丹波市柏原町No1

おさんの森 茶臼山砦    




茶臼山砦:”諭しの山”の伝承と茶臼山砦
T:伝承 南北朝期・嘉暦2年(1327)丹波守護仁木頼章築城の丹波でも最も古い城の一 高見山城がある。古墳が点在し往古より開け歴史は 深いが日本一低い分水界が示す様に柏原川から佐治川(加古川)へ流れ出る付近は大雨の度に氾濫、湿地帯は穂壷城等には 格好の水濠となったのでしょうが南の山側では水不足、南北に延びる高見山〜石戸山〜坊の奥への尾根と南北には小南山塊の尾根に隔てられ
茶臼山砦西麓・宿舎駐車場から:山の神城・高見城・東鴨野城…を望む

陽の恩恵にも恵まれなかった土地で、沖田や挙田では陽を少しでも早く受けようと妙見堂の建つ丘陵や他にも ”陽場(ひば)”と呼ばれる所は年数回、雑木伐採や草刈りが行われているようです。この丘陵部の西方は開けて田園風景が拡がり正面には高見城山を望み、間を遮るものは何もありません。妙見山の祠や伝承はご存知でも茶臼山が城址?であった事と 其の伝承は御存知の方は少ない。小さなお堂の上部から高見城を望んで此処・妙見山の”さとし”の山・茶臼山の伝承を思い起します。 織田信長の「丹波平定」命令を受け侵攻した明智光秀は”赤井の呼び込み戦法”等により再々失敗した為に丹波攻めには慎重です。
妙見堂・崖の直ぐ先に消えた茶臼山砦が有った!

篠山市・丹波市境界の鐘ヶ坂に 金山城を築き拠点として周辺の諸々小城砦を攻め丹波市側の柏原八幡宮を焼き此処を本陣 【八幡山城<加伊原新城>】に真近に最後の城主・赤井忠家の拠る高見城を攻める為、 高見城に近い茶臼山に伏兵を送って監視させます。 しかし一向に高見城の城兵に動きなく「城は空っぽの様に静まっているぞ」「威勢に圧されて黒井城へ逃げたか?」「丹波鬼とも呼ばれる此処の奴等は強いので油断は禁物…」と話し合っていたが夜が更けるに連れて緊張の糸は緩みます。
茶臼山砦伝承地の妙見堂から高見城(中央)と東鴨野城(右端)

「一寸休ませてもらうぞ、なんせ三日三晩寝ずの番では…」「寝ていないのはお互いじゃ・交替で休もう…」交替の約束も相手の寝姿に、監視役も眠気に誘われ「敵も静かじゃ・俺一人寝ても未だ何人も居て見てくれる…」と一人・二人と 寝転ぶと残る者も堪らず、また早く起された者も夢うつつ。平穏な城の様子に心許し、戦陣の疲れに伝令の者さえ眠ってしまいます。柏原の本陣では何の連絡もなく伝令を走らせたが「敵情に動きはない」との返事のみ。不図・光秀は思い立ち早々に巡視に馬を引き出した。大声を出して馬の先に駆け出す小姓を戒めて密かに 茶臼山に到着した光秀を伏兵達は知らず眠りこけてた。
主曲輪?の最高地点から北の妙見堂へ3段ほどの段曲輪

怒りの目で睨みつけながらも兵を起さず、光秀は「此れでは伏兵の役目は務まらぬ、今後の見せ示めに…」と”明智の旗印”を持ち帰った。眠りから覚めた兵達は殿から預かった旗印が無いのに吃驚、打ち首覚悟で其の旨を本陣へ申し出ます。 光秀が自ら持ち帰った事が判り、無言の警告に心服し光秀の馬前で死ぬ事を誓い合ったと云い茶臼山を”さとしの山”と呼ぶようになったという。
(「由緒を尋ねて」 昭和30年丹波新聞 を参照)   **********************************************************

U 茶臼山砦 妙見山(茶臼山) Ca130m  柏原町下町字沖田

標高130m程の丘陵部(地元では妙見山と呼ばれ)稜上には妙見堂が祀られ山中には古墳群があって明治維新頃には刀剣や祭器 ・人骨等が発掘されていたようです。此処に雇用促進住宅宿舎が、其の埋め立て用土砂が搬出される事になり 教育委員会が古墳調査した際、円筒埴輪が出土しています。調査に入る前にも刀剣等が出たとの事だが重機で 粉々に押し潰されたとも聞く。

土橋付堀切付近から最西末端を望む

今は山麓が均されて団地・ゴルフ練習場にと姿を消し、 山上の妙見堂も尾根続きの南方に残る山稜端に移されたが、今も?4月24日には例祭が執り行なわれる。茶臼山砦は上記:明智光秀「諭しの山」伝承地として”丹波のむかしばなし<丹波の森協会>”や郷土史にも紹介され知られているが、丹波志の古城の部や寺社・町村の部にも ”茶臼山砦”の記載はなく、
挙田A古墳群3号墳?側の土橋付堀切状

