塩・日本三大上水道・そしてなにより忠臣蔵の 赤穂城と周辺散歩
赤穂市  (五万図=播州赤穂)
赤穂城と周辺散歩  2007年11月04日
近畿の山城: 赤穂城(加里屋城)

「塩の国」の塩田に復元された釜屋

赤穂市を語る三大ワードの塩 ・忠臣蔵・上水道を訪ねる赤穂の旅は、先ず赤穂海浜公園の「塩の国」から始め市立海洋科学館に向かいます。いつもとは勝手が違い・今日は恒例の「ふれあいハイキング」として幼児から大人まで、 地区内自治会で実施している行事の企画から手配・引率まで一手に引き受けて、いままで足の向かなかった西播磨を計画・行ってみたかった赤穂城再訪を組み入れての市内散策です。 赤穂市はJR赤穂駅のホームに降り立った時から、今も語り継がれる播州赤穂事件のただ中に立たされる。年末恒例のテレビ放映や芝居で有名な「忠臣蔵」のふるさとです。ご存知:この事件で城主:浅野内匠頭は即刻切腹、お家断絶となり城開け渡し、かたや吉良上野介に対しては、 なんの咎めも無い幕府のご政道に対し、家老:大石良雄以下47名の赤穂浪士が主君の仇・吉良上野介を討って本懐を遂げたとされる事件です。
赤穂城:三の丸大手門と隅櫓

非常に独裁政権色が強く其の沙汰の過ちや内幕は報道管制で隠し通してきた為か。 庶民が此の事件・措置を知ったのは47年後の事で、忠義を貫き武士道の鑑として描かれた人形芝居としての「仮名手本忠臣蔵」ですが初演されると、庶民の間に大センセーショナルを捲き起こし ・以来「忠臣蔵」の名で知られます。元禄事件で赤穂藩浅野家は3代56年続いて断絶するが、強烈な大事件ではあっても殆ど知られず・まして遠く離れた赤穂に…と思えますが、 発生から終結まで僅か1年ほどの事件:此の忠臣蔵だけが一人歩きしている様です。藩政になってからでも長い歴史は、もっと浅野家前後の赤穂にも目を向けなくては・・・(^^ゞ 浅野 家以前から始められていた、大量生産型で他地方でも追随した「製塩業」や、 慶長年間・姫路城主:池田輝政の代官垂水半左衛門により設けられた「上水道設備」は、城下町として発展した赤穂市の礎。観光都市赤穂は忠臣蔵以外にも多くの史跡を大切に 温存されていくことでしょう。
赤穂城:本の丸厩口門 (台所門)

赤穂城は忠臣蔵以外にも、正保2年(1645)池田輝興が刃傷事件を起こして改易され、浅野長直が入封:浅野家断絶後の元禄15年(1702) 入部した永井伊賀守直敬(1代在城5年で転封した)の姫が、この石の上で自害したとの伝説も残ります。また開国・安政の大獄・討幕へと変動改革の時期:文久3年(1863)赤穂藩国家老:森主税が藩改革を唱える藩士達によって暗殺されたのが二ノ丸門外の「かんかん石」の上だったと云われます。 山陽自動車道の赤穂ICを降り赤穂市内へ、団体で「塩の国」での塩造り体験を入れているので、時間の都合で赤穂城公園を素通りして先に千種川を渡って海浜公園に向かいます。

「塩の国」:入浜塩田と製塩作業所

県立赤穂海浜公園だけでも 子供連れなら半日以上は過せるのですが、先ずは忠臣蔵以前の歴史から・播磨灘の海と塩に育まれた赤穂は塩の国。製塩法の転換によって姿を消した広大な塩田跡地を整備して開かれた、 赤穂海浜公園内の市立海洋科学館と「塩の国」を見学です。館内の詳細や塩造り体験等は 「公園へいこう」県立公園HP【http://www.hyogo-park.or.jp】等Webサイトで確認してください。「塩の国」には揚浜式、入浜式、流下式などの塩田施設が復元され今では見られなくなった 製塩作業や歴史を見学できるのがこの施設で、釜屋の特異な茅葺の建物が目を惹きます。
赤穂海浜公園:「わんぱく広場」の廃船アスレチック

