姫路市東部の山城  南山田城/ 太尾城/ 庄山城 /田野城/恒屋城/恒屋居館・中村構居
播磨 地図(五万図=北条)
近畿の山城  南山田城 太尾城 庄山城 田野城
      恒屋城 恒屋居館・中村構居

南山田城:西北部の後藤又兵衛と一族を祀る後藤霊社と曲輪段・土塁

播磨後藤氏は鎌倉時代初期 :後藤基清が播磨国の当領地を支配して土着したことに始まるとされ、応仁の乱で戦国時代を迎え文明元年(1469)赤松政則が 本領の播磨を回復して本拠地を中播磨!!?の置塩城に移します。赤松家臣団の一:文明年間(1469-87)後藤基信 春日山城(神崎郡福崎町八千種)を築き後藤家本拠と定めています。
太尾城:城山稲荷から市川流域を望む

春日山城の真南約2.5kmには南山田城が在り「槍の又兵衛」の異名を持つ豪傑で基信の子 :後藤又兵衛が居城していた。後藤氏一族や南山田城の西北には上野構・南には太尾城に太尾兵庫頭輿次・田野城に堀兵庫頭満秀・伊勢山城に喜多野兵庫 …等の赤松家家臣団の山城や館城・居館跡が在るが、其の多くは天正年間:羽柴秀吉の播磨平定【主に東播磨守護の別所氏に付いた三木合戦】に落城していきます。


南山田城(南山田構) 太尾城  庄山城 田野城 恒屋城 恒屋居館・中村構居
 

南山田城(南山田構) 城山 48m  姫路市(神南区)山田町南山田

県道81号(小野香寺線)を西へ約1km地点・南山田集落の左前方(西南)に見える竹藪の覆われた小丘に在っ南(むなみ)山田城に向かう。 城山と呼ばれる約100m四方の独立低丘陵の城域を集落と地区道が取囲み堀も有ったといわるので東側道路は堀跡?。城域の南半分は児童公園等で整地され消滅しているが、比較的幅狭い南側から南山田児童公園への通路に堀切でも有ったものか?。
南山田城東北角(公民館背後)の切岸

県道から南山田集落内への3本程の道は田圃の畦道?・幅狭く細い路地道 ・城址北面の遺構か?一部造成により開削された切岸下を抜け、背後に覆い被さる様に 東面に高い切岸を立てる公民館前に出る。南側から 階段の上り傾斜面の段差も小曲輪跡の存在を感じさせます。背後の北側から東側にかけては崖状の高い切岸を落し、藪の中の東方には2-3段の曲輪と土塁の残欠を遺す。
東南部から南山田城

児童公園の西北角には天明6年(1786)に「射場」の屋号をもつ大谷家(元祖は弓の名手で南北朝期此の地に土着したと云う):大谷長左衛門氏が本願主となり、 畑の中に有った後藤某の古塚をこの場所に後藤明神として勧請し後藤新左衛門尉基国・又兵衛基次父子と一族を祀ったと伝えられる 後藤霊社の祠があり、直ぐ上部:藪地の土塁側にも祠 (稲荷社?)が有り近年まで(今も?)使用されていた煉瓦積み祭祀の基檀が残されている。
後藤又兵衛と一族を祀る後藤霊社

播磨後藤家一族の城には宗家(惣領家)後藤基明
【鎌倉時代末期:足利高氏が後醍醐天皇に背いた「建武の中興」後も赤松円心と共に行動する が嘉吉の乱に討死】が築いた 春日山城(神崎郡福崎町八千種)で南山田城の真北方約2.5km地点に在る。南山田城(室町時代末期 :築城年代や城史の詳細は不明)は三木城主別所氏の家臣:後藤家庶流の
南山田城主郭?(竹藪中の稲荷社)曲輪と土塁

後藤新左衛門尉飛騨守基国(藤原氏の後裔:後藤基清の子:基重が承久の乱の後・播磨国安田荘の地頭となる)が築き其の子後藤又兵衛基次(永禄3年<1560>出生は神崎郡山田村・加西市山下町の説もある。 慶長20年<元和元年1615>)の居城と伝えられます。御着城<姫路市御国野町>の小寺家(黒田家)・黒田孝高・長政父子に仕え天正5年(1577)基次18歳で南山田城主となるが翌:織田氏に叛いた三木城攻防戦には別所氏に属して南山田城に籠るが惣領家の春日山城主基信の自害を知り開城。父:基国の最後は不明。僅か1年:城主又兵衛の後 ・一族の城として存続したか?も一切不明。
東南曲輪の切岸・上り土塁(手前右):倒伐材で埋まり空堀に見える?

