「世界文化遺産 白鷺の城       姫路城
姫路市  (五万図=姫路) 
近畿の山城: 姫路城 2008年04月27日

JR姫路駅から北に向って真直ぐ延びる大手前通りを約1km。市の中心部に位置する低丘陵、 標高も城(46)mの姫山に華麗:荘厳な衣装をまとった姿を空に浮かべて威容を誇る日本一の名城
説明不要:ご存知・姫路城

:姫路城を羨望しつつ姫路城大手門の内濠前に着く。伝統的建造物群保存地区に選定されている民家 ・商家の卯建(ウダツ)に見られるように木造建造物にとって重要な防火性の補強材が「漆喰」です。
天守より菱の門(城内最大)・三国濠


軒も柱も白漆喰で塗り固められ・白壁が浮き上がり、眩いばかりに輝く美しさは別名:白鷺(はくろ)城と呼ばれる 日本最大の白亜の要塞です。其の複雑な要塞としての城郭建築の防備 ・攻撃の構造が・意識しないまでも外観形態と合いまって美的完成度を高めています。国宝の大天守・小天守を中心として各所の櫓・門・土塀には装飾美をも兼ね備えて、
三ノ丸からの姫路城

防御には門や櫓窓に設けられる狭間や石落とし・土塀にも○△□の鉄砲狭間 ・矢狭間等が工夫される建築物や、石垣・濠・土塁等の土木築造物が良好に保存され、 建築美と其の縄張りの壮大なスケールを惜しげもなく見せつけてくれます。現状にみる姫路城は中世末の天正8年 (1580)羽柴秀吉が入って築城翌9年に完成し、関ヶ原合戦後の慶長5年 (1600)徳川家康が 池田輝政を入れて西国の警護と大改修が加えられ、慶長14年(1609)5層 (内部6階・地下1階)の大天守と三つの小天守を結んで連立式の城が完成、其の後本田忠政等歴代城主による改修・整備されてきた遺構を残す近世の城。
先ずは菱の門を潜る

元和元年(1615)江戸幕府による一国一城令により廃城され残された近世の城も、 明治維新に取壊されたり、第二次世界大戦による戦災で消失しています。加藤清正・藤堂高虎の 普請による日本3名城の熊本城・大坂城・名古屋城も例外ではありませんでした。江戸時代に消失していた大坂城を外し姫路城に替えての三名城説もあります。
本ノ丸より大天守と西小天守

姫路城だけは築城後も戦いの場となることが無かった「不戦・不落の城」は、 明治維新による廃藩置県に取壊されることも無く、明治6年(1873)の廃城令の後では競売に付されが解体費用が嵩み過ぎ、そのまま残されたようです。ところが翌明治7年には陸軍の歩兵第十連隊が設置され、その際:三の丸を主に建物が取壊されと思われます(解体して移築された建造物が少ない?) <行く方知れずの備前丸(三重櫓だったと云い、
城内唯一:三層「ぬの門」

神戸市某所に移築されたとも云われるが神戸空襲で焼失したともいう)も其の一つ!!。昭和20年(1945)7月の姫路大空襲においても 城内にあった中学校校舎は焼失したが、西の丸や大天守に着弾した焼夷弾は不発だった為に 無事だったとの神戸新聞記事を見た。此の様に幾多の危機をも乗越えて、奇跡的に消失を免れ往時の姿を留める「不戦の城」は…、
天守の懸魚の窓を通しての市街地


昭和6年(1931)天守閣が国宝指定(旧国宝:重文指定相当…)を受けたが、 豪雨で櫓が石垣ともに崩壊したのを契機として昭和9年(1934)より昭和の大修理が始められます。此の保存事業に際しては全ての建物は一度解体して 土木・建材の成分や材質を科学的に検査して後、部材を修復して再度組み立て直す方法がとられ、 修理前と変わらない復元で維持され、 仕上げについても伝統的な技法を受け継いだ職人の手により、昔ながらの手法で仕上げる努力が図られて、創建時以来の状態がよく引き継がれています。
はの門から大天守!!

第二次世界大戦の戦局悪化で 一時中断されていたが、昭和25年(1950)再開され昭和26年に新国宝指定を受け、 国費による解体修理が着工され最後の天守閣修理を終え昭和39年(1964)竣工しています。これ等建築物の殆どが貴重な文化遺産として国宝や重要文化財の指定を受け、名実ともに日本一の名城とされ…、
姫山公園(北側)から望む姫路城天守

平成5年(1993)
には ユネスコの世界文化遺産に登録されたが建造物の劣化が進み、瓦の葺き替えや耐震補強にも留意した平成の大修理が平成21年度から5ヶ年計画で始められます。天守が見られなくなるのは残念ですが、 工事期間中は見学用のエレベータが設置され修理作業が見られるという。城郭建築の構造等が見学出来る・またと無いチャンスですね。



