丹波の年中行事 一月  応地の「蛇ない」と其の伝承
T「蛇ない」と伝説 応地の道祖神  U「朝寝の森」と「塩坪」
V 足利橋(二重川)  W 「至り山の古歌碑」 X 三ッ塚古墳
T 応地の「蛇ない」  丹波市山南町応地


毎年1月【15日(成人式)に行なわれてきたが第二日曜に変わった。朝8時頃より秋に収穫の新藁(今年藁とも云う!)を応地集落の村人が大歳神社に持ち寄り、二匹の親子蛇を藁縄で綯(な)上げ頭・胴・尾を三つない状に長さ10m・太さ15cm程の大人の蛇と平成元年からは行事を子孫に正しく継承するために
大歳神社の蛇ない

子供会員の手で少し小さ目の子供蛇も造る様になり二本の蛇を綯(な)い上げ、その大蛇をかついで村中を練り歩き無病息災五穀豊穣を祈願して各家々を訪問する山南町指定【丹波市指定H6.12.16 無形文化財】
家々を周る「蛇ない」

大歳神社側から佐治川筋の県道532号に出てくると交差点付近でも一度・蛇が暴れまわります。暴れれば暴れる程その年は豊作になるとも云い伝えられるこの「蛇ない」も大蛇の頭部を綯(な)える人が少なくなってきて蛇のサイズも段々と小ぶりのものになっているようです。
大人の蛇にはお神酒が振舞われ

頭部が綯えなければ廃るのか?…地元「蛇ない保存会」メンバーには 伝統 行事と藁を綯う技術の継承を願い エールを送ります…。私に出来ることは・より多くの人に正しく、できるだけ詳しく知ってもらうこと…!行事の起源等を示す文献等は現存せず
子供の蛇には祝儀袋が渡される

いつ頃から始められたものか不詳ですが藁や農耕機具類を使用する祀り・文化や祈願・奉納行事の体系からか?民俗学上、江戸時代の始められたものとする説が有力な様です。
以前:篠山川と佐治川が合流する井原橋下流から加古川と呼ばれてきたが上流の佐治川も含め加古川と呼ばれるようになった。篠山川合流地点から5km上流の応地集落を流れる昔の旧佐治川筋は大雨による増水で度々氾濫した。
佐治川に降りて水を飲む「蛇ない」

此の行事は或る年:村を流れる佐治川の川向こうで遊んでいた子供達が急な大雨でみるみる増水し急流となり橋も流され村に戻れなくなったとき、突然現れた大蛇が胴体を橋の代わりにして子供達を村に返してくれました。
家々を周る「蛇ない」

それ以来・村人達は大蛇に感謝して村の入口:川の畔にあった樹齢350年ほどのアカマツ(雌松)とクロマツ(雄松)二本の松の木に蛇を模った藁で綯った造り物を架ける様になったといいます。佐治川の氾濫が起きないようにとの村人の素朴な願いや、もし氾濫が起こっても其の被害を最小限に止めたいとする一種魔除け・厄除けの意味が込められていると考えられています。其の2本の大松も昭和39年にアカマツ(雌松)が立ち枯れで伐採され、残るクロマツ(雄松)も道路拡張工事で伐採されました。
大歳神社の蛇ない

今では此処・大歳神社境内の入口にある2本の松と奥本殿への参道脇にある摂社に架けられる様になり、当年綯った「蛇ない」のへびも行事の終えた後・掛けられています。当日は朝8時頃に藁を持ち寄り集まった村人によって境内の二本松から新藁に掛けてある前年造った「じゃない」の大蛇と摂社 (神仏混淆の遺物:薬師堂か?)の正面に架けられている「じゃない」の
家々を周り、辻で暴れる「蛇ない」

子供の蛇を下ろして、とんどにして燃やしたあと、今年の新しい「じゃない」の蛇造りの準備が進められます。藁のはかまを削ぎ取り除き「てんころ」で藁を打ち柔らかくしてから藁で頭から尾までを順に編んでいく。頭部は上顎・舌・下顎の三つの部分からなり、此れを綯える技術を持つ人が少なくなっているのが伝統行事を継承していく上での課題となっています。
大歳神社に向う「蛇ない」