小寺氏滅亡後は 仙石秀久に仕えるが天正14年(1586)豊臣秀吉の九州征伐に島津勢との戦いに豊臣勢は大敗後の後藤又兵衛は黒田孝高の重臣(黒田二十四騎・黒田八虎の一)栗山利安の与力となり黒田家に仕えている。朝鮮出兵・関ヶ原の合戦にと歴戦し 槍の又兵衛としての異名をもつ黒田二十四騎・黒田八虎の一の数えられた。慶長5年(1600)黒田官兵衛の子:長政の筑前に重臣として従ったが慶長11年(1606)長政との不和から筑前を出奔した。福島政則・藤堂高虎ら諸大名から仕官を持ち掛けられるが、黒田家との関係から仕官はままならず(黒田長政による奉公構< 召し抱え禁止>の手段により…)其の後:浪人となり播磨山田に戻っている。
南山田城主郭?(竹藪中の稲荷社?と土塁

其の際:上記の「的場」大谷家に隠棲いたとも云われます。慶長19年(1614)豊臣秀頼の幕下となり・帰農していた豊臣方旧臣等と大坂城に入城し大坂城冬の陣に活躍するが翌元和元年5月6日 :大坂夏の陣に 出陣し河内・道明寺河原の合戦に伊達政宗軍と戦って討死(享年56歳)【後藤又兵衛の子:左門太良助・弥八郎正方の開基により 翌年開創された加西市尾崎町の祝融山多聞寺(曹洞宗)の位牌は53歳】
西北主郭部の高い切岸:土塁の先に稲荷社・曲輪南(右)には後藤霊社を祀る

南山田城から南西方には飛鳥時代初めの孝徳天皇の御代:大化元年(645)法道仙人開基を伝える林光山福田寺(本尊:阿弥陀如来像・天台宗)は後藤又兵衛基次が当山を深く崇敬して帰依し、 後藤氏一族の菩提寺であったとも云われます。県道81号線とは南側に平行して南山田から西山田へ抜ける地区道の○○工場前の灌漑用水池傍らに 地蔵堂跡の石碑が立つ。溜め池造成工事に因るものか・お堂が移され所在は知らないが城の西方に在り辻堂として要地にあったものか。
地蔵堂跡:南山田城西方

来世を弥陀の浄土へと沈む夕陽を見ながら極楽往生を願う「日相観」(西方浄土に生まれるための行業)を修める場所として、此の位置にお堂が建てられていたものか?。不図そんな事を思いながら県道81号に合流し、 再び県道117号に入って南下・豊富町の城山を目指した。
(現地:南山田城跡 姫路市教育委員会・同文化財保護協会 H18年8月を参照)


太尾城
 城山(太尾山 133m)  姫路市(神南区)豊富町太尾

加西市北条から県道117号で山下町を抜け県道81号を西走し西山田で左折し再び県道117号を南下し、前方に延び出す豊富町の低丘陵先端に向かって山裾を走り、地区道との分岐点を左折する。 左手(東側)丘陵の南先端ピーク付近に太尾城が在りました。
播但連絡道路:県道218号から望む太尾城

駐車スペースを探しながら狭い地区道の集落外周を抜け出ると正面は田圃の中の一直線の道には生野峠を播磨側に下った 市郡境の福崎町でも良く見かける銀の馬車道の幟が太尾キャンプ場への案内板先・大歳神社への分岐?付近に立つ。明治9年に開通した生野鉱山(銀山)から飾磨港迄の49kmを繋ぐ馬車専用道路は日本初の高速産業道路は播但線開通により役目を終え、 全線の大部分は国道・県道として消え、僅か部分的に遺る往時の道路を歴史の道
太尾北口の石道標(天保3年建立)

”銀の馬車道”と呼び神崎郡から姫路市へ南北交流のシンボルにと観光化も兼ね広域走査されています。後で知ったが山上の城山稲荷から南へ降ると地蔵寺へ、途中の分岐点を西下へ下ると太尾城主一族を祀る祖霊社(太尾神社)と 墓所跡と思われる一箇所に五輪塔や宝筺印塔の残欠が集められ祀ってある所に降り立つ。キャンプ場へ向かう狭い分岐のすぐ先にある 地蔵寺からなら付近に駐車スペースも確保出来る様だが勝手わからず・路駐ままならない為、
太尾城主一族を祀る祖霊社

一端西に抜け出て播但連絡道の高架側・甲池交差点を播但道路高架沿いに北走して迂回する。低く細長く延びる丘陵上の太尾城だが西方からは富士型・城山の美しい山容を見せています。県道218号太尾西の交差点で再度県道117号線に戻っての再挑戦。218号線が平田川に架かる馬橋を渡り117号線は直進。馬橋が銀の馬車道に関するものか・太尾城下の関係を示すかは 知らないが天保3年 (1832)服部某建立の石道標が立つ。
太尾城山稲荷社

「北たじま (但馬街道・生野街道)・志そう<宍粟市 >:南ごちゃく(御着の御着城は後藤又兵衛が仕えた小寺氏・黒田氏の城がある)・西:ひめじ・ひろみね(広峯)・東:たんば・ほうでう(北条市から 丹波市方面(第26番札所法 華山一乗寺)への北条街道・丹波街道」比高80m程なので県道117号から直接・猪鹿除けフエンスを越えて踏跡も無い斜面は徐々に背の高い羊歯類の下草に覆われ、露岩も有るが尾根筋に出ても藪漕ぎを強いられる。
太尾祖霊社の五輪塔群