 姫路城


姫路城(白鷺城)    姫山(鷺山) 46m   姫路市本町

県下での中世の山城の代表は:石垣だけが残るが其の威容を霧に浮かべる天空の城 竹田城。2.6kmあったという惣構えの縄張りは、3重の濠に囲まれ(現在は内濠のみ)複雑巧妙な抵抗線(防御線)は、三ノ丸から本ノ丸へ渦巻状にグルグル廻って 辿り着く構造の螺旋式縄張りは、江戸城と姫路城だけにみるの形式です。
姫路城:連立式天守閣

創建時の姿を良く留め、軒や柱の木地を外に出さず・防火性を高める白漆喰総塗籠による外装は、 渡り櫓でつながる天守群(連立式天守閣)の櫓・門の全体構造と相まって「白鷺(はくろ)城」とも呼ばれる華やかで均斉のとれた美しい景観を生み出して、世界文化遺産として高い評価を受けている白亜の要塞 姫路城ですね。R2号線を横断して姫路城に向う殆どの観光客にとって、石垣の上に天守閣を乗せた姿が 水濠に移る姿が城のイメージの様で、埋められた中濠に残る濠・土塁・石垣門や、 登閣口の天守の庭の一角に展示してある天守を支えた旧西大柱に、目を向け・気をそそられる人は稀ですね!!。
るの門(内側からは穴門)

大手門(桜門)をくぐってイザ登城。三の丸広場の奥に天守・小天守から西ノ丸へ…城内最大に菱の門を潜ると 西の丸の化粧櫓が見えるが、順路は一方通行の場合は 「ろの門」を通れず二の丸から本ノ丸へ向う為、千姫に出会えるのは城見学のフイナーレ。観光姫路城としての見所や、国宝・世界遺産としての 文化財検知からの詳細な施設・設備・機能等の説明。
るの門(外側の三国濠側からは埋め門)


HPやブログからは・あらゆる角度から四季を問わずの画像の配信があり、今更ながら…の感ではありますが、姫路菓子博2008「平成20年4月18日〜5月11日開催」ついでの訪城レポート。 数有る見所の内、ほんの一部をメモ掲載…。菱の門の右手に四角い堀「三国濠」がある。 池田輝政が西国播磨・淡路・備前の三国を一族で支配する事に因んだ名と云う。三国濠の奥に「るの門」がある。二ノ丸に入る埋門だが内側からは、ぬの門 (城内唯一の三層の門)に向う正規の通路から外れた塀際から、石垣で囲まれた穴倉に入って行く様な感じ…。三国濠に出る抜け穴の様で「穴門」とも呼ばれます。
大天守と石棺を転用した備前門

腹切丸(帯郭櫓)の石垣は城内でも一番高い石垣といわれます。 石の穴門を潜り石段を降りていく先には出口の無い帯郭櫓が有り、櫓東面下は搦め手口「との四門」があり、 防備の要所にあたります。
腹切丸と帯郭櫓(城内で一番高い石垣)

其の建造内部の 石打棚(鉄砲狭間等を備えた射撃台)が検死役の席に見え・板の間が切腹の場・前には首洗い井戸・・・等切腹場としての舞台装置が整っている事から「腹切丸」と呼ばれていますが、神聖な城内でも 特に天守閣や城主:池田氏居館の備前丸が近くに有り、切腹が行われたとは考えられず、数奇屋風の建物と組み合わせた構造は、茶の席として使用されたとも云われます。

水一門を潜ると 秀吉時代の転用石が数多く用いられている乾小天守の石垣下・「姥が石」の伝説で知られる石臼も見られます。水一門と「ほの門」の間に衝立の様に張り出す土塀が此処にありますが、 城内の壁が殆ど白漆喰で塗り込められた壁に在っては、特異な此の壁にも注目したいものです。
水一門と油壁(壁沿い右下が「ほの門」)
腹切丸(帯郭櫓)の石打棚と狭間


油壁
と呼ばれ池田輝政の築城以前とみられ、黒田氏か秀吉築城時の中世城郭遺構です。 この「ほの門」内側にある油壁は粘土に豆砂利を混ぜ、モチ米のとぎ汁や御粥で練って、押し固めたものといわれ、水をはじき・鉄砲の弾をもはじき返す堅固な壁で、城内では此処1ヶ所だけに残されています。 十字紋の鬼瓦は「にの門櫓」西面側の軒唐破風屋根に乗っている鬼瓦で、 十字紋が彫られています。キリシタンの名残とも魔除とも云われますが、 国内の城では珍しい紋瓦です。 なお「にの門櫓」の南面と東面の鬼瓦には波しぶきが彫られており、 火除けを祈ったものとされます。豊臣秀吉も最初はキリスト教を認めていたが、天正15年(1587)に禁止令を出していますので、十字架を紋として使用できたのは禁止令以前のこととして、
十字紋の鬼瓦が残るのも姫路城だけ・・・!!

