姫路市東部の山城 御着城/
播磨 地図(五万図=北条)
近畿の山城 御着城

小寺氏は赤松播磨守頼範の二男・為助の嫡子為頼が小寺氏を名乗り小寺氏の祖となり、三代後の頼季(よりすえ)が初代城主として姫路城に入ったともされますが疑問もある?。其の約100年後か!!→正慶2年(元弘3年1333)播磨守護職:赤松則村 (円心)が姫山(姫路城)に砦を築き貞和2年 (正平元年 1346) 赤松貞範(則村の二男)が改築しているが貞和5年(1349)姫路城の東方4.5km地点に庄山城を築いて移り、姫山の砦に小寺頼季が城代として入り以後:小寺氏が姫路城を世襲したものとします。
御着城二の丸:御着城跡碑

長禄の挙(1458)に将軍義政に許され文明元年 (1469)赤松政則が赤松家を再興すると山名氏に代わり庄山城には小寺康職が入り祐職 (すけつね)・福職と二代を経て亨禄2年(1529)御着城より小寺政隆が移った。御着城は永正16年 (1519)姫路城代小寺加賀守(藤兵衛尉)政隆が、一族の主君播磨守護:赤松義村と対立した備前三石城主で守護代:浦上村宗への備えとして築いたとも、衰退する赤松氏から独立する為に築いたとも考えられますが、御着城から庄山城に移った翌:享禄3年(1530)浦上氏・細川髙国の連合軍による播磨侵攻に政隆は討死し、
移設保存の天川橋

其の子則職が亨禄4年摂津木津での合戦に村宗を討って御着城に戻ると家臣長浜長秋を庄山城に入れ、其の後は三代目政職が守るが三木城にはじまる秀吉の播磨攻めに別所長治に味方し、天正6年(1579)7-12月頃には御着城も落城、姫路小寺氏は滅亡。政職の嫡子:久兵衛政則は天川姓を名乗り大庄屋を務め、二男氏職は後に筑前(福岡市)黒田藩客分家臣となっている。此の播磨攻め前の中国毛利攻め以降、信長・秀吉に着いた黒田官兵衛孝高が御着城を舞台に、三木城落城後は姫路城を秀吉に明渡し、官兵衛父子は国府山城(功山城)に移り、其の後の軍功に中津城(大分県)を与えられ、嫡男:長政も関ヶ原合戦(1600)の戦功により筑前福岡城に移る…等、秀吉の播磨攻め以後の御着城史に小寺氏は影も見えない…。




御着城(天川城・茶臼山城)
 

御着城(天川城・茶臼山城) 茶臼山 Ca10m  姫路市御国野町御着

姫路市埋蔵文化財センターの発掘調査 (昭和52-54年)により嘉吉年間(1441-44)には既に柵を巡らした構居・砦規模の建物があり、 明応年間(1492-1501)赤松氏の播磨支配の拠点として守護所の機能を持つ城で、播磨守護赤松氏の政庁は坂本城、御着城は段銭 <税金の徴取所>奉行所であったといい、その後16世紀後半まで存続し、小寺氏の勢力拡大とともに本格的な縄張りの実施により、
御着城跡公園:二の丸と姫路市役所東出張所

規模を拡充させていったと考えられ、中世の生活に関わる土器 ・陶磁器・木製品・石製品や建物の礎石・瓦・井戸・石垣 ・土塁や内堀等の一部等遺物の検出・確認により縄張り図の信頼性を高めている。宝暦5年(1755)”播州飾東郡府東御野庄御着茶臼城地絵図”には城の中核に本丸と二の丸・西と南は天川を天然の外濠に利用した二重の堀・北と東は四重の堀を廻らし、外郭部には山陽道(西国街道)や町割りによる家臣屋敷 ・町家を取り込んだ”惣構え”の平城が描かれている。
御着城濠跡に移設保存の天川橋

播磨守護赤松氏の一族・小寺氏居城で永正16年 (1519)姫路城代小寺政隆が、主君の播磨守護:赤松義村と対立した守護代:浦上村宗への備えとして築いた考えられますが享禄3年(1530)細川髙国との連合軍の播磨侵攻に御着城は落城し政隆は自害させられる。翌:享禄3年の大物崩れ(天王寺の戦い)に村宗は討死・髙国も自害すると政隆の子則職が城主に復して、支城の姫路城は家老黒田氏等を城代に、本城の御着城を整備した。 赤松惣領家の弱体化と、西播磨最大勢力の小寺氏が
黒田家廟所:黒田官兵衛の祖父:重隆と実母とされるが?

