明石の浜の散歩道・・・播磨路に太古のロマン・・!!」  屏風ヶ浦海岸

屛風ヶ浦海岸 
明石市大久保町  (五万図=高砂)
神戸から西に走るR2号線は須磨・垂水の瀬戸内海に浮かぶ船、 淡路島を結ぶ明石海峡大橋を望みながらの爽快な海岸沿いの道を走る。JR朝霧でR28号に入れば・まだ大蔵海岸を見るが、それも束の間で終点?の淡路連絡フエリー乗り場となり、 自然?とJR明石駅に向かってR2号線に合流する。
   浜の散歩道:八木遺跡公園近くにある「石のモザイク画」 源氏物語と万葉集の世界

浜の散歩道
西走するR2号線や左折して海側の南寄りを走るR250号(明姫幹線道)は勿論、海岸線に並走している山陽電鉄沿い車道からも海の側を走っている感慨がない。土地勘など更々ないので山陽電鉄の駅から浜側へ入っていく狭い車道に向うには目的位置が分かっていても、 カーナビなど無く古いロードマップ(2000.7の都市地図)では心もとない。
八木遺跡公園

細く・迷路の様な路地道・時に行止まりでUターンも困難な狭い道は以前に魚住・江井ヶ島で懲りている筈なのに、今回も藤江駅付近から 「藤江の浦」への道が判らず素通りし、中八木駅付近から「八木遺跡公園」へも見当つけて「八木遺跡公園北」のバス停先T字辻で、左折・右折を間違えなければ1~200m程で行き着けたのに、 右折して極端に狭い住宅地内の道を対向車の来ないことを祈りながら進んでいたら電柱に江井ヶ島の文字…直ぐ南側は高台の様で光る海が見え・屏風ヶ浦海岸の断崖かと思えるが…シマッタと引き返す。 こんな道の奥にも工場があって対向にはトラックが…!!。灘五郷にも肩を並べ、西灘とも呼ばれた酒造業の盛んだった江井ヶ島の、xxx酒造会社付近の海岸縁から藤江・松江・林崎から 明石駅近く・明石川河口に架かる大観橋へと、海岸縁に沿って防波堤が続くが、其の護岸敷きを利用して約7km程の播磨サイクリングコースが通じていて、差し詰め「浜の播磨路」とも呼べそう。 防波堤の内・外側には数箇所に護岸敷きを公園化して、 海水浴場や緑地公園が設けられており、潮の香と風を感じながら海を・明石海峡大橋を・また淡路島や行き交う船を眺める風光明媚な散歩道ともなっています。
八木遺跡公園から屏風ヶ浦海岸の眺望

過日は 大観町から港町へ源氏物語の舞台を廻り、今日は先に大観橋から高山右近が居城した船上城周辺を廻った後、 万葉の歌人:柿本人麻呂・山部赤人が「うた」に詠んだ白砂青松の地の景観を見てみたいもの「藤江の浦」に寄りたかったが、先述の如くで素通りで八木遺跡公園に向った。 隔週月曜日:明石の病院に来る機会があり短時間だが彼方此方廻ってみたが今回で当面は来る事も無さそう。しかし月曜日は市立文化博物館や古墳公園等の主な県市等の公共施設は休館。 太古の歴史を秘める明石の顔「明石象」の復元模型や、旧石器時代の「明石原人」のレプリカには逢えないので、せめて其の発見現場だけでも見ておきたいと思った。素人目には何の変哲も無い地層に 研究者の熱意が大発見に繋がるんですね。時代はズッと遡るが丹波市では昨年来「丹波竜」の発見で古生代・化石への関心が高まってきていますので…あっさりと!!素通りは出来ない・・(^_-)-☆

   浜の散歩道:八木遺跡公園近くにある「石のモザイク画」  源平合戦絵巻

八木遺跡公園は明石の浜と海を高台から 眺望出来る素晴らしいロケーションに立地する施設ですが、遺跡とは直接関係のない海浜公園の様で子供の遊戯施設や、 海岸寄りには古代人の堀立て柱の住居跡をモチーフとした様な休憩施設がある。帯状の崖が続く屏風ヶ浦海岸沿いに「浜の散歩道(播磨サイクリングロード)」が続く。
八木遺跡公園:必見?の探訪ポイント