頭部ができると胴体を編んでいくが1本4〜5cm程の太さに束ねた藁3束で三つない状に編んでいくと、その太さは15-18cm程にもなる。この作業は強いカを必要とするので男衆が3人掛り。約7〜8m程になってくると尾の先が三本に分かれた尻尾にとりかかる。子供の蛇も綯いすすんでくると時々は参加している子供達が大人の指示指導で、三つ綯いに挑戦しているが強く綯いきるには力不足。
お神酒を飲ませて本殿に参拝する

綯いすすむうちに・はみ出す胴体のケバを鋏みで切ったり綯い上がった後で焚き火でケバを焼き切って綺麗に仕上げたあと午前10時過ぎた頃には綯い終えて、二体の蛇のトグロを巻かせて・お神酒を飲ませる。いよいよ御幣を持った今年の役の先導で大人達と子供達に担がれた二体の蛇は大歳神社本殿に向い石段を登っていきます。
大歳神社に参拝の「蛇ない」

大歳神社の拝殿に参り左周りで本殿を周回して本殿下の左右二社の摂社に参ったところで、お神酒に酔ってか?一度・境内を暴れます。其の後:神社石段を担がれて降りた蛇は集落内を練り歩きながら各戸を訪れ、家族一同の無病息災や五穀豊穣を祈願します。玄関内に迎えた家人から大人の蛇には御神酒が振舞われ、子供の蛇には口に祝儀袋が挟まれるが勿論祝儀袋は付添いのお母さん方の手に素早くながれていきますが…。
お神酒に酔って?暴れる「蛇ない」

集落から佐治川(現:加古川)に沿って走る県道に出てくると広い交差点付近の車道でもお神酒が入った所為でしょうか?酒癖悪く此処でもひと暴れします。此の後:佐治川の川原に下りて水を飲む所作は何を意味しているのかな?家々を廻って大歳神社に戻った蛇は松の木に大人・摂社の正面には子供の蛇が架けられ胴体に御幣が立てられて「蛇ない」の行事を終えます。
集落内を廻る二匹の「蛇ない」

松に架けられる蛇は翌年を待たず朽ちてしまうこともあるようだが摂社に架けられた蛇には御幣を立てたままの状態で残されています。大蛇に感謝する地区の蛇ない行事となっているが元々:自然に対しまた蛇に対する崇め ・恐れ・神秘性に無病息災・五穀豊穣・家内安全等を願う…古代からの宗教観が容(かたち)を変えながら江戸時代以後は蛇伝説として伝えられているのでしょう…。
(現地:山南町応地「蛇ない」保存会 案内板参照)


応地の道祖神   山南町応地

道祖神信仰の盛んな中部・関東地方に多く特に長野県安曇野市穂高には「石造双体道祖神:男女2神が手を取合い和合の形を示す相対像」が多いが此処:丹波にも珍しく存在している。この道祖神は応地部落の蛇ないで知られる大歳神社に近い岩室の中に祀られている小さな板石(高さ・幅ともに27cm)に薄肉彫された
丹波市山南町応地の石造双体道祖神

石造双体道祖神で衣冠束帯に笏(しゃく:束帯を着るときに持つ神具?)を両手に持っ男神・重ね衣紋に両手で合掌する女神の二体が褥(しとね:座ったり臥したりする時、下に敷く物)の上に正座した端正な姿。江戸時代中期以前?の作と考えられているようで谷(和田)氏の関連なら室町時代の為推察は遠のくが山南町(昭和54年3月13日)指定民俗文化財で
石造双体道祖神(雛人形の雄雛・雌雛を並べた様)

和田城(岩尾城)の北東山裾の搦手道か?岩尾古城(土の城)への大手登城口?と思える位置にある。氷上町中野・清住?にも「道祖神の里」の看板を見るが地区や村境・峠にあって土地の人々の集落安泰・通行の安全や一家の息災・悪霊の侵入を防ぐ守護神で清住の里のは田ノ神か!?男根形で子孫繁栄・五穀豊穣をも祈願する村の守り神。応地の道祖神も当初は山に
陽あたり良好!の新天地に移り写真写りが良くなった

