上月合戦の城砦を訪ねて    上月城(荒神山)・仁位山城〜高倉山城
作用郡上月町  (五万図=作用・上郡)
上月合戦の城砦を訪ねて 2010年03月27日
近畿の山城: 上月城(荒神山) 仁位山城 仁位山〜高倉山間の遺構群  高倉山城

上月城(荒神山:後期上月城):主郭の切岸

もう10年は経過したか!!?、年1回のペースながら、例年同じメンバーが集まっての山城ミニ・オフ、今年は兵庫県西端の播磨地方。 当然ながら播磨赤松氏の地盤も但馬山名氏・中国毛利氏・信長の天下統一には羽柴秀吉等との戦国時代の攻防の舞台・集合場所の上月歴史資料館へと上月町を訪れた。
昨年(平成21年)8月に兵庫県北部 ・西部を襲った台風9号の災害は、作用町上月地区に大きな犠牲を強いています。 私も兵庫南部地震(阪神大震災)で被災し、自助努力に任されて市・行政からの援助は得られず、県外疎開で対応は更に無視同然、其の後は被災地へも直接は入れず、復旧は公共機関施設優先は当然ですが・・!!
高倉山城主要郭(最高所)西北端下部の曲輪から

未だ住民が戻りたくても 元の地に戻って来れない苦しい現実が残されています。最愛の家族を失い癒されることも無い虚無感が、 幾層倍にも重なり覆い被さってきますが、犠牲となられた方々の哀悼・被災者の元の生活への復旧早からん事を願います。但馬・円山川の氾濫以来・個人的には但馬方面への出足は鈍りがちで、 訪城も被災地を外してきたところですが!!歴史資料館内では「紙漉き」の道具と行程図や 製品の展示と実演もされていたが、
仁位山城:畦状竪堀群が輪切りされた切断部を見せて林道に並ぶ!!

屏風や障子紙として使用される厚手紙の代名詞ともなっている 皆田紙。私の郷近くには、多可郡其の名も!!?加美町・現:加美区に杉原紙があり、紙漉き実演者に話しかける機がなかった。館内に展示されているコレクションに早瀬土人形が有った。兵庫県内の土人形では県内最西端:播磨の上月町(現:作用町)の早瀬土人形 ・県内北部の但馬:関宮町葛畑人形・県内東中央部:丹波市稲畑人形が知られています。
早瀬土人形城

早瀬人形は明治の中頃から約30年にわたり早瀬で作られてきたといい、時代背景から明治天皇・上官 〜兵卒等の軍人像等の軍事色濃い造型作品を珍しく注目した。稲畑人形を除き後継者も無く、明治以降徐々に衰微し大正期に、葛畑人形も昭和50年代には廃絶した様です。土人形は日本三大土人形とされる宮城県:堤人形と長崎県の古賀人形も、京都伏見人形の制作技法が大きく影響を受けている様です。伏見人形を観察したり ・持ち帰った人形を参考に全国的に製法を学んで作り始められ、作品には伏見人形が原型の共通点は多く、作品も必然的に内容も玩具・土産ものとして、
仁位山城:横掘土塁から畦状竪堀の一つ:竪堀

節句・歌舞伎・風俗・故事・信仰・縁起・動物など題材に種類は多い。 館内展示品には早瀬土人形の他にも極・近在で作られていたらしい(名は忘れたが)xx?土人形も2〜3点有った。形容・描写・土質・人形の型等から判断できるのか詳細は知らないが?。節供や慶事に贈り飾る土人形には饅頭食い・立ち及び座り狆(チン)・鯛を抱く童子・七福神・天神さん・力士等の既定モデルの他に、 明治天皇・軍人・兵卒等、他で余り見かけない作品は明治から作り始められた早瀬土人形の時代背景を感じさせる。
上月歴史資料館