地元郷土史の私本にも古墳は調査により認識されているが「砦とは関係なさそう」…との見解。氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書<1996年発刊>にも挙田A古墳群として3基の古墳が載せてあるが城砦については伝承のコメントもない空白地帯。 古墳3基のうち2基は発掘調査後に消滅。山稜に遺る3号墳も記載位置が違う様。 尾根最西端の断崖状側に二重構造の円墳がある。 其の形の茶臼(石臼)状からの山名と思うが、此の墳頂部マウンドを曲輪に取り込み、周溝ではないと思うが 古墳裾を廻り北側に二段の小曲輪が付随する。跡分布図の3号墳位置に近接してもう一つの古墳?間に土橋付き堀切状を観る。
主曲輪?(最高地点)から北の妙見堂へ3段ほどの段曲輪

遺防備というより城域を区分する為の浅い堀切!?。 説明順序が逆になってしまったが東への緩斜面最高所に主郭部と思える曲輪・東下段にも曲輪(平坦地形)があるが此処は柏原市街地から恩鳥坂 【県立柏原病院と小南山西南麓おさんの森も近い】を越える小峠だが旧山陰・但馬道を足下に監視できる位置にある。並行して北方へは三段程の段曲輪下に 妙見堂の祠が建つ。
西尾根先端部の二重構造「これぞ茶臼(石臼)古墳利用の曲輪!!

祠背後の土塁?(削り落しの残土)の 先北は宿舎・駐車場敷地。3基の内消滅した古墳2基(前方後円墳だったとも)が在った処。丹波攻略に金山城に陣していた明智勢は 加伊原新城(八幡山城)に本陣?を移し(其後・柏原から資材を運び金山城を改修する…)高見城へ攻め込むが、 此れを迎え討つ丹波勢(高見城穂壺城…の将兵)等による恩鳥坂での戦いが天王6年(1578)にあったと云い、此の戦いは丹波勢が勝利したが、双方の戦死者の霊を弔う地蔵尊が室屋(柏原病院の南)にある。
最西端曲輪(古墳?)北下に二段の曲輪が付随する

高見城主:赤井忠家勢が八幡山城へ攻め込んだと云うのは此の頃か?、しかし戦闘意欲の意思表示は叶ったが・おそらくは追返され成果はなかったと思うが…!!?。八幡山城にあっては 高見城 穂壺城に至る城砦群の動向を監視するのに西正面小南山が影となる。此の小南山の西裾を旧山陰街道が通り、 その西に近接する低丘陵が茶臼山で、比高僅か2-30m程だが高見山から鴨野への諸城は、挙田の田園風景が拡がり遮るものない監視砦として眺望が効く絶好の優良地形。



T おさんの森   柏原町下町字沖田

「浄瑠璃の古蹟ゆかしや 春の雨」  「この里に恋の茂兵衛や時鳥」
俳人松瀬青々氏の句
近松門左衛門・生誕350年を記念して「おさん茂兵衛DEたんば実行委員会」により創作市民オペラ「おさん茂兵衛・丹波歌暦」も上演され ”ふるさと丹波”を地元からも少しずつでも見直されてきたようです。浄瑠璃・歌舞伎・映画にと上演され好評のおさん茂兵衛悲恋物語は近松門左衛門の狂言「大経師昔暦」や「恋八卦柱暦」 ・井原西鶴「好色五人女・大経師おさん」の文で一躍世に知られることとなります。柏原町下町沖田のコミュニティセンタ側に「おさんの森」案内標識があり ゴルフ練習場との間を南に入るとおさんの森の遺跡で小さな祠があり「おさん茂兵衛を偲ぶ」と川口松太郎氏(近松の戯曲を映画化し、香川京子・長谷川一夫や、山本富士子主演の芝居「近松物語」で知られた)の碑も建てられています。
恩鳥坂(左丘陵上に小南山城:正面右の坂越えに柏原病院)

祠は「咳神さん」とも呼ばれ、咳や喘息に願をかけ、 肺の病の平癒を念じて”灰”を供えたり、なぜか「縁結びの神さん」としても恋の成就を願う若い人も参詣されているようです。以前は草道の荒れた薮の中に寂しく残されていたが、 先述のイベント等で訪れる人も多くなった様です。 低丘陵に沿って延びる一本の道は旧山陰道・但馬街道です。延喜式に云う山陰道は篠山市から山南町井原に出て佐治川沿いに通じていた。 篠山から鐘ヶ坂峠を越え柏原町内から「おさんの森」前を抜ける但馬 ・山陰への街道の要衝に変わってきた。以降のレポートは周辺整備される以前のものですが再訪(2012年12月末)では ・なにか場違いの場所に来た様な感じになった。
旧山陰道の面影残す”おさんの森”への道