かつて赤穂一帯は・潮の満干の差を利用し海水を塩田に送り込み、砂に塩の結晶がつくようにする 日本独特の方法として約400年もの間盛んに行われていた入浜式塩田が盛んでしたが、塩の国でもう一つ目を惹くものに・昭和20年代終わり頃に出来た流下式枝条架塩田があり、 竹の小枝等で組み立てられた枝条架があるが、現在ではイオン交換膜法というやり方で、塩田を使用することなく工場で製造される様になり、昭和の中頃まで拡がっていた塩田は、海浜公園・工場・宅地・畑地に姿を変えて消えてしまいます。早めの昼食を公園内ですませ 赤穂城公園に引き返します。
(現地:子どものための塩づくりのはなし 赤穂市立海洋科学館等参照)
赤穂城スタートは[忠臣蔵]早駕籠が着いた塩屋門から

三の丸大手門前xxx屋の駐車場には先着客で、 大型バスの駐車は出来ず塩屋門横を西駐車場に廻る。搦め手の塩屋門こそ元禄事件【元禄14年3月19日:赤穂城主浅野内匠頭長矩が江戸城で刃傷・其の日のうちに切腹】の一報を知らせるべく 早駕籠で駆けつけた早水藤左衛門・萱野三平が、更に二報の原惣右衛門・大石瀬左衛門が入り 一ヵ月後:城明け渡しの際には請取りの備中足守藩主の木下肥後守の軍勢が入城したのも此の門で、忠臣蔵コースとしては当を得た最初の門を通って 大石神社〜城内の公園の自由散策へ。 余り時間も無いので早駕籠並みに城内・城外・城の外周を走り廻って、必見ポイントに急ぎます。
横矢枡形見せる厩口門側と石垣土塁

三の丸大手門を出て各連が鳴子を持って踊る「よさこい」風のパレード真っ最中。 拡声装置を積んだトラックには「赤穂でえしょん祭り」と有り、左右の歩道は見物人で賑わう「お城通り」をJR赤穂駅方面へと、人波掻き分けて北へ走り息継ぎ井戸に向かいます。 小野市や加西市からもグループ参加が有るようです?。このパレードのフイナーレは刎橋門 ・水手門を見るため走った最南部の花見広場だったか。特設ステージが設置され此処でも賑わっていたが城遺構の濠・石垣に関心を持って見ている人などいない。元禄花見だったか?の案内柱を兼ねたタイル絵が パレード参加者の華やかさとはマッチしているがポツンと蚊帳の外に立たされているよう。
本丸庭園(大池泉)
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息継ぎ井戸
浅野内匠頭長矩が江戸城の松之廊下において肝煎高家:吉良上野介義央に刃傷におよび、 切腹させられたのが元禄14年(1701)3月14日。 江戸浅野家下屋敷から赤穂へ主君刃傷の凶報を知らせるべく馬廻役:早水藤左衛門と萱野三平が早駕籠で江戸を出発。
息継ぎ井戸「赤穂藩上水道」

江戸〜赤穂155里 (約620キロ)を不眠不休4日半(通常だと17日間の日程という)で辿り着きますが、担ぎ手は代わっても使者は同じ:狭い駕籠の中で揺られ続け、想像も出来ませんが死ぬ程の苦しみで息も絶え絶え。 赤穂城に入る前に・この井戸で一息ついて城内に入ったという「息継ぎ井戸」が此処で、この井戸水も当然ながら日本三大上水道の一つで、地中に配水管を通して配水される赤穂藩上水道の給水井戸です。 (現地:息継ぎ井戸の説明板 等参照)
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花岳寺 (浅野家菩提寺)    赤穂市加里屋1992
息継ぎ井戸から住宅内の道を西南に走って赤穂藩主浅野家の菩提寺:台雲山花岳寺(曹洞宗)に向かいます。 15年程前に新西国霊場(第31番)として訪れた花岳寺は、浅野長直が正保2年(1645)常陸笠間藩から転封された際・父華獄院・母台雲院の菩提寺として建立:其の法名から台雲山華獄寺と称されました。
花岳寺

