丹波市柏原町No1

おさんの森  茶臼山砦    

T おさんの森   柏原町下町字沖田

「浄瑠璃の古蹟ゆかしや 春の雨」 「この里に恋の茂兵衛や時鳥」
 俳人松瀬青々氏の句
近松門左衛門・生誕350年を記念して「おさん茂兵衛DEたんば実行委員会」により創作市民オペラ「おさん茂兵衛・丹波歌暦」も上演され”ふるさと丹波”を 地元からも少しずつでも見直されてきたようです。浄瑠璃・歌舞伎・映画にと上演され好評の「おさん茂兵衛」の悲恋物語は近松門左衛門の狂言「大経師昔暦」や「恋八卦柱暦」 ・井原西鶴「好色五人女・大経師おさん」の文で一躍世に知られることとなります。柏原町下町沖田のコミュニティセンタ側に「おさんの森」案内標識がありゴルフ練習場との間を南に入るとおさんの森の遺跡で小さな祠があり 「おさん茂兵衛を偲ぶ」と川口松太郎氏(近松の戯曲を映画化し、香川京子・長谷川一夫や、山本富士子主演の芝居「近松物語」で知られた)の碑も建てられています。
恩鳥坂(左丘陵上に小南山城:正面右の坂越えに柏原病院)

祠は「咳神さん」とも呼ばれ、咳や喘息に願をかけ、 肺の病の平癒を念じて”灰”を供えたり、なぜか「縁結びの神さん」としても恋の成就を願う若い人も参詣されているようです。 以前は草道の荒れた薮の中に寂しく残されていたが、 先述のイベント等で訪れる人も多くなった様です。低丘陵に沿って延びる一本の道は旧山陰道・但馬街道です。延喜式に云う山陰道は篠山市から山南町井原に出て佐治川沿いに通じていた。 篠山から鐘ヶ坂峠を越えるルートになると此処 ・おさんの森の前を抜ける但馬・山陰への街道の要衝に変わってきた。 以降のレポートは周辺整備される以前のものですが再訪(2012年12月末 )では・なにか場違いの場所に来た様な感じになった。
旧山陰道の面影残す”おさんの森”への道

石の階段・石鳥居 ・小さな祠も真新しくしかも屋根・扉・脇障子も石造り・石組みされたもの。木造りから石造り…維持管理していく御苦労もわかるのですが、遺跡周囲の以前の暗く 寂しい情景こそが戯曲 「おさん茂兵衛」にシックリと合うのに…と想うと、綺麗に整備されていることで却って”おさんの森”は、殺風景な狭い場所 :歴史を偲ぶ場所では無くなってしまった様。
「珊瑚のかんざし落ちたる古蹟かな」「山の原西日卒塔婆に野菊かな」 俳人松瀬青々氏の句
物語のヒロイン花の京都室町通りの大経師(暦屋)以春の女房おさんは、華やかな京の町でも指折りの美人女房で衆人が振り返るほどでしたが、夫は下女・お玉の容色に惹かれていた。夫に一度恥をかかせてやろうと” おさん”は或る夜、お玉の寝床と自分のとを取替え密かに夫の来るのを待っていました。行燈を消した暗闇では、 入ってきたのがお玉の恋人手代の茂兵衛である事も解らず、遂に不義の契りを結んでしまいます。身も心も消え入る程に恥じたのもあとのまつり:
”おさんの森”分岐から茶臼山砦跡 (団地)と高見山城を望む

この上は仕方がない:どうせこの世の短い命・おさんと手代茂兵衛二人は死出の旅をと、 行く先あてのない旅路を続けねばならぬ身となってしまいます。茂兵衛の郷里・丹波路を春日町船城の山田へと向う途中恩鳥坂(おんどりさか )<現:県立柏原病院と小南山西南麓を越える小峠で旧山陰道 >を此の柏原挙田の地迄逃れて来ます。茂兵衛が都を後に故郷山田を目指したが、高見城山の北山麓・挙田の遠戚を頼ったとも !・鴨野で茂兵衛の生家を知る人の家に隠れ住んだものか?。一方・夫の以春も二人が丹波路に逃げ込んだことを察知して追っ手を差し向けます。船城(氷上町石生から春日町朝日・黒井境 )方面は勿論のこと、
おさんの森(旧状)