目前に瀬戸内の波に浸食され屏風の様の切り立つ崖に露出した古代の地層 (淡水成の屏風浦粘土層)からは、約200万年前に生息していた明石象(アケボノゾウ)の化石が発掘され、「明石原人」とされる発見では原人だ・旧人だ・いや中世室町期の人骨だ・いや偽物だ・・といろいろ 物議を醸した「明石人」の発掘地も近い。しかし公園からは少し離れているが公園内に其の説明板や・此処に見る地層の説明は無く、中八木海岸のサイクリングロード(浜の散歩道)の降りた崖側の発見場所の イラスト案内図が有った。「浜の散歩道」を東方に向うとジョギングや犬を連れての散歩者が多く、浜には「海亀の産卵地」の立札を見る。其の少し先には砂防壁の面には石で描かれたモザイク画が 100m程の画廊となって続く。東播磨海岸保全施設整備事業として平成2年3月建立の碑文板があり、 サイクリングロード(浜の散歩道)として完成されたものか・・?
アケボノゾウ(アカシゾウ)出土地

太古の化石発見・源氏物語から万葉の詩人・源平合戦・藩政の頃の田植えの様子か?・・・明石の歴史を「絵解き」するかのようにモザイク壁画が描かれています。 藤江の浦へ続く道ですが、山辺赤人の歌を詠むモザイク画を見ただけで、時間も無いので引き返し遺跡公園から西方へ屏風ヶ浦崖沿いに「明石象と明石原人」発見場所に向かい遊歩道を進むと 明石象化石発掘地があり「明石象出土地」標識が立てられています。「パラステゴドン・アカシエンシス」と名づけられアカシゾウですが、現在では「アケボノゾウ」とよばれることが一般的だそうです。 昭和35年(1960)中学生が此の崖から象の牙の化石を発見し、其の後も同地点で掘り続けた彼は、約6年間で 97点に及ぶ歯や骨の化石を採集し、昭和41年(1966)には大阪市立自然史博物館が引継ぎ、新たな標本を加え、これ等の標本が同一個体であることがわかり、 其れを基に初めてアカシゾウの全身骨格標本がつくられました。
アケボノゾウ復元図 (現地案内板より)

アカシゾウは今から約120~180万年前(新生代第四紀!!)に西日本を中心に関東地方にも及ぶ広い範囲に生息していたといい、今のアジアゾウ・アフリカゾウと違い ステゴドンとよばれる絶滅したグループに属し、体長は約1.5m~2m程のゾウとしては小型だが1m程の長い牙を持つ世界でも最も古いタイプの象であるとされているようです。
(アカシゾウ現地案内板 平成18年3月 明石市等を参照)

明石原人腰骨発見地
病気療養のために明石に滞在していた直良信夫氏(1902-85)が昭和6年(1931)4月18日、 八木海岸の崩壊した 古い地層から発見された人類の(寛骨(腰骨)は日本最古の人類「アカシゲンジン」としてニュースにはなったが、 「日本に旧石器時代はない」とする当時(今も?)の常識から、 考古学界に認められないまま、貴重な化石の現物は第二次世界大戦終戦も近い昭和20年(1945)5月の東京空襲で焼失してしまいます。
出土した木器・石器と人骨の腰骨部(現地案内板より)

直良氏が発見した寛骨は其の年に松村瞭氏が預かり、 その間に石膏模型で標本が作成されていた事が幸いしていますが、戦後・昭和21年(1946)人類学者:長谷部言人博士(東大教授)により、定年退官後も教室で研究を続けていて標本が発見されたという。 其のレプリカを調査して昭和23年(1948)原人の骨として「ニッポナントロプス・アカシエンシス」の名を与え、 一般には「明石原人」と呼ばれ知られるようになりました。但し1960年代頃までは国内で発見された化石人骨を、推定年代に関係なく原人と呼ぶ習慣があって、北京原人やジャワ原人などとは異なり、 明石原人は実際には原人ではないとされます。
江井ヶ島漁港

昭和60年(1985)3月;国立歴史民俗博物館の春成秀爾(ひでじ)当時助教授を中心とする発掘調査では旧石器時代(6~12万年前の旧人)が生活していた事を証明できる木器や、瑪瑙(メノウ )の石器が標本採取されており、現在:近畿地方では最も古い遺跡の一つともなっていて、市立文化博物では明石原人としてではなく「明石人」として展示されています。
(明石原人腰骨発見地案内板 平成12年9月・文化博物館 明石市教育委員会資料 ウィキぺディア等を参照)

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