藪中に竪堀かと思える溝をみた直ぐ前方に高低差 (現状)4-5m程の堀切があり尾根を遮断して 城域を確保している。此処から城域西先端部の城山稲荷まで、緩やかに長く延びる尾根上には、段差の少ない平坦地形 (曲輪)を幾段か連ね、途中には埋もれかけてた 浅い掘切が主郭部と南郭部の郭域を二分している。
太尾城:城域東端の堀切 (東斜面下に竪堀?も)

雑木で 展望は余り優れなかったが北方に北条街道や、尾根末端部の稲荷社まで来ると・此処から降る参道からは 市川中流域沿いの南北・播但連絡道路や但馬街道の眺望が拡がります。太尾城は「赤松家播備作城記」に文明元年(1469)後藤伊勢守基信が居城し、以後:弾正忠尚基・弾正忠純基・与二郎基次 ・新左衛門尉入道浄基と続き、三木城主別所氏に与して落城したと伝えます。
太尾城主郭東端の堀切

文明元年は 赤松政則が播磨国を回復して置塩城を本拠地として移り後藤基信は春日山城(神崎郡福崎町八千種 )を築いて後藤氏の本拠と定めていますが、赤松家家臣団として大きな勢力を持っていたとしても!!同時期に姫路市豊富町に太尾城をも築くが ?此処を居城としたとは思えません?。太尾城は神崎郡神河町に在る大山城(太尾山城)487mの築城主が赤松氏麾下の太尾兵庫頭輿次ですが、太尾城として混同されているものか?。
主郭〜南郭の平坦尾根に低段差の曲輪が続く

此の地も在地豪族:後藤氏の勢力下にあり文明年間?の築城はともかく 「播磨鑑」に云う赤松家の幕下太尾兵庫頭輿次(もとつぐ)が豊富町の太尾城に入り、以後数代を経て城史不詳ですが、天正年間の織田信長 「播磨平定」時に羽柴秀吉軍の侵攻に落城したものでしょう。 多くの五輪塔が集められ祀られている一画が有りますが、
平坦尾根筋に主郭〜南郭区分の?浅い堀切!!?

城での合戦記録は無さそうで 太尾氏が三木合戦の際に三木城籠城に参軍したか、赤松氏最後の本拠城・置塩城に篭って討死・落城の憂き目にあったかも不明。なを輿次の妻は妻鹿城 (飾磨区妻鹿町的形)の 妻鹿孫三郎長宗の娘と云うが南北朝期:元弘3年(1333)築城時と同名城主が 室町時代末期にも居たか 家系図等詳細は未確認。
南郭(稲荷社上)に僅か土塁らしい盛り上がり部を見る!!?

太尾城主が後藤氏か太尾氏なのかは文献 ・資料により異なる。城山稲荷社への参道(城山尾根筋西麓)には太尾城主第十八代後裔:金井元雄氏<元兵庫県知事・国務大臣等を歴任されている>が大正12年(1923先祖:)太尾城主や一族の遺徳を偲び建立された太尾祖霊社が祀られます。
(現地:祖霊社案内板 兵庫県の中世城館・荘園遺跡 Wikipediaを参照)


庄山城(豊国城)
  城山 194m   姫路市飾東町豊国・庄

太尾城を後に豊富町から 県道373号を走り、 姫路セントラルパークを右手に見ながら飾東町山崎でR372に出ると丘陵南斜面に累々と露岩を積む荒涼とした岩山を観る。地図上で場所を探すには 山陽自動車道の山陽姫路東ICで播但連絡道路のジャンクションを見下ろす城山(4等三角点194m 点名:豊国)が姫路市の代表的山城で中世山城遺構の石垣 ・土塁・堀切や
庄山城南出郭:境界標と登頂記念ケルン (上中程)

井戸跡を残す庄山城
(豊国城)は地名・山名から付けられたものか?、一時期山名氏の持ち城ともなったが 山名豊国!!?では時代が違うか?)です。≪始めての登城で石積みは見かけたが石垣・堀切・土塁の顕著な遺構を 見い出せなかった!!?≫。目指す城山(庄山城)に向かって山陽自動車道高架を潜って直ぐの分岐を丘陵裾への右手バス道に入ると、城山中学校への入口(坂道下)に古図付きの城址案内板が立つ。
城山中学校と城山(庄山城南出郭)

取付き点を探しながら豊国南でR373号の出てしまい、行き過ぎた様で豊国西口分岐で北に向かい少し引返し気味に 谷外小学校前を通過。地図上では天満宮 ・小学校・大歳神社付近からの取付きを思いながらも、狭過ぎる地区内の道に駐車スペースは無さそう。 また先程走った道に戻ってきたが、城山からの南尾根先端部が車道側に落ち込む付近に藪だが二ヶ所程侵入口が有りそう。
庄山城:東西尾根上から山陽姫路東ICを足下に眺める

