明石氏の城は神戸市に在る!  枝吉城・下津橋城・吉田王塚古墳・福中城・埋蔵文化財センター
神戸市西区  (五万図=高砂)
明石川を挟んで明石市側から神戸市側の城址と古墳の史跡巡り 2007年09月01日
神戸市のアカシゾウ…神戸市埋蔵文化財センター 2008年01月11日
近畿の山城: 枝吉城 下津橋城(下津橋構居) 福中城

         吉田王塚古墳 高塚山古墳
下津橋構居には濠跡と高土塁の残欠が残る

母を明石市○○病院まで診察に連れて行く事が多くなった。診察終了までの間は妻に付き添ってもらい、折角遠く迄で来たので・廻って来れそうな近在の史跡を探して歩いてみた。南側の明石城へは10分程で行けるが、北側の病院近くを流れる明石川支流を越えると神戸市西区に戻る位置。 R175号に戻り県道21号沿いに吉田郷士館を目指す。此処に明石氏の本城枝吉城が在った。
吉田王塚古墳をモチーフの庭石(郷士館脇の枝吉城登城口)

天正13年 秀吉の国替えで高山右近が此処に入るが船上城(明石氏の城・明石城に対して古明石城とも呼ばれる!)の移り、右近が国外追放後元和 3年に小笠原忠真が入るが、 現在の明石城を築いて移った為に三つの明石城が存在したことになります。


吉田王塚古墳(檜笠岡王塚古墳)    神戸市西区王塚台三丁目

吉田郷土館脇から枝吉城へ向う遊歩道の登山口前に、吉田王塚古墳の屋外模型(古墳をモチーフとした庭園の庭石の様)が其の一角を占めて造られています。郷士館から枝吉城本丸跡・吉田遺跡の碑を見て明石氏居館跡の神本神社へ降り、 濠に囲まれた大手口が有ったと思える南端から城外西を、北に向かい県道21号に出て王塚台住宅地を抜け大塚公園を目指します。
大塚公園・周濠に囲まれ よく原型を留める前方後円墳

丹波・雲部車塚古墳と同様に此処も・陵墓参考地として宮内庁管理下にあり 立入り禁止ですが周囲は王塚史跡公園(丸山公園 )なので周濠を隔てて傍観するだけだが濠が廻らされて良く原形が保たれた古墳で、墳丘に埴輪列を有し内部主体は竪穴式石室とみられています。 5世紀後半〜6世紀前半頃築造された王塚古墳群の一つで明石川流域(明石平野)最大の前方後円墳【全長102m・前方幅35m・後円丘の高さ8m(後円部径42m)】で明石平野を支配した豪族の墳墓と推定されます。
もとは陪塚と考えられる3基の古墳も在ったが、宅地開発造成が進み其れらは消滅したと云われます。その後「日本書紀」よると推古天皇11年(603)の条に、征新羅将軍:當摩王子(たぎまのみこ)が 難波より出帆するが、其の妃・舎人姫王(とねりのひめおほきみ)が病死され、赤石の檜笠岡の上に葬られたと記録されており、其れが此の古墳に該当するものだとされています。 (現地:王塚古墳の案内碑 神戸市教育委員会資料を参照)

神戸市埋蔵文化財センター   神戸市西区糀台(こうじだい)6丁目 西神中央公園内

神戸市埋蔵文化財センターは神戸市内の 発掘調査による出土品を調査・整理・保存・展示され、 1階には常設展示室・企画展示室・収蔵展示室がある。収蔵庫も棚の小ブースごとに出土地域・所在地を記して分類、目のとどく外周部分を、照明とガラス張りで出来る限り見学できるよう配慮されている。製品等の腐食を防ぐ為の特別収蔵庫も、見難い三角窓ながら内部の収蔵品が覗き見られます。
神戸市埋蔵文化財センター