赤松家からの独立を狙ったとも 推察されますが茶臼山と呼ばれた小丘陵上に築城・改修を加えながら則職・政職と三代に渡って継承され、別所氏の三木城・三木氏の英賀城と並ぶ播磨三大城郭に挙げられます。天正6年(1588)7-12月頃には落城し城割が行われて廃城となった御着城はニノ丸広場 (旧学校跡地)には城をイメージした姫路市役所東出張所・御国野公民館・西側には黒田家廟所
小寺氏家老を務めた黒田重隆と職隆夫人の墓<姫路城主で黒田官兵衛(如水)孝高の祖父と 明石氏の娘で官兵衛の母>が並んで祀られる】黒田重隆は御着城主小寺家の家老となり姫路城主となり、 子の職隆(もとたか)・孫の孝高が継ぐ。
グランド北端濠跡:移設保存天川橋の濠跡延長線上

…福岡藩命により貝原益軒が編纂した「黒田家譜 」等の黒田家顕彰要素が強い ?後世資料では、黒田家出自を近江源氏とされ、官兵衛(孝高)の出生を姫路とする通説には異説もあり、代々播磨赤松氏の一族と推測します。職隆が小寺姓を賜って小寺氏家老となり、姫路城の城代に、官兵衛は職隆の養子となり永禄10年 (1567)志方城主の娘を娶り家督を継ぎ 姫路城主となり、天正元年(1573)には 国府山城(功山城)に隠居する。天正5年からはじまった「播磨攻め」に羽柴秀吉の参謀役ともなった小寺(黒田)官兵衛の出生地を古文書資料から北播磨(西脇市黒田庄町)とする説もある。
グランド東端:車道との間に残る濠跡

孝高は黒田城主重隆の二男で小寺職隆の養子に入り、母は比延山城主・日延氏の娘:いずれにしても 幼くして母と死別した伝承ものこる。黒田官兵衛にとって姫路城代重隆は祖父・同じ名前の黒田城主:重隆は実父。重隆らの墓は御着城下の佐土にあった心光寺に置かれていたのを天正5年(1577)黒田孝高?により現在地に移され、その後:廟所は享和2年 (1802)福岡藩黒田家第10代藩主斉清により資材を九州から運び造営されたもので、廟屋を持つ立派なもので、昭和43年(1968)に大改修された。黒田重隆夫妻 ・職隆夫妻の位牌を祀る心光寺の古文書には黒田官兵衛が播磨多可郡黒田村(現:西脇市黒田庄町 )の産との記述があり、官兵衛の父・母 黒田城主重隆夫妻の比翼塚と思いたいが…夫人が明石氏の娘なら??…疑問は増幅するばかりです。御廟周りの龍山石塀から内部は姫路市指定(昭和56年<1981>.8月8日)史跡となっているが、旧廟所の門や灯篭等は 心光寺に移築されています。
黒田官兵衛孝高顕彰碑

姫路市役所東出張所・御国野公民館の南前 ・黒田家廟所に向かうところに黒田官兵衛顕彰碑が立ち、直ぐ側には”目薬の木”まで植えられている。顕彰碑には貝原益軒の「黒田家譜(延宝6年<1678>の完成後も改訂・増補されている」等に沿う説明になっている様ですが黒田城(西脇市)では姥ヶ懐遺跡荘厳寺や姫路心光寺の古文書で官兵衛生誕地の信憑性が高まるが松が瀬の伝説で薄らぐ様に、姫路黒田家の祖となる祖父:重隆は備前福岡(現:瀬戸内市長船町福岡)から姫路に移ってきたと云い ・広峯神社の神符とともに秘伝の目薬を売って財を成したという「サクセス・ストーリー 」が良くできた伝承におもえてきます。
現在の天川橋:遠景は庄山城

2014年NHK大河ドラマ化された「軍師官兵衛」で一躍知られた御着城なので :此処での黒田家と官兵衛については 先祖を近江国伊香郡黒田郷(現:木之本町)の出・姫路生まれの官兵衛孝高で職隆の嫡男…の一般説?に沿うが、名が知られるのは天正6年(1587)信長命により羽柴秀吉を総大将に中国毛利攻略が開始されて以降!!。御着城の主君 :小寺政職は官兵衛の助言に従って信長に付いてはいたが、天正7年(1579)中国攻めの前に羽柴秀吉は別所長治の三木城攻めを機に播磨平定に乗り出し、伊丹城(有岡城)主荒木村重の叛乱に同調した政職も、終に信長に叛き毛利方に付いて攻撃を受け、政職は鞆の浦(毛利方領内)の足利義昭の元へ脱出。残された別所氏家臣:岡本秀治が降伏して 落城し小寺氏は没落。
御着城濠跡に移設保存の天川橋