創始者が瓦職人だった思い込みからか!!?人形の作りがいずれも大柄に感じる!!?。歴史資料館に最も期待した
上月城・上月合戦等の城関連資料は、以外に城史を語る展示物・題材は少なく、上月合戦関連の説明パネルと城跡から ?の煤けた土器類の破片数点が照明も無く薄暗いケース内に置かれているだけ。上月合戦の本舞台となった上月城は播磨・備前・美作三国の守護 :赤松家一族の城ですが、なぜか他国:山陰出雲守護代:尼子氏の城のイメージの強い合戦場としての城。 尊皇・忠誠心高揚の戦時中の日勤教育!!?の賜物か…お家再興を願いつゝも、果たせず出雲尼子氏は上月城に滅亡した。無念の敗戦・悲劇の武将山中鹿之介の最後の戦場地となった事で ?クローズアップされ知られるようです。
大谷家と赤松円心廟所の石碑

山中幸盛が鹿之介の名で知られ、尼子家再興を願って忠勤に励み上月城を守って、目的達成を目前にしながら信長・天下統一の「捨て駒」にされ、尼後氏滅亡・無念の中に散った山中(鹿介)幸盛ですが、 上月歴史資料館に隣接して望楼を備えた長屋門風!?玄関口に掲げられた大谷總家大谷五左衛門xx表札からも当主は、 代々:五左衛門名を現在も継がれている旧家大谷家が建つ。資料館との間の山裾・大谷家裏手に大谷家墓所がある。宝筐印塔は貞治4年(1365)の銘文があり、石造遺品の紀年銘としては郡内最古として、 上月町(現:作用町)指定文化財(昭和63年3月23日)となっています。
大谷家墓所:赤松円心廟所!?と宝筐印塔(町指定史跡)

墓所中央にあるのが赤松円心を祀る廟所だろうか?。大谷家入口にはもう一基明治維新志士:立石孫一郎生誕之地の石標が立ち、 明治維新を目前に夢を潰えた人物がいました。今TVドラマ等で人気の坂本龍馬を知らぬ人が少ないくらい。 中岡慎太郎や吉田松陰等の同志のなかで、討幕の魁となり、維新を目前に散った立石孫一郎の名を播磨・備前・美作以外の人には殆ど知られていないのでは…?。私も日本歴史人物事典(朝日新聞出版)等で後日知った。
立石孫一郎(大谷恵吉)生家の大谷家・背山が前期:上月城(太平山上月城)

【立石孫一郎】天保3〜4年(1832-3)頃大庄屋大谷家の長子として生まれた大谷恵吉は、 家督を継ぐが藩役人との衝突で家を出て母方の美作に寄食。翌:嘉永元〜2年(1848‐9)倉敷の庄屋大橋家婿養子に入り大橋敬之助を名乗ります。尊皇攘夷の志士となり立石孫一郎と改名して、 慶応元年(1865)長州藩奇兵隊に入隊。 翌慶応2年:第二奇兵隊隊士が脱営して、倉敷代官所や総社市の浅尾藩陣屋を襲撃したリーダーが立石孫一郎という!?。備中松山藩・岡山藩を追討を受け、 慶応2年(1866)頼りとした長州藩の銃撃に倒れた<履歴詳細は不詳…ですが>、立石孫一郎もまた山中(鹿之介)幸盛から約290年:時代を経て、最後まで、再興を夢見て信長方に付いていた山中鹿之介が、 其の信長には、捨て駒とされ、無視された無念の終に重なって見える。
(現地:上月歴史資料館 大谷家墓所案内板及び:ウィキペディア等を参照)



上月城(荒神山) 仁位山城 仁位山〜高倉山間の遺構群 高倉山城

 
 
上月城(荒神山上月城・後期上月城) 荒神山 194m 作用郡作用町(旧上月町)下上月字荒神山

JR姫新線上月駅の南方約700m程、中国道からは作用インターからR179号をR373号の交差点「上月三叉路」に出て、 R373号沿いに南西方の上月歴史資料館を目指すことになるが・・今日は運転・ガイドお任せ・山城ミニオフ会。上月城は鎌倉時代:播磨を支配していた赤松家一族の徳平(宇野?)則景の弟・三郎頼景?が 上月氏を名乗って正治年間(1199-1201)に大平山(樫山・天神山)258mに太平山上月城(太平山城)を築いたのが始まりと伝えられます。
上月城本丸の切岸