赤穂歴代藩主 :浅野家と大石家の他・永井家・森家の菩提寺ともなっています。勿論藩士だった四十七義士と萱野三平も合祀され、墓碑と木像堂や義士ゆかりの武具・書画などを展示している宝物殿があります。 本堂の側にある松の木は大石内蔵助良雄の母親:松樹院が亡くなったときに寄進したものと云い曹洞宗永平寺末寺です。常陸国笠間(茨城県)からの入封なので曹洞宗本山は総持寺(横浜)かと思ったのですが?。 開城して赤穂を出る際・此の松の下で名残りを惜しんだところから「大石なごりの松」とも呼ばれてます。 大石なごりの松は赤穂に未だ二つばかりある(もっと有るのかも?)。この寺の中山門は・もと赤穂城の搦め手となる西惣門の塩屋門を明治6年(1873)花岳寺21代仙珪和尚が購入して 此処に移築されたものと云い、 赤穂市指定(平成元年3月30日)有形文化財となっています。
花岳寺山門

柱は当時のものより約三寸(9.1mm)短くなっていると思われ、建材は栂(つが)を主として高麗門形式をとり、西惣門の遺構の為 ・素朴無骨で武家門の風格を備え、城郭付属建築として史的価値の高い貴重な門であると現地」花岳寺山門の案内板に説明されています。また転封には長直に従って赤穂城の縄張りを行った近藤正純 (まさずみ)の墓も妙慶寺(真宗大谷派 赤穂別院)から移されています。
(現地:花岳寺及び山門の説明板 等参照)


花岳寺からも急いで赤穂城に戻ってきた。三の丸の濠に映る隅櫓を見て大手門の内枡形虎口を廻ると、全国の城でも此処だけと云われるコーナーの角が丸みをもった珍しい工法の石垣が見られ、大石神社域に沿って近藤源八宅跡長屋門と 大石宅跡長屋門が通りを挟んで斜向かいに建っています。
三の丸:大手門内側の丸みをもった珍しい石垣

赤穂城内に残る江戸期の建造物はこの長屋門二つだけ
近藤源八宅跡長屋門
長屋門は「源八長屋」の愛称で親しまれています。赤穂城内に残された江戸時代の貴重な建造物は市指定(平成10年4月27日)有形文化財です。 此の近藤源八宅と大石良雄宅の長屋門のみの為、 解体・発掘調査され平成11年3月に復元整備され、建物内部は公開されています。此処に置かれてある 「赤穂城跡・本丸庭園」赤穂市教育委員会発行の冊子¥100は、城跡公園散策ガイドに最適です。 トイレの屋根瓦の先端一列が古色然としているので、近藤家建築当時のものかを尋ねている間に 「近藤源八宅長屋門のパンフレット」に記念スタンプを押して手渡された。甲州流軍学を修め赤穂城築城の縄張り設計を行った事で知られる 三郎左衛門正純の弟の子が源八(正純は養父)です。
近藤源八宅跡長屋門:トイレ先端一列の軒丸瓦は当時のもの!!

近藤源八正憲も甲州流軍学を修め、千石番頭の重職にあり、源八の妻は大石内蔵助の叔母にあたり親戚関係にあったが最初から義盟には加わっていません。大石良雄宅長屋門を遥かに凌ぐ総長21間半 (約42.3m)の長大な長屋門であった事が 柱に墨書された柱番号によっても明らかとなっています。 浅野家改易後この長屋は4戸分に分かれており、 其々下級武士の住まいとされていた様です。現在残されているのは其の北端部の一戸と、其の南隣りの一戸の北端1部屋だけ。修改築されているようですが トイレの屋根の軒丸瓦(先端の一列)のみは 当時のものの様です。
大石神社の内蔵助良雄像

また屋外の井戸(汲み出し枡)は赤穂旧上水道。海に面した 河口デルタ地帯に在って、井戸を掘っても飲料に適さず、水を確保する為・千種川の水を引き、「こし場」と呼ばれる浄水施設をもち、 炭などを使って浄化し、 其処から地中に配水管を通して配水される仕組みの上水道で、本丸跡にも其処に上水道があったことを示す復元がなされているようです。
(現地:源八長屋説明板とパンフ参照)

大石良雄宅跡長屋門
大石良雄宅跡長屋門は、 浅野家筆頭家老大石内蔵助良雄の一家3代が57年にわたり住んでいた大石屋敷の正面門長屋で門口約 26.8m・奥行約4.8mの建物で、 屋根瓦には双ツ巴の大石家の家紋を刻む。元禄14年3月主君の刀傷による江戸の悲報を伝える使者の早水藤左衛門・萱野三平が叩いたのも此の門である…と。
大石良雄宅跡長屋門