入っていく林道奥の藪地にあったが大歳神社から谷に向かう直ぐ上部(新設?された砂防ダム上への捲き道)側に移設されている。旧岩尾城主は信州(長野県)南和田村より来住した谷氏・谷氏の婿養子となった和田日向守も信州同郷の人。岩尾古城の城主に関連があれば珍しい道祖神の存在も合点がいきますね!!…
(現地:双体道祖神 案内板 山南町文化財のすがた 参照)
 

U 井原の「塩坪」と「朝寝の森」  丹波市山南町字朝寝の森

小川の里の南西部:山南町井原・奥・野坂・岩屋地区農地の田圃の中に塩坪と呼ばれる一画が在って石碑も残っていた。「溝下」と呼ばれる一帯が地籍調査されるので所有地立会いに出掛け朝寝の森の伝承石碑と案内板を見かけた。氷上町にも残る長者の栄華と都落ちした公卿が其処で亡くなった「朝寝の森」だが山南町にも民話が残っている。
朝寝の森・遠くに岩屋山(冨士形の山)と篠ヶ峰(右端)

JAの倉庫の北西・旧スーパ○○跡地は40年程前に実施された構造改善圃場整備事業により石碑は灌漑用側溝を挟んだ向い側にわずかだが移転している。点名:野坂(4等3角点 81m)の標石も字名「朝寝の森」にあったが現在地より南20m程?に移され「朝寝の森」記念碑が建つ。塩坪は此処より南150mの田圃の中にあったようだが今では其の痕さえもなく一帯に森があった事が想像も出来ない。「塩坪」此の池の水は何故か塩からくて清めの池ともいわれ、 塩が米より貴重だった頃・人々は非常に珍重がり産後の不浄除けやハシカ・疱瘡等の病気にも効くと伝えられ、池の中には弁財天を祀って崇めた。平安時代中期・村には貧乏だが正直一点張りの若者がいた。好きで嫁いで来た妻も呆れる程だったが 妻を大切にする事でも評判だった。可愛い子供が生まれたが産後の肥立ちが悪く、日々痩せ衰えていく妻にどうにか元の身体にしてやりたい…と神仏に祈願するが一向に良くならない。
朝寝の森の碑から工業団地と石金山

若者は”溺れる者は藁をも掴む”心境で 国中に知られた阿部清明という有名な陰陽師を京に訪ねます。 一文の金も持っていなかったが若者の真情に打たれ、すすんで易を立て「村に塩水の池があり其の水を産後の不浄除けに用いればこんな事にはならなかった筈…急ぎ帰って用いよ」と告げるが「あの水は高貴な人々のみが用いるもの。貧しい者にとっては思いも寄らない」と…。 しかし塩坪の役人も若者の言葉に打たれ塩水の汲み取りを許した。不思議!生死を彷徨っていた妻もやがて全快し其れを伝え聞き水をもらう者が後を絶たず、やがて池を開放したところ利用者の喜捨によって一宇が建てられ崇め祀られた…。地名井原は此の原っぱの中の塩坪の井が語源なのかな!と思ってみる?
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「朝寝の森」 県道側にス−パ○○が建設される際:田圃跡の地表に掘立て柱跡らしい遺構調査された痕跡があったよう・詳細は教育委員会の発掘調査報告書に載せてあるかも!?。其の昔・此の広い平坦地が拡がる田圃の中に森があり、中央は広場となり小さな社やお堂が建ち畑があったそうです。村人達は働き者で田植えも近くなると朝早くから田を鋤で起こし・畦を塗り田に水をはって田ごしらえが済むと組を汲んで助け合い互いに田を順番に廻って田植えをします。
朝寝の森の碑(農道分岐部)とイタリ山・白山〜妙見山の稜線

あるとき・旅の坊さんがやって来て此の村に子供の少ないこと・母親の顔色の悪いことに気付き、放っておくわけにはいかないと村人をお堂に集めます。「此の村は赤ちゃんが生まれるのが少ないようじゃのう…」「生まれても直ぐ死んでしまう子が多くてな…」「顔色が悪いようだが働きすぎて身体が弱っているようじゃのう…」 「無理しても働かんと ゆっくりせえ・と言うんじゃが 嫁は働きもんでの…」と自慢してはみるが、「肉や魚をしっかり食べているか…」と問うても「肉や魚は正月や節句の時だけやけど、ご飯だけは腹一杯食べてるんや…」海の塩辛い魚や昆布等は、此処は海が遠くてなかなか手に入らない。其の上高くて滅多に買えない…」「それじゃ・あの塩辛い水を分けて貰えんのか…」「お宮さんの塩辛い水は都の人に差し上げるもので、何時も番人が見張っているのでのう…」「しかし塩もん食べて元気な子を、
現在の足利橋<二重川>