南北朝期:建武の乱(建武元年 1334)に武功のあって延元元年(1336)赤松一族の上月次郎(刑部少輔)景盛(頼景の曽孫:宇野播磨守 (山田太郎入道)則景の子?)が白旗城の北の守りとして、大平山から荒神山の出城を移し改修した。赤松氏 VS山名氏の相克絶えなかった応永年間(1394-1428)頃とも推察されているのが現在の荒神山上月城です。城主は景盛・盛忠・義景・景満と続いた【登山口案内板】伝えますが!!?、太平山・荒神山の上月城築城時期 ・城主名等は諸説が有って定かではない!!?。
上月城山頂:主郭に立つ赤松政範主従の供養碑

上月城は荒神山Ca195mに本城に、北の太平山258mと南には大亀山に挟まれ、西方に大成山391m・南方には後山405mが本城を護って城砦群を形成し、播磨・備前・美作三ヶ国守護として大きな勢力を持っていた赤松氏が領したが上月景則の時・嘉吉の乱(1441年)に惣領家が没落すると、播磨は山名氏一族が支配するところとなり、 上月城も山名一族の居城となるが、其の後:長録元年(1457)没落した旧赤松家一族の遺臣:間嶋彦太郎や
上月城山麓・大手門跡?には尼子勝久400年忌及び山中鹿介の追悼碑が建つ

上月(左近将監)満吉(南帝廟の項を参照)等が、お家再興を図って吉野の後南朝を襲撃し、首尾よく神璽を奪い返すことと引き替えに、赤松家再興の許しを得て、赤松政則が応仁元年 (1467)播磨を回復する。滅亡した上月氏が此処に再び復したかは不明ですが、文明15年(1483)またも山名氏が侵攻、 山名氏が衰退すると、天文年間(1532‐55)出雲の尼子氏の播磨進出に落城。其の後も大内氏・浦上氏・陶氏等の攻略に次々と上月城主が交替する。弘治3年(1557)置塩城から赤松(左京太夫)政元<置塩2代目城主:義村の子>が入城した。
上月城:主郭から東側下段に続く曲輪

其の子:赤松蔵人大輔政範ともに「西播磨殿」と呼ばれ赤穂・作用・宍粟等五郡を領していた。播磨・備前・美作三ヶ国の国境に位置した主要衝の地にある上月城を拠点に毛利氏と結び織田信長に抗する赤松政範を狙う山名氏。 天正5年(1577)織田信長は毛利輝元攻めの中国攻め初戦を、毛利方の赤松氏が拠る上月城攻略を羽柴秀吉に命じた。 利神城の別所太郎左衛門定道は俄かに陣を引いて利神城に帰った為、防戦の先陣に立った上月城支城の福原城(城主:福原藤馬允則尚)は一日で攻略され、高倉山に本陣を置き1万5千の軍勢で上月城を包囲し、
上月城山麓・大手門跡?に

救援に駆けつけた宇喜田直家の軍を退け、上月城は落城し赤松政範は自刃して赤松氏は滅びます。荒神山194mの山上にある本丸跡には上月合戦に討死・主君に殉死した赤松政範主従の三基の供養碑<江戸中期:文政8年 (1825)第250回忌>が建つ。建立者:大谷義房(?義章)は赤松一族か、上月城落城の際の守将の末裔。 山麓歴史資料館隣の大谷家との関係があるか?は不詳ですが・!!・・・。この戦いには秀吉の残虐行為を伝えます。
上月城の二ノ丸

即ち・福原城と上月城の残党将士を捉えて首を刎ね、見せしめに城中の女を磔に・子どもは串刺しして、三国(備前・美作・播磨)境に並べて晒したという。山麓の登城口付近・大手門跡?には尼子勝久400年遠忌追悼碑に並び、山中鹿之介の追悼碑・西端には上月城戦没者合同慰霊碑の追悼供養碑があり、赤松氏・山名氏・尼子氏、 毛利氏・羽柴秀吉へと合戦が繰り返された上月合戦の舞台として知られます。本拠:月山富田城を落とされ一時は滅ぼされた宿敵・毛利氏打倒と、尼子家再興を賭ける尼子氏が織田方に付いた事を利用しない手は無い。
上月城:三之丸西端の切岸からの堀切