石の階段・石鳥居・小さな祠も真新しくしかも屋根・扉・脇障子も石造り・石組みされたもの。 木造りから石造り…維持管理していく御苦労もわかるが遺跡周囲の以前の暗く 寂しい情景こそが戯曲 「おさん茂兵衛」にシックリと合うのに…と想うと、綺麗に整備されていることで却って”おさんの森”は殺風景な狭い場所 :歴史を偲ぶ場所では無くなってしまった様。
「珊瑚のかんざし落ちたる古蹟かな」「山の原西日卒塔婆に野菊かな」 俳人松瀬青々氏の句
物語のヒロイン花の京都室町通りの大経師(暦屋)以春の女房おさんは、華やかな京の町でも指折りの美人女房で衆人が振り返るほどでしたが夫は下女・お玉の容色に惹かれていた。夫に一度恥をかかせてやろうと ” おさん”は或る夜、お玉の寝床と自分のとを取替え密かに夫の来るのを待っていました。 行燈を消した暗闇では、入ってきたのがお玉の恋人手代の茂兵衛である事も解らず、遂に不義の契りを結んでしまいます。身も心も消え入る程に恥じたのもあとのまつり:
”おさんの森”分岐から茶臼山砦跡 (団地)と高見山城を望む

この上は仕方がない:どうせこの世の短い命・おさんと手代茂兵衛二人は死出の旅をと、行く先あてのない旅路を 続けねばならぬ身となってしまいます。茂兵衛の郷里・丹波路を春日町船城の山田へと向う途中恩鳥坂(おんどりさか)<現:県立柏原病院と小南山西南麓を越える小峠で旧山陰道>を此の柏原挙田の地迄逃れて来ます。 茂兵衛が都を後に故郷山田を目指したが、高見城山の北山麓・挙田の遠戚を頼ったとも !・鴨野で茂兵衛の生家を知る人の家に隠れ住んだものか?。一方・夫の以春も二人が丹波路に逃げ込んだことを察知して追っ手を差し向けます。船城(氷上町石生から春日町朝日・黒井境)方面は勿論のこと、
おさんの森(旧状)

婚姻関係も調べての探索に身の危険を感じて柏原境の恩鳥峠(柏原病院近く)を指して遁れるが、 二人は歩き疲れた上に追っ手の来る様子で森に隠れます。うずくまって鳴りを潜めていたが余りの驚きに”おさん”は息さえ苦しくなってくる。しかしドッと喉元をかきわけて思わず咳が飛び出します。「やあ居た此処だ」追手に見つかり 天和3年(1683)8月に捕らえられ9月22日京都粟田口で処刑されたとされます。下女”おたま”は茂兵衛の恋人ではなく、二人の逢瀬を手引きした罪で斬首刑にされている。二人が捉えられたところが「おさんの森」と呼ばれます。有名な戯曲とは別に茂兵衛の生まれた里(春日町山田)の金川家の伝承には:大庄屋金川家の三男・茂兵衛と幸世村に郷士の妾の子おさんは親同士が親しい関係にあって 許婚(いいなづけ)だったという。
おさんの森(現)

あるとき庄屋の家に代々伝わる家宝「雨乞いの名刀」"降呼刀"を、おさんの父が借り受けますが、また貸しのまた貸しで行方が分からなくなっていた。責任を感じた親元では娘”おさん”と茂兵衛を其々に刀探しの旅に出したが 見つからないままに数年が経ちます。当時・大経師(暦屋)は地侍の集まる所だったので 茂兵衛は此処に住み込みで働いていたが偶然、同じ店に妻としておさんが嫁に入っていた。夫・以春の浮気を懲らしめる為のストーリーは同じだが二人が互いに同郷 ・しかも許婚だったことを知って急速に通じ合うようになります。刀探しどころではなくなって 二人は郷里の丹波に駆け落ちしますが親元では、お尋ね者となった二人を匿う訳にもゆかず、おさんの森近くに小さな家を建てて住まわせるが大経師屋の密偵の知るところとなり、おさんが障子の影で咳をしたことで見つかり奉行所に逮捕されます。
おさんの森(現)

【物語のなかの大経師(経巻や書画類を表装・表具を職とする元締めだが 京都御所や江戸城の襖等の表装を任された特別職人。更に特殊な暦の編纂:大経師暦を任され刊行する)…京室町通リは京都下京区四条烏丸、…以春は浜岡権之助:”大経師暦”の独占権を京都所司代を差し置き、江戸奉行所に願い出た為 ・京都所司代の怒りを買い翌:貞享元年 (1684)大経師浜岡家は断絶している】
(「由緒を尋ねて」 昭和30年丹波新聞  を参照)

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