中学校前を更に奥に進むと新興住宅地・その入口にバスストップとグラウンドが有る。グラウンドのフエンス側に車を寄せて南尾根先の取付き点【小学校からの幅狭い道から 一般道に出てきた角(ラッキー工芸社の向かい)】に引返してスタートする。繁茂して進行ままならに羊歯類やササの山道は、脇に残る枯れ草からも 夏頃下刈されている様で歩き易い。岩稜帯に入ると一気に南後方に播磨平野の展望が拡がり仁寿山〜麻生山(播磨の小富士山) の低山塊が播磨灘を背景に浮かぶ。
城山(庄山城西出郭)の三角点標石

2段ほどの小曲輪上の東出曲輪 (ケルンが積まれ展望の良い城山東峰山頂)に着く。山城の東郭(大きく平らな一枚岩が自然の曲輪となっている南端から中学校側へ下降する道<虎口か?石段・石積み痕跡が遺る >)を降り立つと車のデポ地点・バス停前だった。 急斜面の箇所にはフイックス・ローブも設置されている登山道。城山中学校西南の山頂の南曲輪から東端曲輪・西へ伸びる尾根西端の曲輪・東郭から 西郭の中程から南への細長い尾根筋にも曲輪が並ぶ。
西出郭より東西尾根と主郭(東郭)・南出郭(右端ピーク)

古地図に見る大手道は谷外小学校背後から此の南尾根(踏み跡明確で良く利用されている様だ!?)と東尾根との谷筋を辿り、東郭付近の尾根に至る様です。発見出来なかった石垣は此の大手道の備えを堅固にしたものか?。 急斜面や長い尾根筋はこの時期(2月)でも藪っぽく雑木・下草で再挑戦も心許無い。東西500mにわたって連続する稜線上の主郭部を中心として 左右に張り出す尾根と南へ延び出す枝尾根の三方尾根に曲輪群を配して形成された縄張りです。
庄山城主郭部の天然(一枚岩)の曲輪段

南尾根分岐から西への主尾根筋から西端ピーク(194m点名:豊国の4等三角点峰・西出曲輪)へは殆んど城遺構を見ないが尾根筋からの眺望は素晴らしく、北山裾に山陽姫路東ジャンクションが有り、東西に山陽自動車道が トンネルを抜けて西へ、北へ向かう播但連絡道路を足元に見る。西出曲輪からも市川を挟む播磨平野と高御位山(播磨富士 )〜桶居山の山塊を懐かしく望む。この地は山陽道(西国街道)筋から有馬街道、市川に沿っての但馬街道・第27番:書写山円教寺から第26番 :法華山一乗寺・第25番:御嶽山清水寺へと西国観音霊場を結ぶ巡礼道・丹波街道へ通じる要衝にあり、山は天険の要害に立地する。
主郭(東曲輪部)東斜面石積み<石段と石垣虎口か?>

正慶2年(元弘3年1333)播磨守護職:赤松則村(円心)が姫山(姫路城)に砦を築き貞和2年 (正平元年 1346)赤松貞範(則村の二男)が改築しているが、天険の地を選ぶ南北朝期に比高46mの小丘を選んだ事は、後世に発達した平山城の初期形体として注目されるという。貞範は貞和5年(1349)姫路城の東方4.5km地点に 庄山城を築いて移り、姫山の砦には小寺頼季が城代として入って以降・小寺氏が姫路城を世襲します。庄山城在城20数年:応安3年 (建徳元年 1370)貞範が没すると嫡男顕則が篠丸城(<熊見城>宍粟郡山崎)から移るが2年後には没し顕則の二子・則貞が城主となる。
主郭(東曲輪部)東斜面から山陽自動車道と城山中学校

その後:則貞は八重鉾山城(麻生山)へ移り、領主となった則貞の甥:貞村の家臣八杉藤五郎が留守将に入り支配した。 嘉吉元年(1441)赤松満祐が足利6代将軍:義教を謀殺した嘉吉の乱に赤松氏が没落すると赤松氏に代わり播磨守護となった山名持豊(宗全)の家臣原伊四郎が在城し姫路城には太田垣主殿佐が城代として入った。 赤松浪人が南朝に討ち入り神璽を奪い返した(南帝塚を参照下さい)長禄の挙(1458)に将軍義政に許され文明元年(1469)赤松政則が赤松家を再興すると山名氏に代わり庄山城には小寺康職が入り祐職(すけつね)・福職と二代を経て亨禄2年(1529)御着城より小寺政隆が移ったが 翌:亨禄3年庄山城は備前三石城主浦上村宗に攻められ政隆は討死し、
主郭:南面の広い段曲輪

其の子則職が亨禄4年摂津木津での合戦に村宗を討ち御着城に戻ると家臣長浜長秋を庄山城に入れ、三木合戦には 三木城主別所長治に味方します。永禄年間(1558-70)には別所重棟が領しており、 城山中学校下の城址案内古図〈文化9年>は別所氏居城の頃の縄張りの様です。天正8年(1580)三木城の開城で庄山城には黒田孝高の孫長興が入り、長興が 船上城(明石市)に移ると元和元年(1615)には信濃松本城から移った小笠原忠真が支配するが元和3年(1617)明石城に移り廃城になったとされます。
南出郭から望む播磨平野(仁寿山〜麻生山)を望む