毛利氏にとっても最前線基地の守備の最適任の尼子氏に委ねる事は、 秀吉にとって何の問題も無く、上月城には尼子勝久、家臣:山中(鹿之介)幸盛を入れて守らせたが、毛利氏にとっては天敵の尼子氏を討つ為にも、 翌天正6年:毛利輝元は大軍をもって包囲させ、宇喜多直家の軍勢に攻め込まれて撤退し、宇喜多は赤松氏の臣上月十郎景貞に守らせたが毛利攻めの重要拠点は二ヵ月後、再び秀吉軍により落城、景貞は敗退中櫛田の山中で自刃した。
上月城:城域西末端の堀切・北にフオーク状に分かれ長く落ちる竪堀

再び尼子勝久、山中鹿之介が入城したが、 毛利軍は山陰、山陽の両道より毛利元就の二男吉川元春23000と三男小早川隆景28000の軍勢で上月城を包囲した。 救援に向った秀吉は1万の軍で急ぎ高倉山に陣を進めるが、上月城への物資搬入等の支援救援どころか、近づくことも出来ず・織田信長命により攻略中の三木城別所氏攻めに専念するため高倉山城から兵を引き揚げ、
仁位山城南郭部:横掘から土塁から延びる畦状竪堀群

孤立無援となった上月城の尼子勝久は、 毛利氏に降伏し開城自刃し尼子氏は滅亡した。山中鹿之助は捕らえられ備中の毛利輝元の陣へ護送途中、高梁川の”合の渡し ”<備中の甲部川と成羽川の合流点>で斬殺され、織田方に付いての打倒毛利氏と尼子家再興の夢も潰えた。この上月合戦の後:城は廃された様です。上月城(荒神山上月城)への登城ルートは
上月歴史資料館前から望む仁位山城

歴史資料館の正面から案内標識完備の整備道を辿れば、東尾根筋に堀切と二曲輪程を越えて、 赤松政範主従の供養碑の建つ主曲輪に着く。南下にも2〜3段の曲輪を重ねるが、然程急斜面でもなく、度重なる籠城戦に耐えたにしては、 岸は切ってあるが土塁等の防備手薄の感がする。西へ延びる長い平坦地(曲輪)先に二ノ丸が有り、西尾根を下る鞍部に”馬落とし”と呼ばれているらしいが堀切と外側に土塁が残り、
仁位山城:林道を挟んで山側には畦状竪堀が、北斜面にも長い竪堀を数条見る

更に下方にも”馬落とし”の堀切 (北にフオーク状二股に分かれて落ちる竪堀状、南側は空掘状に延び、其の先で竪堀状になっているものか?)、ここから城跡散策コースは北に下り、尼子勝久400年忌や山中(鹿介)幸盛の追悼碑側を通り歴史資料館へと周回出来ますが、 今回予定していた目高の築地へ延びる周回コースも新たにハイキングコースとして近年!?整備されてます。
(現地:上月歴史資料館内展示パネル・登山口案内解説板 ・ひょうごの城紀行 Web:ウィキペディア等を参照)


仁位山城〜(尾根上・曲輪群遺構)〜高倉山城
仁位山城(仁位の陣山) 仁位山 233m  作用郡作用町西庄字仁位
仁位山城〜高倉山城間の郭遺構群・・・・
高倉山城(高蔵古城)
高倉山 357m 作用郡作用町上石井・南光町菰田
仁位山城南郭主部 :南面切岸と竪堀(正面)

仁位山城は作用川(熊見川)を挟んで上月城の東側に位置する山城でJR姫新線上月駅の南東約1km。 上月三叉路をR373号を南下約900mで左折して、佐用川に架かる下上月橋を渡る。此処から狭い集落内を抜けて鋭角に、集落最奥部の林道入口に向う。 ゲートを開閉してテレビ受信施設と無線中継施設の建つ巡視林道を終点まで進む事になりますが、
仁位山城南郭部:横掘から土塁から延びる畦状竪堀群

