越しに西側民家からの主郭

秀吉方に降伏しても、其の秀吉に対する遺恨や時の流れの中で家康方についたとしても、まして逃走したとしても一族の血脈存続大事、誰から非難される事でもなかった筈。三木合戦の別所氏に限らず一族や家臣達が敵・味方に分かれての 悲惨な戦いが行われてきています。戦いに何が善か悪か・正義かの区別は無く、其々の立場で正しい事と信じ行動したのでしょう。誰を害することも無く一族一家保全の為の逃走は、正しい選択の一つだったでしょう。

赤松氏館(下来住構居) xxxx 25m 小野市下来住町小字平野

JR加古川線小野町駅の西南約500m・前谷川を渡ると丘陵上に赤白鉄塔を乗せるNTT無線中継所が見える。山頂へ専用林道が通じる車道を直進すると無住?で本堂と鐘楼だけの室生山常光寺が在り大化5年(649)法道仙人の開基を伝えます。此処から四国八十八ヶ所ミニ霊場巡りが裏山へと延びており、 安政5年(1858)住職の俊寂師によって開かれたという。
常光寺鐘楼から上段に続く堂宇跡の石垣

弘法の日(21日)に 霊場巡りに訪れる人々に今も婦人会等による茶の接待が鐘楼横の 小さな籠もり堂の様な建物を休み所にして行われているという。此の登り口付近には幾段も古い石積跡・庭園跡等が残り、昔は栄え伽藍堂宇が建てられていた様です。 常光寺の略縁起写(古文書)は天保8年(1837)赤松左衛門為義が書き写したものとして 多数の古文書とともに所蔵されている赤松邸が此の 赤松氏館(下来住構居)でした。古文書の多くは来住氏宛てのものだけに三木合戦前後の来住氏の不明の部分にスポットが当り其の動向が見えてくれば良いなとは思うのですが。
下来住構居(赤松氏館)堀跡?と正面宅地の裏に水堀が残るのか?

平野集落への地区道西の 丘陵裾を流れる溝谷沿いの畦道を常光寺から向うと、無線中継施設を正面に見て東へ延び出す枝尾根が 形成する谷の出口に赤松氏館が有る。近在に赤松姓の家を見ない…!?!のですが、此処は赤松姓の方が住まわれており播磨守護 :赤松氏一族の館とされていますが詳細は不明。資料にも中世以来の屋敷なのか、江戸時代に郷士として屋敷を構えたものかは疑問としている。 徳川に付き大坂の陣に参戦したが旧領来住の地の再興は叶わなかった来住氏一族は篠山藩・姫路藩や尾張藩に短期だが 仕えて後:帰農されている様?。姫路藩に仕えていたのが…(姫路藩来住家の家系は絶えている)…来住本家 (赤松来住家)との推測だが、地元の人から 堀も現存していると聞いていたが、
常光寺側からの下来住構居(赤松氏館)遠望

其の位置から見てどうやらブロック塀の中の様で、土塁や平坦地形は在っても宅地造成で改変されているのかも知れないが、個人宅のため外観から推察。遺構でなければ 宅地画像もホントは 駄目なのかも…?
、そのまま南への道を辿ると鍬谷温泉・塩の井前を通り鍬谷神社参道下に出ると白雲谷温泉「ゆぴか」の看板を見る。
【小野市史・兵庫県の 中世城館・荘園遺跡を参照 】
別冊 別冊丹波霧の里HOME 本誌 丹波霧の里HOME
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