南北朝期:赤松貞範の築城以来・江戸時代初期に至る260余年・次々と城主を変え、数々の合戦を交えた城史を有しながら、 雑木藪の中に縄張遺構の全容確認は容易でない。広範囲の尾根筋・谷筋に展開される壮大な城址は地元地区にとっても貴重な文化財:埋もれ忘れ去られる存在にはしたくないものです。
(現地 :城址説明板 兵庫県の中世城館 ・荘園遺跡 Wikipedia を参照)


田野城(田野山城・今部城・田能城・田能山城 )
 田野山? 220m 姫路市香寺町田野字東城山

太尾城を後にして豊富町からは市川に架かる仁豊野橋を渡り R312号を北上し須加院交差点を左折し播但線踏切りを渡り須加院河沿いに走る。須加院構居<赤松氏の幕下:須加院隼人 >跡所在が判らず通り過ぎたらしい?が常福寺案内板を見て右折・寺前の道を須加院から田野へ向かう。
田野城東南尾根先の長い平坦尾根から東峰

「犬飼交差点」西約1.5kmの香寺台団地も目標に。県道80号・県道409号に繋がる 田野から南の須加院へ山越え道がある。急坂となる手前のコーナー部に溜め池が有り其の畔に僅かな駐車スペース(2台程 ・車道との段差に注意)が在る。此処に城址案内板があり、池沿いに二つの池側を抜ける谷筋からは途中左手の西尾根に向かうと水道配水施設上の東尾根先に出る。
登山口から東南尾根に至る途中の石門?

水道施設は城址案内板の有る登山口前の車道を 伽耶院へ抜ける峠にあり、施設内を抜けられれば・此の上無き楽な工程だが厳重なフエンスを巻いても行けそうにない。此の東尾根筋は幅狭いが平坦で長く、 途中で登山道と合流するが尾根側に一段高い曲輪状が在り、大手門や大手筋の番小屋跡を想像する。
田野城東南尾根:東出曲輪か?(登山道下降点付近)

城址案内板の登山口から続く大手筋?は車でも行けるかと思える程に広い山道が東尾根に出て無線中継施設が立つ東峰側山頂まで延びている。地区自治会等により整備された ハイキング道?は途中:急斜な山腹に付けられた山道の谷側に石門とも思える大石が有る。更に細長く平坦な尾根筋に出ると、 深い谷向こうに樹林のスリットを通して田野城東峰がジャンダルムの様に黒い影を見せて立ちはだかる。登城口の案内板に西方500mの城山とあるのは此の東峰か?。
東峰郭へ向かう平坦地形(東曲輪)

此の尾根筋からさえ300m以上はありそうで、それだけに相当の急斜面の登りは覚悟です。谷筋上部の尾根を廻り込むと途端に登山道だが10数mの急斜面の登り。その先尾根筋は幅狭いが平坦地形は東曲輪か!!?藪の覆われ確認できないが、堀切等は発見されていない?田野城ながら南面に片堀切(竪堀)が落ちている様だ。
東峰切岸下部(東曲輪)土橋状?と左側に片堀切?

幅狭く細い通路が土橋状に見えてくる。此処を過ぎると直ぐ堀底状の 通路を抜け此処も急傾斜を登り、雑木が伐採され展望が拡がる東峰郭(無線中継アンテナ施設がある)に着く。西北尾根筋を除く三方に切岸を落しているが、 東郭(約30x10m)内に曲輪を区分する段差等は不明。東峰からはそのまま斜面を狭くしかも露岩の鞍部(左右も激急斜面で落ち込んでいる)へ降り、其の斜面上に位置する主郭部の西峰(標高220m)へと縄張りは
東峰郭と切岸東面(登山道側)

東西二峰の山頂部・二郭で構成されているが、此の鞍部にも東西尾根上にも堀切は無さそうです。 片堀切・竪堀状と思える溝状も明確な城遺構が乏しい為の思い込みかも!!?。城域最奥に位置して西北への尾根続きは危険な程の激急斜面 ・詰め城なら北尾根筋にも数段の小曲輪跡らしい平坦地形のある北峰最高ピークを主郭・東から西方へ眺望が拡がる東峰ピークを東郭あるいは 二ノ丸と考えますが東郭・西郭に守られた中央部の表面地形の荒れた東峰を主郭と考える のかはよく知らない。
西北峰(主郭?)西端切岸

「播磨鑑」には東西20間・南北5間、西ノ丸(主郭?)は東西23間・南北6間と記される。築城年代は 不詳ですが14世紀初め ・赤松(円心 )則村の 幕下であった当地(南条郷)の土豪で赤松家八十八旗の一:堀氏の先祖は菅原道真の末裔で相模国堀越庄地頭で、 建武の動乱(後醍醐天皇の時!!南北朝に分立した)時に
西峰から鞍部を挟み東峰を望む

播磨国神西郡(神崎郡市川町 ・福崎町・神河町や姫路市香寺町一帯!!?)に来住し、赤松氏の幕下となっていた5代堀常光が南条郷(現:香寺町田野)に今部城(田野城)を築き居城したとされます。播磨・備前・美作三国の守護:赤松氏は満祐が「嘉吉の乱」に滅亡し、政則により再興:後期赤松氏の本拠となった 置塩城の東を守備する支城群の一つとなったものか?。
東峰から鞍部を挟み西峰(主郭?)への幅狭い尾根筋を望む

城主は赤松氏家臣堀兵庫頭満秀で、赤松氏衰退後は小寺氏に属した様で天正5年 (1577)2月満秀の嫡男出雲守(和泉守)満則が城主の時:三木城主別所長治に呼応して織田信長に叛くと小寺氏に従っている。羽柴秀吉の中国征伐(の際・先に但馬平定や播磨攻略があった・三木合戦も中国攻めの軍議決裂が起因)によって 秀吉軍に攻略され香寺町内の須加院構居
新五郎の碑(堀満則の供養塚か?)