今回は播磨の山城ナビゲータのKAIさんに運転・ガイドお任せで、取付きまでの登城ルート詳細を良く覚えていない。 ただ上月城登山口の歴史資料館前からも、山頂部にアンテナ塔を乗せて間近に望む仁位山から高倉山城への縦走を目指す事は、上月城合戦の攻防を廻る赤松氏・毛利氏・尼子氏と播磨攻めの羽柴秀吉等の戦いの歴史からは外せない。
仁位山城:南郭部の畦状竪堀群

作用川を挟んで上月城と対峙する位置に在っては、毛利氏の陣城となり、 翌年には秀吉方の付城となった仁位山城と秀吉の本陣ともなった高倉山城は赤松美作守義則が拠った上月城の支城でもありました。 仁位山城は無線中継施設の林道終点手前の300〜200m付近の南斜面には、夥しい畦状竪堀群(中程の主要部分の約80m程に20本ばかりの竪堀が並ぶが林道で寸断されている為に長さ10〜15m程)が有り、其の竪堀群を割いて林道が延びており、
仁位山城南郭主部の南斜面:左右二重の竪堀

輪切り状態で並ぶ畦状竪堀群の断面を見ながら進む。 林道の山側斜面に続く畦状竪堀が切れても、今度は谷側に大きな竪堀が三本程見えるが、縄張
り図からは更に三本ばかり畦状に竪堀が並ぶ様です。 林道終点の中継施設から西への広い尾根筋には、大きく三つばかりの曲輪があり主郭部らしい中央の曲輪には櫓台状のマウンドと、此処にだけ切岸状?が見られる北側斜面に片堀切・堀切と、西の曲輪へは低いが土塁線がある。
仁位山城北郭の土橋付堀切

中央曲輪を中心に北斜面には先程見た畦状竪堀群は其の上部が横堀で連結されていて、 規模は違うが丹波八上城攻めの明智方陣城:大上西ノ山城を思い出す。ただ堀切群上部の広い緩斜面の尾根に低い段差の曲輪が、 土塁や切岸等での防備強化も、曲輪を区分するものも無い!!?のが・・いかにも陣城!!??。この畦状竪堀群は毛利軍による播磨侵攻・上月城攻めの際に築かれたものか?,、
仁位山城南郭主部の西尾根端へ延びる土塁線

秀吉軍が上月城の付城とした際の改修なのか?。 林道終点の広い鞍部に建つ無線中継施設までに見た・竪堀群ばかりが目立つ仁位山城南郭部は、少し下ったCa260m付近の高みに 18u程の低いが円形マウンドが有り此処が主曲輪?。北方は畦状竪堀群、この曲輪の南方斜面にのみ、土塁線と枝尾根の曲輪に切岸・尾根左右に竪堀・堀切・土塁が見られます。これ等の南郭部に比べると、
仁位山〜高倉山間の遺構:土塁?と竪堀?(林道上の中継施設裏手)

林道終点鞍部からテレビアンテナ塔が建ち三角点(233m)標柱石が埋まる北郭部は、小さな段曲輪が続く最高所に15u程の円形マウンドが有り 此処が北郭主部というより、仁位山城の主郭部で北尾根を10m程下った処には深さ1・5〜2m程の土橋付堀切を持つが、その先は緩斜面の尾根を下っていくだけ!!?。天正5年(1577年)織田信長による毛利攻めの為、羽柴秀吉を総大将として播磨に入り、
仁位山〜高倉山中間付近の遺構:土塁の喰い違い?虎口

福原城(城主:福原藤馬允則尚)を攻略し、則尚の妹婿 :福原助就が守将の高蔵山城を落として此処に本陣を構え1万5千の軍勢で毛利方の赤松政元・政範父子が籠もる上月城を包囲した際 ・上月城包囲の付城の一つとして安藤信濃守が800騎を率いて仁位山に陣を敷いたところと云われます。上月城の救援に駆け付けた毛利の宇喜多直家軍も秀吉軍により退けられ、城主:赤松政範は自刃・重臣達の多くも政範に殉じ、 落城した上月城には毛利氏打倒と尼子氏再興を悲願の尼子勝久と山中(鹿介)幸盛を入れて守らせますが、
仁位山 〜高倉山中間付近の遺構:桝口?(正面)と土塁線(上方)