2階は収蔵庫(立入禁止)・3階では 発掘調査終了後、センターに運び込まれた出土遺物をクリーニング・復元する作業室・整理室も公開されており、遺物整理や処理作業の様子整理作業をガラス窓越しに見学出来ます。
神戸市にアカシゾウ!!? 木一階エントランスにはアケボノゾウ(アカシゾウ)のレプリカと、其の頭部前には実物の化石が展示されています。 昨年末・明石の屏風浦海岸に行き明石象化石発掘地を見てきたばかり。アカシゾウは昭和11年(1936)明石の海岸で 発見されパラステゴドン・アカシエンシスと名づけられていますが、一般的にはアカシゾウの名で知られるところです。展示のレプリカは昭和62年(1987)神戸市西区伊川谷町の西神住宅団地造成中、約200万年前の地層から発掘された、年齢50〜60才の雄ゾウと推定される象牙・臼歯や頭蓋骨の破片・肋骨・足の骨等、 粗全身の化石が出土しています。関東でもアカシゾウと同じ特徴を持つ象の全身骨格が発掘されています。
アケボノゾウ(神戸市のアカシゾウ)

「コウベゾウ」「○X△ゾウ」の名は、初めに命名されたアカシゾウとは明らかに違った特徴から、 別種と認められれば大手を振って歩き出す名称ですが、それでは何故アカシゾウがアケボノゾウと 呼ばれなかったのか疑問が出てきます?。アカシゾウのグループでは一番早く・大正7年(1918)三重県で発見され命名されたアケボノゾウ(アカツキゾウ)【後に「ミエゾウ」と呼ばれた!!】に統合されるのかも?。
西神中央公園・埋蔵文化財センター前の芝生広場

アカシゾウは 此のアケボノゾウの仲間であるとされ、 正式名称はアケボノゾウと呼ぶのが正しいとされます。アケボノゾウは今から約200〜70万年前(新生代第三紀鮮新世末期 〜第四紀更新世前期)九州・西日本から関東地方にかけての 広い範囲に生息していた体長約1.5〜2m前後と小型ながら1m程の長い牙を持つ、日本独自の進化をとげた世界でも古いタイプの象とされています。 ステゴドン【屋根(ステゴス)のような歯(オドントス)を持つゾウ 】と呼ばれる絶滅したグループに属し 、特徴の臼歯には硬いエナメル質の三角屋根を重ねたような構造がみられます。
高塚山古墳(1号墳)西神中央駅に立ちショッピングゾーンから続く中央公園に向かうと神戸市埋蔵文化財センターの屋根と広い芝生広場が目に入る。 西神中央駅を挟んで南に中央公園が有り、北側には高塚の名を冠した名称が多い高塚台で、高塚山があり一帯に古墳が点在していた地名とおもわれます。芝生が拡がる広場の彼方此方には、灘区桜ヶ丘で発見された銅澤や住吉東古墳から出土した馬 ・家型・円筒埴輪等のレプリカが置かれ、センター前には 天井石が外された状態で高塚山古墳群1号墳(横穴式石室)が移築復元され、上部や前面からガラス越しに発掘状況が観察できるよう展示されています。
高塚山古墳1号:玄室はT字形プラン

此の高倉山古墳は学園都市側・山陽新幹線の高倉山トンネル上 (垂水区多聞町小束山)の尾根や山腹に直径10m前後の15基程の円墳から成る古墳群で、うち9基が発掘調査され馬や魚の線刻画のある石室や石室内で火葬された跡が発見されました。 中でも移設復元された1号墳は玄室・前室・羨道から成る複室構造の横穴式石室を持ち 【全長9.6m・羨道部5.6m・玄室まで幅約1.2m】しかも玄室の幅(約2m)が奥行き(約1.2m)よりも長い T字形プラン構造の古墳は大変珍しくて全国に約90基、兵庫県下では4基(篠山市の稲荷山古墳 ・朝来市の奥山1号墳他!!?)を数えます。高塚山古墳群2号墳 【一辺約11mの方墳・横穴式石室を持ち、全長6.8m・玄室長3.5m・羨道長3.5m】右片袖式で玄室左側壁の一石材(此の石材にのみ)には線刻された画が描かれていた。
高塚山古墳2号:馬の線刻石材

石の面はノミで綺麗に加工され、 馬や甲の字形や三角形や直線を交差させた家様が描かれており、石室内のあった土器から古墳時代後期(6世紀後期頃)に描かれたものと推察されます。石材が1階エントランスのアケボノゾウ展示背後から 2〜3階への階段口・壁側に展示されています。
(現地案内説明板 神戸市教育委員会(平成5年3月)他を参照)