・恒屋城 <恒屋伊賀守光氏>や中村 構居…矢田部城 <大坪越前守祐重>も共に落城しました。落城後:満則はした。落城後:満則は清瀬氏と改姓して大庄屋を務めます。須加院村(香寺町須加院 )が神東郡の四ヶ村との山争いの際・救援を求められ尽力するが、其の真下 (さなか)流れ矢に当たり死亡したという。
東尾根から東峰へは数10mの急斜面と長い平坦地形を抜ける

城址の東方:田野地区内の清亮山法琳寺は堀氏の居館跡という。田野の県道409号線傍らに新五郎の碑が建つ。清瀬新五郎は天正年間(1573-92)の郷士:説明内容からは今部城(田野城 )を築いた城主一族で、清瀬氏と改姓し帰農して大庄屋となった堀満則と符合する。新五郎の塚が何時しか其の存在さえ失われていくのを嘆き、昭和9年相坂の駒田某が独力で建立したものと云う。嘗て此処の其の塚が在ったものか!!?。

(田野城登山口の城址説明<昭和61年3月> ・新五郎の碑<平成22年3月>姫路市教育委員会を参照)


恒屋城(高岡城・中嶋城)
常居山・松原山(後城・主郭)236m 前城(Ca200m) 姫路市香寺町恒屋溝口・字城山

R312号沿いに北上してJR播但線溝口駅で県道410号を県道409号に出て恒屋川沿いを走り旧香寺町立休養センタ・香寺荘:香寺温泉「竹取の湯 」を目指すのがわかり易い。恒屋川を挟んで香寺荘の東向かいの低山・常居山の丘陵上に位置して中世山城の恒屋城が在り北の最高所236m頂部に主郭(後城)を置き、尾根続き南先端ピーク199mに前城が築かれています。
北恒屋公民館側から恒屋城(前城の展望台)を望む

恒屋城は恒屋地区に入れば東屋展望台(実は前城に有る”お堂”)や、 その北方には梯郭式に曲輪を積む 後城の恒屋城が目に飛び込んでくる。県道沿いに恒屋城登山口を示す案内標識は何ヶ所かある。駐車場所を JAにと思っていたが車道脇に北垣屋公民館の駐車スペース(駐車場?)があった。
恒屋城(前城)お堂前の畝状竪掘(3-4条)

其の側を右折し集落内・最初の車道分岐を左折。恒屋城への標示に従い民家塀沿いに進むと祐光寺裏手を抜けた民家の側から山道に入る登山口に町指定 (香寺町は姫路市に編入され城の規模も遺構の残存状況も良く、姫路市内唯一と云われる畝状竪堀群が見られ、市指定となっている)史跡の城址説明板が立つ。雑木藪が切り開かれた様な道だが・よく踏み込まれた登山道は歩きやすい。
恒屋城(前城)お堂背後の横堀

地元自治会や城址顕彰会により整備されている様で、コース案内標識や遺構前には 説明板も立てられてる。中高年の単独や夫婦連れの登山者を何組みも見掛ける。城址遺構に関心を示す人は少ないが、短時間登山で眺望が楽しめるだけにハイカーは多い。 展望皆無の登山道から突然前城のお堂の前に出る手前右手の藪の中に竪堀が有り、お堂背後の空堀にそのまま繋がる。
お堂背後の五輪塔群

樹木・下草まで伐採され・切開かれて南面山麓の北恒屋登山口を見下ろす。堂の前には三条ばかり竪堀が南正面に落ちる。 お堂背後の切岸下には空堀があり、上部の犬走り状の棚(後世に削平されたっものか?)に沿って25-30基ばかりの五輪塔が並ぶ。その上部の荒れた下草藪中隠された前城の主曲輪が有るが、
恒屋城の前城と後城を区分する土塁曲輪(二ノ丸堀切から)

登山道は此の主曲輪西面下を巻いて尾根続きを北に抜ける。 登山道の西斜面には15-18条程が連続する畝状竪堀群が隠されているが、道路肩から落ちる竪堀群が見られる筈なのに、傾斜面の落口には伐採された廃木が 堆く積まれ斜面上部に突き出して覆っており踏み込めない。案内標識は立つが此処は諦めて先へ進む。前城からは長い平坦地形が延び中央部分東寄りに幅広い低土塁が約50m程・真直ぐ延びて、
二ノ丸切岸沿いに堀切から横掘を繋ぐ(突出す曲輪端は横矢掛)