享保14年(1729)火災により建物の大半を焼失したと云い、其の後:安政3年(1856)に大修理されて残されていた長屋門が、明治33年(1900)大石神社創設の際保存修理され、国の史跡に指定(大正12年3月7日)されています。昭和52年11月から県と市により 全面解体修理が行われ、 翌53年10月末に復元工事を完了しています。
(現地:大石長屋門説明板を参照)
大石神社参道の義士像
大石神社
赤穂城内三の丸にある大石神社は明治天皇の宣旨を契機として明治33年(1900)神社創立が公許され、義士を崇敬追慕する多くの方々からの浄財によって大石内蔵助・藤井又左衛門の屋敷跡に、本殿以下社殿が竣功し大正元年(1912)11月四十七義士を祀る 神社としてご鎮座になった。 ご祭神に大石内蔵助良雄以下四十七義士と中折の烈士萱野三平(父に反対され浅野家忠義の板挟みとなって、
大石神社


討入りを前に切腹した)を主神とし浅野家三代の城主:浅野長直・長友・長矩、 その後の藩主森家の先祖で本能寺の変に散った森蘭丸ら七代の武将が合祀されています。大石邸庭園辺りが大石内蔵助の邸跡で、大石宅長屋門の内側を見る事が出来るんですが、 集合時間が迫っているので・いよいよ二ノ丸・本丸から外周へ急ぎます・・・続きは本題の赤穂城(加里屋城) へ・・(^_-)-☆
(現地:大石神社処々説明板等を参照)


赤穂岬
赤穂城を出て千種川を渡ると赤穂海浜公園の観覧車が見え、正面に白い灯台を乗せる丘陵が瀬戸内海国立公園に指定されている赤穂御岬崎公園で、沈む夕陽の美しさから日本の夕陽百選にも選定された。
穂東御崎展望台から家島諸島

大石内蔵助「名残の松」は花岳寺に母親:松樹院が亡くなったときに寄進したものがあったが、赤穂岬の海岸沿いにもあった。
赤穂東御崎展望台に立つ旅装束の内蔵助像
こちらは元禄事件で浅野家断絶・赤穂の城を明渡した後:大石良雄が海路を遥か大坂へと妻子を送り出したところ。自らも10日余り後には京・山科に向うが其の時:岬に立つ老松を見送りつつ名残を惜しんだと伝えられます。
(現地:名残松・赤穂岬展望所の説明板を参照)

旧坂越浦会所
坂越浦は播磨灘から海路を大坂への物資輸送の廻船業で栄え、其の中継地としての要衝となっていました。旧坂越浦会所は瀬戸内行政や商業などの事務をとるための村会所として、 天保2〜3年(1831〜1832)に建築され明治時代まで使用され、 赤穂市文化財(平成14年(1992)4月30日)に指定され、 博物館施設として活用されています。会所であると同時に、赤穂藩主の茶屋としての役割をもっており、
旧坂越浦会所

2階には藩主専用の部屋「観海楼」が設けられています。 赤穂の塩は此の坂越湾より塩廻船により運び出されます。
奥藤酒造郷土館
慶長6年(1601)以来続く坂越の奥藤酒造に設けられている資料館に、 地酒「忠臣蔵」「乙女(名の由来は聞き漏らしたが、かんかん石伝説の赤穂藩主:永井直敬の姫の事かな? 」等の展示販売所も有り利き酒も出来ました。予約が必要だったらしい?が、 自由にどうぞと入口へ案内された。 酒造りのほか代々大庄屋、船手庄屋を務め、廻船業で財を成した豪商だけに、西国大名の本陣となっていた。
奥藤酒造郷士館

酒蔵は寛文年間(1661-73)築で石垣による半地下式構造。館内の酒蔵2F(屋根裏部屋・・)には昔の酒造用具や廻船関係の資料、 昭和頃までの生活用具などが展示され、 漁具や船内で使われた船七輪など珍しいものも多くあります。坂越港周辺は景観形成土区に指定され、旧坂越浦会所・奥藤家・坂越まち並み館等の伝統的建造物群が石畳の大道(だいどう)の町並みは 独特の情緒をかもし出しています。 R250号に合流する手前に「木戸門跡」が復元されているが、坂越浦城見残した多くの散策スポットは日を改めて再訪したいものです。
(JRマップ坂越を歩く等 赤穂市教育委員会「文化財をたずねて」を参照)