沢山産まなくては ・子供は村の宝やからのう…其れには先ず、おなかに赤ちゃんを持つお母さんには此の森のお堂で暮らすようにしたらどうか?…森の側の畑で野菜でも作って栄養の有るものを食べ、のんびり朝寝もして…塩辛い水を分けてもらえるようにお役人に、魚や海草は私が海の近くの寺に頼んでみよう…」とお坊さんは約束して旅に出ます。この事があってから・妊婦は森のお堂に集まって暮らす事となり、元気な子供がたくさん生まれるようになり誰いうとなしに「朝寝の森」と呼ぶようになったということです。
(由緒を尋ねて 丹波新聞社/ 丹波のむかしばなし第2集を参照)


V足利橋(二重川)  丹波市山南町井原

足利氏家臣の高師直と足利直義が対立した「観応の擾乱」の 内部抗争によって観応2年(1351)足利尊氏は 京を追われて丹波路に逃れてきた。執拗に追跡する敵勢に囲まれて井原の里に追詰められた尊氏主従は離れ離れになっていた。「敵将尊氏はこの辺まで落ち延びたと思われる。
以前の足利橋(二重川)

草の根分けても探し出し首級を挙げよ」下知する声に追手の探索の手は厳しく、逃げ場を失って井原の二重川に隠れてジッと息を呑む尊氏の耳へは、その人声や足音が響き「此れが、わしの最後になるかも知れぬ。40歳の生涯を京の小わっぱのために閉じると思うと無念、武人として潔く…とも思うが生きる希望を最後まで捨てぬぞ…」と息を殺して図太く考えていた。 その首筋にポトポト水が滴りかかります。追跡の兵の足音が遠ざかる頃、夕闇が二重川を取り包むと辺りが急にザワついて人の足音が乱れた。尊氏は敵が再び来たかと、からだを硬くして息を呑んだ。
現在の足利橋<二重川(天井川)

「足利将軍はおわさずや」そんな声が聞こえてきた。「敵ではない」そう思うと尊氏はもう隠れ場所から立ち上がっていた。 「尊氏は此処に居るぞ」相手の武士は夕闇の中に膝をついた。「久下彌三郎時重(玉巻城主)めにござります。暫らく援軍に参上致しました」…やがて尊氏は四散した一族をかり集め 息子義詮を石龕寺に留め、自身は再興を期して至山の稲荷大社に必勝祈願し西国さして落ち延びていきました。
イタリ山登山道中腹に有る稲荷大社跡の石垣

稲荷社は今は日吉神社の裏山に祀ってある。二重川は上段を岩屋谷川が南北に流れ下流300m程で加古川に流れ出、下段は東西に井堰溝(用水溝)が走る二重構造(二重川)になっており、其処に架かる橋を足利橋と呼んでその由来を伝えている。此処は旧山陰道・但馬街道で園部・亀岡や三田方面から篠山に入っても柏原へ抜ける鐘ヶ坂越えや、川代渓谷が悪路の為、篠山市味間から山南町阿草へ抜け下滝・久下を経て 井原に至り加古川(旧佐治川)沿いに氷上回廊を佐治から但馬方面に向かう要衝だった。


W イタリ山の古歌碑  丹波市山南町井原
  優美な名前の山に新生日本の姿を讃えた国学者・野々口隆正

「山南仁王駅」に実物大仁王像が建つ公園の西端に村誌・町誌…等郷土史に載る野々口隆正の歌碑が建つ。野之口隆正(野々口隆正)は江戸時代末期の国学者・歌人(寛政4ー明治4: 1792-1871)で石見(山口県)津和野藩士今井某。文政12年(1829)脱藩・父の没後今井氏のもとの姓:野之口と改めているが晩年には大国髏カと改姓している。
円応教本部側よりイタリ山と石金山