後城の二の丸南端まで続き此処に堀切がある。 堀切は高い二ノ丸切岸下に沿って横堀となって、二ノ丸北西角の虎口に至る。ニノ丸南西端は堀切から横堀へと廻り込むコーナー部が屈曲して堀切側 ・横堀側に突出した曲輪からは”横矢掛り”の構造になっています。横堀は二ノ丸西北端まで延び、斜上して二ノ丸・本丸へ向かう虎口も二ノ丸側から横矢が掛る折れがある。
長い土塁曲輪端:二ノ丸を堀切・横掘が西面を囲う

後城本丸への 尾根筋西側には空堀が侵入を押さえ、通路は此の虎口だけ。虎口から広い二ノ丸に入ると、北東端に竪堀が、南端の大土塁上からは堀切から横堀へ 空堀を見下ろし”横矢掛け”が可能。前城へ真直ぐ延びる長い曲輪と直線の土塁道も 二ノ丸から侵攻してくる敵に対して狙い易い。案内標識に前城・後城とあるその区分がこの土塁を中央にする長い曲輪なのでしょうは、尾根上に途絶えることなく連続する城砦遺構を一城別郭として分ける必要も無さそうです。
二ノ丸横掘から後城本丸を望む

北への尾根筋右手に大土塁と空堀を二つ観る。最初は堀切。続く空堀は天水受けの池跡か 「水の手」で空堀ともなる。此の上方へと広い段曲輪が主郭(本ノ丸)南面 三方を帯曲輪状に包み込む。尾根上には二ヶ所程・土塁虎口が開く。 東面斜面にも4-5条の大きな畝状竪掘群があり、本ノ丸東下の帯び曲輪からは東山裾まで落ちると思える程長大な竪堀が落ちる。
二ノ丸の堀切・横掘沿いに後城(本丸)に向かう

主要な防禦施設は西方斜面からの侵入に対して施されているようで、後城二ノ丸虎口上の空堀から西方には南斜面(後城南最下段)からも一帯に畝状竪堀群が落ちる。 西面曲輪端に中村構を指す案内板が有る。此処からは山麓に恒屋川・県道409号線を挟んでグランドゴルフ場・香寺荘(恒屋城関連遺跡 ・恒屋城居館)が俯瞰できるが、北隣りの小さな丘陵部分が中村構で共に恒屋城主や家老の居館跡。
二ノ丸横掘端から堀切前を斜上する虎口・正面奥に本丸

大手登城口は 此処から恒屋川を渡り西斜面に取付くルートがあったのでしょうか?。足元に丸瓦等の瓦片を数個見る。発掘調査され採取された瓦片からは羽柴秀吉・池田輝政が姫路城に居た時期頃まで使われていた可能性が推察されています。 瓦葺きの建物が存在していたことも珍しく恒屋氏の勢力が大きかったと思えますが直線距離で西方約4kmには赤松氏の本拠置塩城が在る。
二ノ丸の横堀と土塁線

赤松家家臣として室町時代:嘉吉の乱(1441)には恒屋刑部少輔光稿の嫡男光氏の父が赤松満祐に呼応して坂本城(姫路市書写)に参集しており、既に城が存在していたと推測されていますが、 幕府と山名氏の討伐軍に攻められ赤松氏勢力は衰退。【播磨鑑には赤松遺臣が吉野朝に討入神璽を奪還した長録2年(1458)という】 其の後赤松氏は再興し置塩城を本拠とします。恒屋城も嘉吉年間(1441-44)頃には築かれていたか録年間(1457-60)頃には築城されていたと思われます。
二ノ丸北東角の竪堀

永正18年(1521)赤松氏守護代:浦上村宗が此処に陣を構えて赤松政村!?や山名氏と争そう経緯は知らないが恒屋氏は浦上氏に付いた様で天正3年(1575)城主:垣屋肥前守 (伊賀守!?)光氏が 置塩城赤松義祐(播磨鑑には則房)を夜襲しているが返って赤松方:白国構の白国治太夫宗把に阻止され討死した。…がその後も恒屋城は一族が居城していたらしく、後に正友が家督を継いだものと思われます。
後城の段曲輪から本丸への虎口

恒屋城の最後の城主恒屋与左衛門正友は宍粟郡 長水城宇野下総守政頼の五男として生れ 恒屋伊賀守光氏の養子になった人物だという。 恒屋城は塩田温泉を香寺町中村へ侵攻してくる等・西方の置塩城を意識して防備体制を整えているようで、前城・後城共に西面に畝状竪堀 ・城域中間帯もニノ丸西面に 切岸を立て横堀で防禦している。後城の最高所(本ノ丸)は立木が伐採され360度の展望が拡がり、北方遥・尖峰を見せる 明神山七種山が望まれる。
水の手:天水受け池は堀切ともなる

貯蔵穴かと思える円状の穴は盗掘跡と云う。 城史不詳だが大規模城郭だけに恒屋氏の隠し財宝伝説でも残っているのだろうか?。恒屋城は城史詳細は不明 ・築城年代にも諸説ある様ですが、織田信長命による播磨・但馬の平定・中国毛利輝元攻略を画策する羽柴秀吉の大軍が天正4年(1576)播磨の国へ侵攻してきた。置塩城主赤松則房は事前に秀吉に通じており開城した。
後城主郭(本丸虎口)を望む