道の駅:白龍(ペーロン)城    立ち寄り日 H19/9.xx〜11.04
もう三年前になるが、 城仲間とのオフ会で白旗城(上郡町)・鴾ヶ堂城(赤穂市有年)を訪ね、室山城 (揖保郡 御津町)に向う途中・城とは関係ない城:白龍城とR250を隔てた向かいの相生歴史資料館に、 感状山城の精巧な縄張りの立体模型が有るので立寄った事があった。
道の駅に ペーロン船と並ぶ・ど根性だいこん神社です!!

入江を挟んで資料館前にあ手の届きそうな 近くに森!?小島が有り、此の中に大島城が在ったと聞いた。橋でも架かっていれば一度訪ねてみたいものです。 相生市の道の駅:白龍城の白龍(ペーロン)とは、相生市の代名詞のよう なものですね。 名物?といえば2年前(2005年)道の駅近くのアスファルト歩道を破って生えていた 「ど根性大根」がブレーク。神社まで此処に出来ていましたョ。
道の駅白龍(ペーロン)城

温泉併設の道の駅ですが、相生湾に面しており、此処で行われる勇壮な「ペーロン競漕」が歴史と伝統を今につたえ、播磨に初夏を告げる迫力ある一大イベントとなっています。 ペーロン船(大型の手漕ぎ船)の艇庫があって自由に(誰も居ないので…(^^ゞ)見学できる。湾の先に見える網は牡蠣の養殖場でしょう!!(名物ですから…この時期:まだ早かったようですが)。



 赤穂城



赤穂城(加里屋城・大鷹城・刈屋城)     赤穂市上刈屋

赤穂城と云えば 赤穂浅野家3代目長矩の元禄事件と、浅野家断絶・赤穂城開城…等々の其れに関わる赤穂義士事件を題材とした【忠臣蔵】が余りにも有名で、其の陰に隠されて前後の赤穂城史が霞んでしまい、 殆ど表舞台で語られる事は無いようです。
赤穂城本丸門

赤穂城は南北朝期(室町時代初期)播磨守護:赤松則村が大鷹山に築城したのが始まりといい、享徳年中(室町時代中期1452-54)西播磨の豪族で 赤松満祐一族の岡豊前守光景が、 文正元年〜文明15年(1466-83)交通要路である海寄り(赤穂城より北方 ・現在の市街地)の一角に拠点を移して、熊見川(旧千草川)河口の港町を押さえるため岡豊前守光広が加里屋城(刈屋城)を築きます。 その後;天正15年(1582)高松城主:宇喜田秀家の所領となり、 陣屋(代官屋敷)を構えて秀家の家臣:津波法印某!!を代官として派遣します。
本丸門(御殿側から)


領内検地を行ない今も備前街道の名が残っています。慶長5年(1600)関ヶ原合戦に滅んだ宇喜多氏に代わり、 其の戦功により慶播磨一国52万石を領して姫路城に入った池田輝政の末弟長政が在城し、 輝政の家臣で郡代となっていた垂水半左衛門勝重が、慶長18年(1613)池田忠継の家臣となっており、浦手奉行として現在の本丸跡付近に一重の「掻き上げの城」大鷹城を築きますが、 城もまた篠山城と同様に大阪城監視対策上からも・備前地方と海路で繋ぐ重要性からも大掛かりな改修だったと思われ、加里屋城の有った付近は城下町となっている様です!!。
赤穂城:二ノ丸庭園

垂水勝重は慶長19年〜元和2年(1614-16)頃:河口デルタ上にあって、どこに井戸を掘っても海水しか湧かず・飲料水として使えない城下へ熊見川 (千種川)の水を引きこむ上水道を 最初に敷設する等の業績を残しています。慶長20年(1615)大坂夏の陣のあと赤穂は一藩として独立し元和元年(1615)輝政の五男池田政綱に35,000石を分封して 藩主としますが寛永8年(1631)に没し、嗣子が無かったので政綱の弟:松平輝興が利神城(兵庫県佐用町)から 赤穂城主となって入ります。然しその輝興が正保2年(1645)発狂して妻女を殺害するという刃傷事件を起こした為・乱心を理由に改易されます。
天守台と本丸庭園