平田篤胤・村田春門(本居宣長の門人)に師事。勤皇の大義を唱え明治初年その功を認められて正五位を贈られた有名な国学者で文久年間(1861-64)京・大坂に私塾を開き数多くの門弟をもつ国学の大家は 尊王倒幕の志士と通じていると京都市中の警護に就いていた新撰組に狙われていた。その頃播州にあって尊皇派の小野藩主・一柳末延は隆正の国学を高く評価し天保7年(1836)帰正館を建てて迎え、藩主や藩の子弟に和漢の学を教授し名声は丹波・
イタリ山公園に有る隆正の歌碑

但馬にも及び当地の旗本:柏原藩織田家谷川陣屋代官の依藤平八郎も隆正を訪ねてその門下となっていたが、天保12年(1841)京都に移って報本学舎を開き・姫路藩にも招かれ嘉永4年(1851)には藩主の希望で津和野藩の国学教師として復帰している。江戸・京・姫路・津和野…へと頻繁に往来するなか・門人であった依藤平八郎(方敬)の招きにより嘉永3年(1850)野之口隆正が依藤方敬宅に客人として訪れ茶会を催したとき、美しく小高い山の名が至山と聞いて「いたり山 道のいたりは日の本の もとつ教えのほかにあらめや」と詠んで至山と日本精神のつながりを論じやがて来る新生日本の姿を讃えた。この歌の埋もれるのを惜しみ方敬や当時の庄屋広瀬氏・藤井医師の発起により井原・野坂・岩屋・奥の村人助役等が歌碑建立に助力された。
(「由緒を尋ねて」 昭和31年丹波新聞社発行 参照)


X イタリ山の「三ッ塚古墳」  丹波市山南町井原
  思出川とも呼ばれた篠山川に残る、都落した公卿家族の悲話

至山の麓に三ッ塚と呼ばれる古墳があり毎年9月18日には井原の後藤姓を名乗る人々の手で供養が行われているという三ッ塚をめぐる哀れな物語が残され、ミニ”道の駅・山南仁王駅”の西向いにイタリ山公園があり一番高い場所に”三ッ塚御霊古跡の由来碑”と供養塔が建てられています。「太平記33巻」に延文2年(1357)井原・思い出川の事として載せられているお話です。南北朝期・御所に仕えていた公卿で京へ攻め上った足利勢によって邸や財産を失い、京に身を置く所もなくなった公卿は2人の子供と夫人を連れて何処へとも当てのない旅に出た。

露岩クサリ場上から望む・多紀三岳や白髪岳

親子4人は道に落ちている栗や柿などを拾っては餓えを凌ぎ、流浪の旅枕は深い夜霧に濡れる日が続いた。餓えと疲労で丹波井原の里へ来た時に妻子の哀れな姿を見かねた公卿は自分の疲れをも顧みず付近の民家に一食を乞いに走り回っていった。物乞いに訪れたとある邸で「夜討強盗の手下だ捕らえて調べろ」…と。物乞いに出て余りに帰りが遅い夫を心配していたが堤の上から声をかけた百姓が「京のお人と思われる男の人が武家屋敷で物乞いをしたが強盗の手下と間違えられ拷問され…もう死んだかもしれない」 …母子三人は抱き合って秋草が咲き乱れる堤に泣き崩れた。行き先知れずの旅ではあるが夫が他界とあっては今後どうして生きられよう、冥土の旅に夫一人を立たせては申し訳ない…と思出川の深い淵に身を躍らせた。一方責め折檻を受けたが疑いは晴れたが妻子の餓えたる悲しさを思えばこのまま引き返しもならず、物乞いを続け菓子等を集めて川端へ戻ってみると草履や杖はあるが人気はない。
井原橋から佐治川・篠山川(左奥)・加古川(右)合流点

付近を探し回るうち、夜目にもそれと判る手に手をとった母子三人の無残な最期。 引き揚げた三人のからだは既に冷え切っていた。苦難を重ねてたどり着いた異境に妻子を失って華やかだった京の豪奢な生活、匂うばかり美しかった妻の思い出、苦しい流浪の旅…そしておそ月が井原の山を照らす頃、不気味な深さをたたえた淵に身を躍らせて公卿は生涯を終わったのである。翌日四人の死体は村人の手により至山の麓に懇ろに葬られ御霊と呼ばれ三ッ塚とも呼ばれるささやかな祠が建ち…年々悲しい最後を遂げたお公卿さんの霊を慰められているのです。

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