しかし 春日山城(神崎郡福崎町鍛冶屋)の後藤伊勢守基信を盟主として、 川島城(市川町川辺)には大野七郎左衛門・岩村六郎左衛門が、恒屋城には恒屋伊賀守光氏、高峰城(福崎町大貫)には伊豆藤四郎、田野城香寺町田野)の堀和泉守、矢田部城(香寺町矢田部)に大坪越前守祐重や 其の他郡中の各領主が連盟を組んで、 羽柴秀吉群の侵攻に対し共同戦線を張って戦備を整えていた。しかし翌:天正5年(1577)押寄せる秀吉の大軍により田野城・矢田部・恒屋城と次々落城していった。
最高所:本丸より南虎口

恒屋城には焼き討ちされたとされる確証は無く、無血開城したものとも推察されます。天正8年(1580)5月:恒屋正友は播磨平定の羽柴秀吉に最後まで抵抗していた実父宇野正賴と共に長水城に籠城して蜂須賀小六・黒田官兵衛・木戸平太夫等一万余の軍勢と戦った。 長水城落城後は秀吉に許され恒屋に戻っている!!?。
後城主郭南面の空堀

播磨平定後の恒屋氏動向は不詳ですが、 播磨の将兵を敵味方なく仕官を許した黒田孝高(官兵衛)に恒屋氏一族も仕えて慶長5年(1600)黒田長政に従って筑前に下り、文禄の役・朝鮮出兵(1592)には南山田城主 だった後藤又兵衛基次等と出陣して、功あり秀吉から感状を受けているが禄高は僅か500-300石程だった様。
(恒屋城登山口の城址説明 姫路市教育委員会 /兵庫県の中世城館・荘園遺跡を参照)


(恒屋城居館と中村構居(恒屋構)

恒屋城関連遺跡(恒屋城居館)
   Ca110m  香寺町恒屋字阿原谷
中村構居(花村将監屋敷・恒屋構)  Ca105m 香寺町中村字構

恒屋城後城からは 西側の山麓・恒屋川と県道409号線を挟んで近世城郭風の白亜の建物が姫路市立休養センター香寺荘・竹取の湯で、此処が恒屋城関連遺跡(恒屋城居館)とされ、通称お屋敷と呼ばれた恒屋城主の居館跡。
恒屋城:後城から望む恒屋城居館(中央)と中村構居(右)

北西隣り(約100m程)の小さな丘陵部が 中村構居で二つの構居跡が俯瞰できます。共に堀を廻らせた恒屋城主と家老の居館跡。恒屋城への大手登城口は此処から恒屋川を渡り 西斜面に付けられていたものか。 香寺荘敷地内の恒屋城関連遺跡(恒屋城居館)は施設建設拡張工事により、
恒屋城居館のあった香寺荘

曲輪内の遺構等は壊滅しているようですが、工事に先立つ発掘調査により尾根続きには大堀切があったと云う。建物北(中村構居)側の従業員等通用路?に2m程の土塁状を見るが、 高い切岸上の為・造成工事の削り残しなのか不明だが兵庫県遺跡分布図に恒屋城関連遺跡との名称で、既に恒屋氏居館としての 残存遺構は壊滅ではなく消滅しているのかも知れないと思いつゝ不審者に対する怪訝な目を背後に感じて退散。
中村構居:主曲輪?と曲輪を分ける横堀?<推定>

城史等詳細も一切が不明なのかも…?。西の丘陵から流れ出る三本の舌状低丘陵の南側はグランドボール場に造成され、中央部が香寺荘・其の北西隣りの谷間(段々畑だったか?) を隔てた低丘陵尾根先が永禄年間 (1558-70)頃に居城した恒屋城主: 伊賀守光氏?<光氏の没年は慶長5年(1603)と云い父の刑部少輔光稿?>の家老 花村将監の館(中村構居)で通称姫屋敷とも呼ばれます。中村集落の奥から中村構居東末端を縫って香寺荘の東先端へ深い谷が流れている。
恒中村構居:東末端部の曲輪

香寺荘の建つ丘陵は切岸を立てる南北も溝谷が囲むように流れているが、 中村構居も南側は香寺荘間の谷間の田畑や北側も民家間の田圃と2-3段並ぶ曲輪の西尾根背後も香寺荘の 恒屋城居館同様に堀切って切岸下周囲には堀切を廻らしていた様です。
恒屋城居館(手前)と中村構居が天然の濠 ・溝谷に先端を落とす

個人所有地の為:溝谷を渡って行くには抵抗感が有り、谷を隔てての観察に終わったが、北西端部には白壁塀に囲まれた墓地 (個人墓か?)が有り、地区内奥から行ける様なので許可を得て再訪したいが、墓地が土塁囲みで櫓台も遺る主郭なのかも?。墓地への参道が分ける東側丘陵との間には横堀が存在するのかも?。

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