宇喜多勢に攻められ尼子氏は撤退し、宇喜多氏は上月十郎景貞に守らせるが、再び秀吉軍により落城、景貞は敗走の途中・櫛田の山中で自刃したと伝えられる。再度:尼子勝久・山中鹿之介が上月城に入るが、毛利輝元軍は翌天正6年(1578)3月:上月城の奪還と尼子氏残党を攻撃する為、 今度は逆に山陽道から小早川隆景28000・山陰道からは吉川元春23000の大軍勢で上月城を包囲します。
仁位山〜高倉山中間付近の遺構:土塁の喰い違い?虎口

上月城の周囲には毛利氏が陣城を構築し、兵糧搬送路を断ち・水の手を押さえ「兵糧攻め」により、尼子氏自滅の長期作戦を取ります。上月城からの報を受けた羽柴秀吉は三木城の別所氏攻略中ながらも、上月城救援に向かい高倉山に陣を構えたが、毛利方勢力との兵力差は大きく、 上月城に対する積極的な支援もできない状態のままで、
高倉山近くの堀切を越えると緩斜面が続く

信長は三木城攻略の為・上月城から退却を命じます。秀吉は上月城の救援を諦め6月末期には高倉山城より兵を引き揚げ退却を余儀なくされます。このため上月城は孤立し遂に7月初め、尼子勝久は籠城兵の助命を条件に自刃、毛利氏に降伏し上月城を開城し、其の後を毛利方の吉川元晴が陣城として使用したとも考えられます。
高倉山城最高所(主要郭部)の東一段下曲輪
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仁位山城高倉山城間の曲輪群仁位山城の畦状竪堀群を堪能した後、林道を引き返す途中、 地図上のヘアピン・カーブの先に広い駐車スペースが有る。林道東向いの丘陵上部に見える無線中継施設を目指して尾根上へ直登して高倉山城への縦走に移る。此の尾根筋にも幾箇所かに小規模な曲輪群があるという。 尾根筋に出ると無線中継施設背後は土塁状・北に竪堀・南側の密生する藪中にも竪堀らしいものが・・?。
高倉山城主要郭部最西端出曲輪と(櫓台(後方)曲輪!!?

両山城の中間ピークから南への尾根筋は其のまま麓まで下るので注意。 東北方へは直ぐに三角点(299m)石標柱を踏んで進む幅広い尾根筋に左右から食い違いに迫る低土塁を見る。堀切も有る。上月城合戦における付城の遺構の様で、天正5年(1577)羽柴秀吉が高倉山に本陣を敷き、 仁位山に安藤信濃守を入れて付城としたものと思えます。
高倉山城最高所(主要郭部)の東端曲輪南側の大竪堀
オフ会の迷之介さん提供<元画像1MBを7KBに>切岸下部は崩壊しているが!!

仁位山城は上月城を攻める毛利氏や、播磨攻め織田方が築いた陣城で、縄張りに畦状竪堀群が目立つが、高倉山城は赤松氏の城で、福原氏の守備する城を落として秀吉の本陣としたが、一時的な陣城に大きな改修はなかったと思われ、 福原氏:高蔵古城の大堀切・土塁・櫓台が残る。
高倉山城::城域最東端の堀切と土塁

高倉山城主要郭部から南西に延びる幅広く緩やかな長い平坦地形端部の曲輪には、角を直角に揃えた算木積み状態に見える石積が残り、周辺に散在する石材は、崩れてはいるが虎口 部を固め積まれていた石垣なのでしょうか!。壇や土留め以外に石列・石積遺構が近在の城には無さそうなので、 一部は秀吉方によって織豊系の縄張りに改修されているところが有るのかも知れません?。
高倉山城最東端曲輪:下草藪の先端は高い切岸で、土塁付き堀切があった
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高倉山城(高蔵古城)
は建久年間 (1190〜99)赤松家一族の宇野播磨守山田則景が築くが、高山城(佐用郡横坂)を築いて移った後は、弟:新太夫則連はじめ・代々宇野氏一族が拠っていたが、嘉吉の乱(1441)に美作方面より侵入してきた山名教清に攻略され落城・以後は廃城となっていたが 上月(左近将監)満吉等が吉野南朝を襲撃して、神璽を奪い返すことと引き替えに赤松家再興を許されて、赤松政則が応仁元年(1467)播磨を回復すると、 高倉山城には赤松氏一族が入っていたようです。
高倉山城(主要郭部)東端曲輪手前の大堀切