秀吉が姫路城を築城した際にこの鬼瓦を作り、のちに池田輝政が再使用したと考えられています。一時キリシタンの洗礼を受けた黒田孝高(官兵衛)ゆかりの十字架瓦なのでしょうか?。 二ノ丸から千姫うかりの西の丸に向かい、長い渡櫓(百間廊下)を通って化粧櫓へ。姫路城を後にして JR姫路駅へ引き返すのに大手前通りを避け、姫路城公園東端へ廻ってみる。 大手門と姫路駅との中程を東西に走るR2号線は、中濠を埋立てて通る道。今も門石垣・土塁・濠が残る。市民会館近くに 門石垣と土塁が残る「総社門跡西部石垣」案内板を見る。姫路城中曲輪の南部に設けられた5城門の一つ:総社門は、播磨国総社西門に至るところから付けられた名称。昭和59年と平成7年・2度にわたる 発掘調査で門跡西端部の鍵型に折れる石垣と、その下を潜り中堀へ排水する「暗渠」が検出されました。 総社門は市民会館南側で中堀(現在R2号)を土橋で渡り、 歩道付近で外門を入ると現存の高石垣にぶつかり、西折れして内門に入る「枡形」構造をしていた。
総社門石垣(断面保存)

また現在地付近には「御門番所」が置かれ、城内の出入りが監視されていました。 「総社門跡西部石垣」は平成7年発掘調査で検出された東西石垣の断面を原位置のまま保存されています。「積石」の奥行が長く、その裏込に栗石(川原石)がぎっしり詰められ、堅固な石垣を構成しています。 此の石垣は・本来東方へ約10数m延びて、内門南石垣に連なっていました。
(総社門 現地:平成9年12月・姫路市教育委員会案内板参照)
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● 姫路城の歴史


姫路城は鎌倉時代末期の元弘3年(1333)播磨の豪族:赤松(円心)則村が大塔宮 :護良親王(後醍醐天皇の第一皇子)の発給した北条氏討伐(反幕)の令旨に応じて苔縄城に挙兵し、 姫山に在った稱名寺を城郭化:砦を築いたのが始まり云われます。 正平元年(貞和2 1346)足利尊氏に従った 則村の次男の赤松貞範が築城したとされ、 正平4年(貞和5 1349)貞範が庄山城(姫路:飾東町)を築き移った後は、家臣:小寺氏頼季(よりすえ)以降小寺氏4代が守ったとされています?…、
(旧)西大柱
西の丸から望む天守


嘉吉の乱に 赤松氏が滅び播磨守護となった山名持豊の持城になります。 応仁の乱(1467)に山名勢を追出し播磨の旧領を回復して置塩城に入った赤松政則により再び小寺氏・豊職(とよもと)を姫路城に置き、 2代目小寺則職(のりもと)が天文14年(1545)重臣の黒田重隆に城を与えたとされます。 重隆⇒職隆父子【父子が御着城の出城としての築城を、主君に小寺政職に許されて天文22(1555)〜永禄4 (1561)年中に築いたとも…】から永禄10年(1557)黒田孝高(官兵衛・後に如水)に家督を 譲られます。孝高は織田信長に付き、播磨を征し四国・中国の毛利攻めへと、 西国攻めの総大将の羽柴秀吉に従い軍師として活躍し、天正8年(1580)姫路城を秀吉に献上して本城の御着城に戻る。西国攻めの拠点として天正9年(1581)姫路城を改修して、三層の天守を築いたとされます。
天守より搦め手口の「との門(左)・ちの門(右端)」

天正11年:秀吉が大阪城を築いて移ると、弟の羽柴秀長に、天正13年:秀長が大和郡山に移ると義兄(秀吉の妻おね :北の政所の兄)木下家定が25000石で居城し、慶長5年(1600)関が原の戦い後に、 三河吉田城主の池田輝政が52万石の大大名として入城します。輝政によって姫路城は 9年を費やして大改修され、慶長14年(1609)には三重の濠・五層の大天守に3棟の小天守・居館の三層櫓?備前丸(明治期以降に火災で焼失したとも移設されたとも云われる・・?!!)…等々、現 状に見る縄張りは此の時完成したとされます。元和3年(1617)輝政の孫の光政が家督を継ぐが幼く(8歳)因幡鳥取に移封となり、 代わって本多忠政が伊勢桑名城より15万石で入封します。 忠政の子の忠刻に家康の孫娘:千姫が輿入れし、西の丸が改修されて化粧櫓・渡り櫓等が築かれました。
西小天守と大天守には二層の渡櫓「水五門」

以後:本多氏3代・寛永16年(1639〜)松平(奥平)氏2代・慶安元年 (1648〜)松平(越前)氏2代・慶安2年(1649〜)榊原氏・寛文7年(1667〜)松平(越前)氏・天和2年(1682〜)本多氏・宝永元年(1704〜)榊原氏(4代)・寛保元年(1741〜)越前松平氏(2代)と頻繁に城主を交代し、 最後に寛延2年(1749)上野前橋城より15万石で酒井忠恭が入り、明治維新を迎えるまで酒井氏(10代:忠邦まで)の居城となりました。
(入城パンフ 現地 :姫路城内各所案内板 フリー百科「ウィキペディア」・「ひょうごの城紀行」等参照)
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