秀吉の播磨平定に孝高は姫路城を秀吉に譲り、父職隆と妻鹿の国府山城に移り:播磨 ・中国・四国・九州攻め等に秀吉の軍師として活躍し、天正15年(1587)中津城(大分県)を与えられ、孝高の嫡男:長政も慶長5年(1600)関ヶ原合戦の戦功に筑前福岡城を与えられ 小寺政職の子:氏職は黒田家に迎えられ、子孫は代々福岡藩士として仕えます。 東側のグラウンド跡?の国道寄りには観光用駐車場があり、御着城址碑の立つ御着城公園になっており、堀や土塁跡と思われる痕跡が僅かばかり残っている様です。市役所東出張所裏手(北側)の堀跡には江戸時代中期の”総石造り天川橋”が移設されている。もと旧山陽道(旧西国街道)の天川に文政11年(1828)2月姫路藩により築造された竜山石(高砂市に産し、此処から運ばれたものか?)による総石造りの太鼓橋は全長 26.6m・幅4.45mで高さは約5mで橋脚5本から成る。
御着城濠跡に移設保存の天川橋

本陣もある宿場は山陰 ・山陽の西国大名の参勤交代や諸国を往還する名士や旅人が東から・・西から渡っていった、由緒ふかい橋だけに姫路藩の威信を掛けての工事だったのでしょう。銘文に播州印南郡の石工:瀬助・仲右衛門:姫路藩の儒者:近藤顧一郎【姫路藩家老:河合寸翁の仁寿山校に迎えられ客分の形で赴任している ・頼山陽の招聘を固辞され、代わりに山陽の詩人グループと親しかった学者 :抑斎(近藤顧一郎)が推挙された…】の”誰命天川名 豈問支機在 虹染飛架空 昴々浮霞彩 截漸々之石 驛路度千載 ”の詩文が刻まれる。…誰が名付けたか 天川(天の川)に架かる虹の橋…が空想できる美しい橋ではあったのでしょう。
御着城(天川城)本丸跡の小寺氏奥津城の碑

昭和47年(1972)9月の出水により中央部橋脚が崩れ橋桁が落下したため撤去された旧天川橋は昭和53年10年・現在地(御着城跡公園内の御着城濠跡)に移設された 遺構保存状態は幅・長さ共に旧来より若干短くなっている様?…高さも地形に合わせ低くなっている。移設石橋の架かる濠跡の東・延長線上にはグランドと宅地の間の高低差をもって延び、グランドを囲むように東端から南のR2号側を囲こみ、藪化した湿地は濠を・グランド東南 端付近は土塁跡を感じさせるが、発掘調査後は造成されているようで遺構は残らない様子。 御着城跡中央を東西にR2号線が分断しており、陸橋で跨ぐ南側が本丸跡に建つ小寺大明神と当勝稲荷社が昭和49年(1974)新築されたのを機に
二の丸側発掘調査で出土した石佛・五輪塔

天川神社と改名され御着城三代の城主・小寺一族と御着城に関係する人々が祀られている。小公園となった天川城址御着城主を祀る奥都城(おくつき)で、小寺一族小寺氏を祀った祠と天川城址碑及び 「ふるさとよ 我らの古城をたずねて しづかなる 姿のままにふるさとの  山川みえて かにかくうれし 政隆」の歌碑と裏面に御着城(天川城・茶臼山城)説明案内が刻まれている。天川神社(当勝稲荷社と小寺大明神)前に 五輪塔と石佛がある。旧御国野小学校校庭を発掘調査した時に出土したものを復元したものとあり、 天正7年 (1579)羽柴秀吉による2日間の御着城攻めに落城した小寺氏一族戦死者供養のため<平成元年(1989)7月>祀られたと推察されますが、
本丸跡に祀られる天川神社(小寺大明神)

復元にしては頑丈な木枠と天井・壁ともにブロック囲いの中に納まる様子からは、出土品は忠臣として身に余る!!?安住の地 :奥津城に移されたものなのでしょう。本丸跡の天川神社の南70m程を東西に走る地区道が旧山陽道(西国道)で西へ100m程で天川橋に出るが、 中程には当初播磨国国分尼寺の古刹で、小寺政隆が帰依し子の則職の代に御着城内に移された徳證寺が在る。

(現地:姫路市教育委員会案内板平成13年2月等を参考)

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