婚姻関係も調べての探索に 身の危険を感じて柏原境の恩鳥峠(柏原病院近く)を指して遁れるが、二人は歩き疲れた上に追っ手の来る様子で森に隠れます。うずくまって鳴りを潜めていたが余りの驚きに”おさん”は息さえ苦しくなってくる。 しかしドッと喉元をかきわけて思わず咳が飛び出します。「やあ居た此処だ」追手に見つかり天和3年(1683)8月に捕らえられ9月22日京都粟田口で処刑されたとされます。下女”おたま”は茂兵衛の恋人ではなく、 二人の逢瀬を手引きした罪で斬首刑にされている。二人が捉えられたところが 「おさんの森」と呼ばれます。 有名な戯曲とは別に茂兵衛の生まれた里(春日町山田)の金川家の伝承には:大庄屋金川家の三男・茂兵衛と幸世村に郷士の妾の子・おさんは親同士が親しい関係にあって、 許婚(いいなづけ)だったという。
おさんの森(現)

あるとき、 庄屋の家に代々伝わる家宝「雨乞いの名刀」"降呼刀"を、おさんの父が借り受けますが、また貸しのまた貸しで行方が分からなくなっていた。責任を感じた親元では娘”おさん”と茂兵衛を其々に、 刀探しの旅に出したが見つからないままに数年が経ちます。当時・大経師(暦屋)は地侍の集まる所だったので 茂兵衛は此処に住み込みで働いていたが偶然、同じ店に妻としておさんが嫁に入っていた。 夫・以春の浮気を懲らしめる為の ストーリーは同じですが、二人が互いに同郷・しかも許婚だったことを知って 急速に通じ合うようになります。刀探しどころではなくなって二人は郷里の丹波に駆け落ちしますが親元では、お尋ね者となった二人を匿う訳にもゆかず、おさんの森近くに小さな家を建てて 住まわせるが大経師屋の密偵の知るところとなり、 おさんが障子の影で咳をしたことで見つかり奉行所に逮捕されます。
おさんの森(現)

【物語のなかの大経師(経巻や書画類を表装・表具を職とする元締めだが、京都御所や江戸城の襖等の表装を任された特別職人。更に特殊な暦の編纂:大経師暦を任され刊行する )…京室町通リは京都下京区四条烏丸、…以春は浜岡権之助:”大経師暦”の独占権を京都所司代を差し置き、江戸奉行所に願い出た為・京都所司代の怒りを買い翌:貞享元年 (1684)大経師浜岡家は断絶している】
(「由緒を尋ねて」 昭和30年丹波新聞  を参照)





茶臼山砦妙見山(茶臼山) Ca30m(昭和?年代に消滅)  柏原町下町字沖田

小南山から西北へと張出した低丘陵の末端が、高見山城麓の小新屋(こにや)〜萱刈峠を越えて佐治川(加古川)沿いの古・山陰但馬道が通り、 南へは井原庄・栗作郷(山南町)から篠山〜京都へ向かう山陰道や、東播磨を山陽道へと繋がる要衝の街道に先端を落としていました。南北朝期・嘉暦2年(1327)丹波守護仁木頼章が築城した丹波でも最も古い城の一つがあり、 正平9年(文和3年 1354)南朝方の足利直冬が山陰の山名時氏 ・師氏(もろうじ) 父子と組んで足利尊氏を攻める為、京都へ攻め上った道。しかし尊氏の臣:仁木頼章は高見城に籠って阻止する事もなく、 軍勢が城下を通り過ぎるのを傍観していただけという …「太平記」。古墳も点在して往古より開け歴史は深いが、日本一低い分水界が示す様に柏原川から佐治川(加古川)へ流れ出る付近は大雨の度に氾濫し、 湿地帯は穂壷城等には格好の水濠となったのでしょうが南の山側では水不足、南北に延びる高見山〜石戸山〜坊の奥への尾根と南北には小南山塊の尾根に隔てられ陽の恩恵にも恵まれなかった土地で、 沖田や挙田では陽を少しでも早く受けようと 妙見堂の建つ丘陵や他にも”陽場(ひば)”と呼ばれる所は年数回、雑木伐採や草刈りが行われているようです。
妙見堂・崖の直ぐ先に消えた茶臼山砦が有った!