 枝吉城  下津橋城
福中城

枝吉城(吉田砦)    城山 26m   神戸市西区玉津町枝吉

明石城から西北へ約3.5km程か !?明石城の外濠ともなった明石川の西方・R175号線森友の交差点(バス停は吉田)を越えて県道21号沿いに400m程進むと殺風景な景観の中に突然・一部に翠濃い杜が見えてくる。其の宅地に囲まれた僅かな緑地を背にして、吉田郷士館と神本神社が建ち、 郷士館横から「枝吉城跡へ」の標識が立ち、切り立つ背後の頂部へと遊歩道が続く。
今はただ・・想いを馳せる枝吉城の縄張り図

明石川西岸にある極小の独立丘陵部一帯は 播磨吉田遺跡(弥生時代前期の集落遺跡 )上に築かれた枝吉城跡ですが、 土地区画整備事業により大部分は宅地造成されており、郷士館脇に有る「枝吉城郭配置図」からは其の本丸部の東端・明石氏居館跡とされる郷士館と神本神社と背後の丘の一部を残し其の頂部には 「播磨吉田遺跡」と「枝吉城址」の顕彰碑が建立されてはいますが遺跡保存とは程遠く、ただ平坦に整地された台地だけの公園となっています。吉田郷士館脇から城址に向う登り口には枝吉城址縄張り図と 吉田王塚をモチーフとした石庭風の造作が有り、此処:吉田遺跡から出土したものか?家形石棺の棺身台部が置かれている。上面縁の水溝や水抜き穴らしい刳り貫き穴は、神社の手水受けか?・ 馬等の飲用水槽にでも使用されていたのでしょう?。脇数段有ったと思える 曲輪の段差・切岸端や 下部の曲輪?に延びる土塁状の盛り上がり ・東屋休憩所や吉田遺跡碑が立てられた土壇の高みに櫓台跡を想像するだけです。
吉田王塚をモチーフの庭石と並ぶ 家形石棺の棺身台

郷士館からの遊歩道から本丸曲輪に出る手前・崖状の斜面に三つばかり割り石加工されている様な ?角石がみえるが城遺構か吉田遺跡の 遺物だったのかな…?。枝吉城は室町時代中期:永享元年(1429)頃【資料は不明だが神本神社前・報恩寺建立の時期】播磨守護赤松氏に従っていた東播磨地方の有力国人 ・明石氏は平安時代の明石郡に勢力を持った大領(たいりょう=郡衙の長官)を先祖と伝えられる此の地の土豪で、もと下津橋構居(枝吉城の北方約900m・R175線出合交差点近くの西光寺)にいたと云われます。 初代明石(越前守)尚行が枝吉城を築き此処を本居城として伊川城・下津橋城・菅野城などの支城を築き 一族を配置します。居館(郷士館と神本神社に在った)を中心に城下町が形成され、北屋敷・南屋敷・連雀(商家!!)・城ケ内・垣内などの地名も残り、武家屋敷や寺院・町人の区画があったようで 一時は地域の中心として賑わっていたとされます。

明石氏居館跡 (神本神社)背後の丘が枝吉城址

枝吉城は其の後 (南北朝の合戦時期や天文年間の三好氏・細川氏との紛争時期か!!…播磨赤松氏の盛衰には 従ったり叛いたりしているが)二度の合戦を経て城下町もその度に戦火に遭った。応仁の乱では4代目明石(修理亮)長行が 赤松政則軍に参戦して山名氏を播磨から追い、再び旧領地の明石の地を回復します。 明石越前守(左京亮)祐行の子:六代目明石(左近助)与四郎則実(のりざね)は別所重棟(三木城)や間島彦太郎(神戸市平野区の福中城)等と共に安土城で信長に仕えていたが天正6年(1578)中国の毛利攻めで播磨に進軍した時には、総大将羽柴秀吉に従い端谷城攻めや 三木合戦では野口城や三木城攻めに参戦しています。 三木合戦には父・左京亮が別所方に付き此の合戦に討ち死にします。
枝吉城址碑(手前)と吉田遺跡碑(最奥部)が立つ主郭