東に姫路の大藩が、西には岡山の大藩があり両藩が手を組んで幕府に反抗するような事が有っては大変と、 国替えの大名の配置には幕府も慎重だったようです。両大藩の中間地にある赤穂はその様な事が起こらないように防ぐ役割を、また万一の場合は四国高松の松平氏の上陸地点を確保する為にも大切な位置にあります。 浅野本家のある安芸国(広島)にも近いと、其の年:正保2年(1645)常陸国笠間(茨城県笠間市)から浅野長直が5万3千5百石で赤穂に転封されました。徳川幕府により元和の一国一城令後・武家諸法度によって新城はもちろん 増改築も認められなかった時代に、 備前・播磨地方の制海権確保や製塩事業振興を進めるべく、新たに独立した1藩を設置することで特例の新城築城を許可されます。赤穂浅野家による築城は慶安元年(1648)から始まり甲州流軍学者 :小幡勘兵衛景憲の門人で軍学師範・家老近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じます。
水手門kら花見広場に入る

承応2年(1653)からは儒学者で当時官学の朱子学を批判したため赤穂へ流罪となり、浅野長直にお預けとなっていた山鹿流軍学の祖 :山鹿素行の協力を得て工夫された縄張り・構造の城は13年をかけて寛文元年(1661)近世の名城といわれる赤穂城を完成させています。二の丸門虎口の縄張り一部は山鹿素行により変更されたと云われます。 山鹿素行は赤穂藩士の教育等を行い門弟の一人だった大石良雄が討入りに用いた「山鹿流陣太鼓」は映画でも印象的ですね。近世城郭として現在に遺る赤穂城の縄張りは、不整形な星型に突き出した 変形曲輪の本丸と二の丸は、本丸を二の丸が囲む輪郭式、二の丸と三の丸とは梯郭式になっていて、折れや斜(ひずみ)を塁線に多用した石垣・角度を違える諸門を配備して、鉄砲による射撃の死角をなくす工夫や「横矢掛かり」が数多く用いられています。防備主体とはいえ千種川の水を引き、 潮の満潮時には城壁まで海水が来・干潮時には泥州となって城を防衛する、堅固な縄張りは非常に珍しい変形輪郭式の海岸平城です。
花見広場側から本丸への刎橋門

其の規模は10の隅櫓に12の諸門があり、 曲輪の延長は約2,847m・面積は63,711uに及ぶという。塁石・防壁・諸門・本丸御殿が整えられ、居城としての偉容が示されたが篠山城・明石城同様に天守閣は築かれず天守台のみが築かれました。 長直は場内や上仮屋一帯に侍屋敷を設け、道路等の町割りを行なって新しい城下町を形成していきます。初代:浅野長直は城下の町屋各戸にも給水するという、全国的にも稀な上水道施設で、 一部は昭和19年頃まで使用されていた様で、現在でも一部が潅漑用水として使われていると云われます!!。江戸時代には神田上水(東京)、福山上水(広島)と並ぶ日本三大上水道の一つと云われます。 そして本格的な入浜塩田による製塩法の完成により、其の技術は瀬戸内地方を中心に広く伝わり、 流通機構も整備して赤穂の製塩事業で藩政の礎を築いた名君でした。然し長直の孫浅野(内匠頭)長矩の代になった元禄14年(1701)江戸城松の廊下での殿中刃傷事件によって城主は切腹、
刎橋門から厩口門へ(東仕切門跡付近)

浅野家は断絶・領地を没収されて赤穂浅野家は浅野長直から長友・長矩と3代56年続いた浅野家の歴史に幕を下ろす憂き目を見ることとなりました。 さて此の事件:元禄14年(1701)江戸城で、天皇の勅使の迎える儀式の日、接待役に任命されていた浅野内匠頭長矩が松の廊下で高家【儀式典礼等の作法指導の任を司る老中直属の幕府役職】の吉良 (上野介)義央(よしなか)に刃傷に及び即日切腹・播州浅野家断絶となった。当時「喧嘩両成敗」となっていたが、将軍綱吉の時代:吉良上野介には、なんの咎めも無く、 浅野には訳も質(ただ)さずに即刻の切腹を沙汰した幕府重臣達?の思惑は、脚色された「忠臣蔵」の世界からも刃傷事件のホントの原因が何なのだったか分かってはきませんが、家老大石良雄をはじめ遺臣は抗議し籠城さえ決意した様です。内匠頭の弟・浅野大学をもって浅野家再興を願い開城となり、 代わって永井家が3万3000石で入封された。
珍らしいと思い:再び刎橋門を…