この丘陵部の西方は開けて田園風景が拡がり正面には高見城山を望み、間を遮るものは何もありません。 標高30m程の丘陵部(地元では妙見山と呼ばれ)山上には妙見堂が祀られ、山中には古墳群が有って維新の頃以前にも刀剣や祭器・人骨等が発掘されていたようです。柏原工業団地が出来て、其の埋め立て用の土砂を此処から 搬出される事になり教育委員会が古墳調査した際、円筒埴輪が出土しています。調査に入る前にも刀剣も出たとの事ですが重機で粉々に押し潰されたとも聞いています。僅か2km程西北の穂壷城でも最近道路拡張工事で調査が後手にまわったが、 「xx城址」等の道路標識が国道に立っが、遺跡が有ることを知らなかった・・と残念に思われます。今は妙見山も均されて 団地やゴルフ練習場にと姿を消し、山上の妙見堂も尾根続きの南方に残る稜の先端部に移されたが、今も4月24日には例祭が執り行われています。消えた妙見山の事をご存知でも、茶臼山が城址?であった事と其の伝承は御存知の方も少ない。小さなお堂の上部から高見城を望んで此処・妙見山の”さとし”の山・茶臼山の伝承を思い起します。====織田信長の「丹波平定」命令を受け侵攻して来た明智光秀は”赤井の呼び込み戦法”等により再々失敗した丹波攻めには慎重です。篠山・氷上(今は丹波市)境界の 鐘ヶ坂に金山城を築き拠点として、周辺の諸々小城砦を攻め丹波市側の柏原八幡宮を焼き此処を本陣に 真近に最後の城主・赤井忠家の拠る高見城を攻める為、高見城に近い茶臼山に伏兵を送って監視させます。しかし一向に高見城の城兵に動きが無く 「城は空っぽの様に静まっているぞ」「威勢に圧されて黒井城へ逃げたか?」「丹波鬼とも呼ばれる此処の奴等は強いので油断は禁物…」と話し合っていたが、夜が更けるに連れて緊張の糸は緩みます。
茶臼山砦伝承地直ぐ近くの妙見堂から高見城(中央)と東鴨野城(右端)

「一寸休ませてもらうぞ、 なんせ三日三晩寝ずの番では…」「寝ていないのはお互いじゃ・交替で休もう…」交替の約束も相手の寝姿に、監視役も眠気に誘われ「敵も静かじゃ・俺一人寝ても未だ 何人も居て見てくれる…」と一人・二人と 寝転ぶと残る者も堪らず、また早く起された者も夢うつつ。平穏な城の様子に心許し、戦陣の疲れに伝令の者さえ眠ってしまいます。柏原の本陣では何の連絡も無く伝令を走らせたが 「敵情に動きはない」との返事のみ。 不図・光秀は思い立ち早々に巡視に馬を引き出した。大声を出して馬の先に駆け出す小姓を戒めて密かに茶臼山に到着した光秀を伏兵達は知らず眠りこけてた。怒りの目で睨みつけながらも兵を起さず、光秀は 「此れでは伏兵の役目は務まらぬ、今後の見せ示めに…」と”明智の旗印”を持ち帰った。眠りから覚めた兵達は殿から預かった旗印が無いので吃驚、打ち首覚悟で其の旨を本陣へ申し出ます。光秀が自ら持ち帰った事が判り、 無言の警告に心服し光秀の馬前で死ぬ事を誓い合った云い、茶臼山を”さとしの山”と呼ぶようになったという。
(「由緒を尋ねて」 昭和30年丹波新聞  を参照)

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