天正8年(1580)秀吉の命によって枝吉城は破却され、明石則実は三木城参戦等の功績により天正13年(1585)但馬国豊岡城に転封された。 【則実は文禄4年(1595)関白:豊臣秀次事件の際、謀反の嫌疑に連座し切腹させら明石氏は滅びます】その後にキリシタン大名高山右近重友が6万石で枝吉城に入り最期の城主になったと云われるが 間もなく船上城(もと明石氏が領有しており、現:明石城に対しても明石古城と呼べる!!)を築き資材を移して枝吉城は廃城となった。
(現地:郷士館 ・神本神社の案内板 を参照)
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神本(こうのもと)神社境内に居館を構え、詰め城の枝吉城を背後の丘に築いた明石氏のセットの 縄張りといい、城下町が形成されていたという其の遺構が、今は何も残されず消滅してしまったことは残念です。 神社の創建は初代明石藩主となった小笠原忠正時代・元和5年(1619)社領田・三反歩が寄進され、元和7年(1621)明石郡林崎庄吉田村に「神本大明神」として・・
明石氏居館(神本神社)

祭祀されたことに始まり、明治7年には村社に列せられ「神本神社」と称せられた。 また大正7年には神饌幣帛供進神社として指定される。境内には、本殿・拝殿は昭和50年1月、区画整理事業施工のときに改築され、長納屋(東庄・南庄)、長納屋(北庄)は其々撤去された。 鳥居は平成7年1月、阪神大震災により倒壊したが、同年に復旧され現在に至る。
(現地案内板:神本神社由来記より)


下津橋城(下津橋構居)   神戸市西区玉津町出合

王塚古墳からはR175号線とほぼ平行に北西へ住宅地やバス道と交差しながら王塚団地を北端に出て玉津町出合に向うが車道は極端に狭く屈曲して、行き止まり状態になる箇所もある様なので枝吉城〜王塚古墳〜下津橋城(構居)は"歩き"が正解だったかも(^_-)-☆下津橋城は 現在の宗賢神社と金橋山西光寺 (明石西国12番札所・浄土宗・総本山知恩院)のある場所に在り、
下津橋構居(西光寺)・背後の竹薮に大土塁が残る

かつて明石氏が領主であったということしかわかっていない為、推測するしかないのでしょうか!!?。 近くには明石氏の本拠城である枝吉城が有って、其の支城だったとは思われます。 戦国期:応仁の乱の頃に活躍した枝吉城4代目城主となった明石(修理亮)長行が在城していたとも伝えられていますので、明石氏が枝吉城に移る以前の城であったとも推測されている遺跡である。
幅広い土居上部は櫓・塀の設置も可能!

西光寺・宗賢神社へは 標識も無いうえ狭い道が交差する度・北に直進できず一端R175号線に出て「出合交番の交差点」の標識を見て西へ向かうと、枝吉城同様・其処だけ周辺には無い緑地と寺の屋根が見える。 北側から大回りしてヤッと目的地。小さな溝は環濠跡なのか?西光寺に隣接している宗賢神社境内と寺の境の細い路地の東側は竹薮となって、這い入る隙も無いほど(・・といっても 立ち入り禁止で鉄線が張られている)に密生していますが土居跡の片鱗が見られます。
下津橋構居・西光寺側土塁の残欠

寺と土塁の北側は水田となり、 東へ延びる藪の土塁線に沿った水田境は、環濠跡と思われ東側の土塁線が切れる宅地と神社境内端まで外側に濠跡が残ります。土塁は宗賢神社の赤い鳥居の東側から北にかけて竹薮が薄くて、 よく観察できますが、寺側へは藪も濃いが急斜・土砂も崩れやすくなっているようです。危険の為 「立入り禁止」の札と鉄線が土居に沿って廻らされています。下津橋城(構居)の規模は判りませんが、宗賢神社側を主曲輪として西光寺境内も含めた方形の館城であったと考えなければ、 小さくとも防備施設を備えた環濠の豪族屋敷のイメージは湧きませんね。
下津橋城(構居)の土居:南宗賢神社側

周囲を農地と宅地に囲まれ高低差もない平地の中に在る「下津橋城」は攻防用の砦ではなく、農耕生活のための豪族屋敷地だったそうですが、 環濠と遠目には小さな丘を思わせる竹薮の内部は土居囲みで、屋敷を防備して戦闘にも備えた、高さ6m余りの大土塁の残欠が北東角に残されています。竹薮の竹や矢竹が竹槍や弓矢用に利用する為の ものとは充分推察されますが構居の屋敷イメージからはどうだったか!!?北側〜東側を高土塁で囲み南面〜西面に拡がっていたと思える水田を沼田濠として防備していたのでしょう…か?。


福中城(向井砦・向井城・平野城)    神戸市西区平野町福中250(字本丸)