浅野家再興は叶わず、一方・上野介の隠居願いが通りなんの処分も無く、片手落ちの裁決はそのままとなっています。赤穂の塩の話・浅野家の小姓の話・そして儀式について何の師事もなく 恥を晒したとする「忠臣蔵」お決まりのシーンにも少し無理が有るようです。
【注:長矩は天和3年(1683)にも勅使接待役を拝命し無事務めた後、 浅野長治(備後三次城主)の娘・阿久里姫と結婚しています。この時も高家肝煎の一人・吉良上野介義央が勅使接待指南役に付いている。吉良に何かの遺恨はあったのでしょうが明確な理由は分かっていません。 勅使を迎える準備期間中・吉良は高家のお役目で一ヶ月余り上京しており、 長矩だけが準備に追われていたとも云うが其れが遺恨とは考え難いし(^_-)-☆】翌・元禄15年12月14日、大石内蔵助以下:赤穂の浪士47名が、 「目指すはただ一つ、仇敵吉良の首」と主君の仇を討つため吉良邸に討ち入った話だけが赤穂城を語る全ての様に語り継がれて伝わります。
加里屋川沿い(船入)側の塁

浅野氏断絶の後の元禄15年 (1702)下野(しもつけ)国烏山城(栃木県烏山町)から、永井伊賀守直敬が3万3千石で入部したが1代(在城5年で信濃国飯山に転封)で、宝永3年(1706)に備中西江原より森和泉守長直
【「本能寺の変」で織田信長と共に壮絶な最期を遂げた森蘭丸を祖とする】が2万石で入封され、 森氏が老朽化した建物を修理しつつ明治維新まで163年続き、第12代森忠義の時に明治を迎え明治4年(1871)廃藩置県の翌年:廃城令により破却され、屋敷は民有地に払い下げられたが 三ノ丸武家屋敷地域(現:大石神社付近)に大石良雄邸長屋門と近藤源八邸の長屋遺構が残され:大石邸長屋門は国指定史跡、 近藤邸長屋は赤穂市本丸庭園や御殿の間取りもんnよくわかるように整備され、 随時復元工事が現在も進められています。指定文化財となっています。
昭和27年(1952)赤穂義士自刃の250年祭記念として大手門・大手隅櫓と城壁の一部が復旧され、赤穂城跡は昭和46年(1971)3月国の史跡に指定されたのを期に公有化が図られ、 昭和57年(1982)には赤穂高等学校の校舎が城跡から取払われ、天守台が残る本丸跡が発掘調査されます。
赤穂城周回ゴールは西駐車場の 塩屋門

本丸庭園や御殿の間取りもよくわかるように整備され、随時復元工事が現在も進められています。 本丸門は平成4年:文化庁の地域中核史跡等整備特別事業として、全国で初めて採択され国・兵庫県の補助を受けて、明治時代の古写真をもとに、古絵図をはじめとする文献類・発掘調査の成果を総合的に検討して、 大手門枡形や水手門石垣は、国産材を使用して昔どおりの伝統工法によって、総事業費約6.7億円をかけ平成8年3月往時の姿に復元整備されたものです。本丸庭園は近年発掘調査された二之丸庭園(錦帯池)と共に、 平成14年(2002)国の名勝に指定され、現在もなお本丸・二の丸・三の丸の復元整備がすすめられ篠山城(兵庫県篠山市)共に復元される城址公園には期待がもてます。 赤穂城は昭和46年(1971)国史跡に指定されています。

(現地:赤穂城内各所の案内板及び本丸庭園冊子:赤穂市教育委員会 ひょうごの城紀行及び 「郷土の城ものがたり」兵庫県学校厚生会 Webフリー百科事典:ウィキペディアを参照)
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