古文書・郡誌や町史 ・伝承等での情報が一定でなく、また資料も無く正否判断が出来ない部将名や、事象が多いのは上月城・高倉山城はじめ、作用町周辺の城は同じ!!。
(※??)福原氏は上月氏の支流で、上月景盛の孫:景行が福原氏を称したことに始まるという。景行は、嘉吉の乱(1441)で京都で討死しています。 天正5年:織田信長の播磨侵攻時の高倉山城主は福原(主膳)助就(すけなり)といわれ、福原城主福原(藤馬允)則尚(のりひさ)の妹婿が守将として居城していたともされます。
倉山城:城域最東端の堀切土塁から見上げる切岸

羽柴秀吉1万五千余騎の軍勢による上月城攻めの激戦では、 先鋒を務めた竹中(半兵衛)重治・黒田(官兵衛)孝高の三千余騎により、先ず北の守りの福原城を落として、秀吉の本営になる高倉山城を落とした。敗れた助就は討死にしたとも自刃?したとも云われます。本隊は千種川を渡り高倉山 ・上月城を正面にして対峙する仁位山を目指す。円光寺山砦は別名:戦いの砦と呼ばれる様に、作用川を挟んで上月城と仁位山城の南方にも、激しい戦闘が繰り広げられたが、上月城勢力からの裏切り・寝返りも出て、太平山城(大平山上月城)を占拠し、上月城(荒神山上月城)を包囲し、仁位山には安藤信濃守が800騎を率いて陣を敷き、高倉山城は秀吉の本陣として西播磨攻略の拠点となって 「播磨古城記」には羽柴秀長・荒木村重が此の城を守ったと云う。佐用町・上月町・南光町境に位置し、頂上からは四方に眺望が開け、東から南へと千種川が・北西面には佐用川を隔てて福原城を見下ろせて上月城からも近い。
高倉山城:幅広い南西尾根上の曲輪の先端付近に石積虎口があった

仁位山城から続く西南側の尾根筋を除けば 高倉山城裾を作用川と千種川が廻り、二つの川に挟まれた急峻な標高357mの山頂の曲輪を中心に、作用川に先端を落とす西尾根側、仁位山城からの尾根続き西南と、千種川を眼下に見て東尾根に長く延び出す三方の尾根に曲輪群を置く。 翌天正6年:毛利勢に包囲された尼子氏・山中鹿之介の籠もる上月城救援の為:再び秀吉の本陣が置かれて毛利軍と対峙した。 数々の合戦が繰り返され・其の都度めまぐるしく城主が交替した上月城に領主・領民との関連を知る資料・伝承は知らないが、赤松家再興後の赤松氏・上月氏・福原氏の他は他国から無断?侵攻してきた部将達に蹂躙されてきた 要衝の地争奪戦としての上月合戦。その戦乱の歴史の中でも僅か2年余りの合戦が上月城の名を知ら示めています。
高倉山城(主要郭部)南西端曲輪の石積虎口部
  オフ会の迷之介さん提供画像から…
天正5年:羽柴秀吉が赤松政範の上月城を攻め落とした後、 出雲の尼子氏と山中鹿之介を入れて守らせたが、翌天正6年:尼子氏籠もる上月城を包囲した毛利氏勢に、救援に駆け付けた秀吉軍も高倉山城に入って対陣するが、大軍を前に手立て無く、信長からは上月城を見捨て ・別所氏の三木城攻めに専念する様にとの引揚げ命令に、尼子家再興の夢敗れた悲運の忠臣:山中鹿之介だけが大きくクローズアップされる上月城です。上月合戦については(荒神山)上月城の項に、高倉山城の遺構については :仁位山城〜高倉山城間の曲輪群遺構の項に、簡単に紹介済なので重複するため割愛します。
(ひょうごの城紀行 Web:ウィキペディア 兵庫県中世城館荘園遺跡(県教委)等を参照)
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