西明石へ向う県道21号から森友交差点に出てR175号線を北上しながら下津橋城 の所在を 占めかのような雑木・竹薮の杜を左手に見て「出合交番」の交差点から 明石川に架かる玉津橋を越えると海も明石も遠くなったと感じる。第二神明道路の玉津インタの高架を潜ると緩やかな登りが平野町の小学校校門前を峠のピークとして続く。
寶珠寺南面・車道上一段高い畑地から

東側に平野八幡神社の 看板を見る辺りから若干傾斜が増して来るようですが八幡宮には三木合戦の際・間嶋彦太郎が城から矢を放った為に秀吉軍に城の所在が判って攻められ落城したとも云い、その矢が奉納されていたといい、 代々間島氏子孫が保管されている弓矢は、神社の秋の例祭に持ち出され奉られるそうです。また射かけた矢は3kmも離れた印路にまで達したといい、此処に「矢の坂」の地名が残されたと云われます。 福中交差点を西に折れて北へ延びる集落内の細い車道が此の小学校校門前でR175号に出てくる。 その中程に清涼山寶珠寺(曹洞宗)があり、福中城主間島彦太郎菩提所で、寺と墓地への参道入口に寶珠寺「福中城主・間島彦太郎 菩提所」の看板が建てられています。
寶珠寺参道口の案内板!

R175号線の西に沿って延びる寶珠寺付近の台地は、 此処で高い段差で低くなり西面一帯に田園風景が拡がります。此処に内堀 ・外堀・土居囲いの中世の城館遺構が残っていたそうですが、今ではその遺構も殆ど残されていないとされますが、 田園地帯の西方から東のR175号側を望むと墓石の並ぶ寶珠寺の高台・下段の田畑からの高い段差の切岸に曲輪や濠が 廻っていた様子を想像することは可能です。福中城の間嶋氏は赤松十八家の一つで、 赤松則景(宇野氏)の子景能が間島(間島)氏を称したとされますが代々・彦太郎を襲名する。 山門脇の間嶋彦太郎が室町時代:文明年間(1469-87)平野庄を領した初代彦太郎のものか ?・三木合戦に別所方・秀吉方にと父子で分かれて戦ったが、 落城後に父の菩提を弔うため其の子:間島因幡守彦太郎が文禄元年 (1592)寶珠寺を創建しており、其の父子:彦太郎なのか??
福中城主・間嶋彦太郎を 祀る五輪塔

山門脇に彦太郎の五輪塔が3基並んでいます。間嶋彦太郎については清慶寺の南帝塚 に関する伝承でも 知られるところです。嘉吉の乱による赤松家滅亡後、室町幕府は「吉野の後南朝を退治し ・その手中にある三種の神器を奪還することが出来れば、赤松家の罪を赦し主家の再興を認める」という。 間島彦太郎・上月満吉・中村貞友らの赤松浪人達は、吉野山に入り後南朝に召抱えられ彦太郎等は自らを「赤松則繁の子息」と称し、同じ足利家に恨みを持つ者どうしと考えた南朝側は赤松浪人を警戒していなかった。 すっかり油断していた南朝の皇子二人を同時に襲撃し殺害し神器の奪還に成功します。此の功により長禄二年(1458)室町幕府は赤松浪人の功を認め、赤松政則に加賀国半分・備前国新田庄などを与えて赤松家再興を許ます。 垂水区の 端谷城の衣笠氏も同じく播磨守護赤松円心の弟・敦光から出た別所氏の一族で赤松政則に属し、応仁の乱(1467-77)等で活躍した軍功によって端谷城を築き衣笠姓を得て入部。
寶珠寺南面の田と東の国道側

その後:福中城の間嶋氏(平野町福中)などと勢力争いを続け、 戦国期:東播磨に勢力を張る別所氏(三木城)の支城として機能しています。一方・福中城も応仁の乱後の文明年間(1469〜87)以降:間嶋氏が代々彦太郎を名乗って此の地を治めていたが、 天正6年(1578)三木城攻めが始まると父は端谷城の衣笠氏・淡河城の淡河氏等、東播磨の多くの諸城主とともに別所方として参戦し、息子は羽柴秀吉方に属したが他の福中城は諸城と共に豊臣秀吉に破却されます。 秀吉方として戦った彦太郎は秀吉の警護役として淡路に岩屋城を与えらています。
(寶珠寺案内板 等参照)

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