丹波市青垣町    神社・石仏等・伝説等

高座神社「蟻の宮」と「蚕の宮」・盃状穴・狛犬 東芦田宝筐印塔
丹波のお話:T:蟻の宮 U:東芦田の少将石(+小野小町伝説) V:胎蔵寺の霊水「方便の水」田井縄古墳

高座神社 「蟻の宮」・「蚕の宮」 青垣町東芦田

高座山高座神社は東芦田と田井縄の産土神で人皇第14代仲哀天皇【西暦200年・在位9年:日本武尊の子で此処では毘沙門天としても祀られる。皇后は三韓征伐で知られる神功皇后】が創建された社、式内大臣:武内宿禰を伴い参拝され病気平癒を祈願され 宮名を高座と名付けられたと云われ主祭神に人皇第14代:仲哀天皇を祀り山南町 高座神社(谷川)や狭宮神社(和田)共に丹波国延喜式内社【醍醐天皇の延喜5年(905)に編纂された】として氷上郡 (丹波市)十七座の一つです。
高座神社

弘仁4年(813)第52代嵯峨天皇より勅額を下賜されたと伝えられる。慶長6年(1601)には由良荘(氷上町)の別所豊後守吉治【三木城主長治の伯父重棟の子】により神燈田の寄進を受け柏原藩の後期織田家:織田出雲守 【享保年間(1722〜)なら2代目織田信朝、天明の頃(1783〜)なら織田信憑(のぶより)】による自筆扁額が奉納されている。高座谷奥の院に祀られていた宮を江戸時代初期(1661-73)寛文年中現在地に遷座され神宮寺として松音寺があったが弘化3年(1846)別当観蓮発狂に際し失火し古記・宝剣・勅額等が焼失してしまった。一ノ社は「鹿島大明神 (武甕槌之命/剣道の神いまでは交通安全も)」、 二ノ社は「香取大明神(天兒屋根之命/学問・歌 ・芸能の神)」、三ノ社に「仲哀天皇(慈愛の神)」、
高座神社「本殿:蟻の宮」と右端に 「蚕の宮」がある

四ノ社に「春日大明神(宇気母智之神/養蚕の神)」、五ノ社に「大神宮(天照大神・大日靈尊/農業の神」の五社を祀り高座五座・高座五社明神」とされます。高座神社の石大鳥居傍に在る”蟻の宮と蚕の宮”石碑からは、養蚕と土木工事をこの地に広めた阿利氏(秦氏と婚姻を結んでその技術を伝授される)を称え奉ったのではないかと云われている。此処に伝わる伝承の蟻の宮の発祥地 高座神社本殿は別名「蟻の宮」と呼ばれ、ある旱魃の年・蟻に清水の場所を教えてもらい滾々と湧き出す清水に、村の田は潤ったという《下記:丹波のお話》伝承があります。また本殿右手に在る境内社の馬鳴(めみょう)神社は「蚕の宮」と呼ばれます。豊かな生活を求めて神社に参拝し、此の地に安定した産業がないものかと「願籠もり」していた村人の夢枕に立った宇気母智之神(養蚕の神)の 「養蚕をやれば此の地は栄えるであろう…」との神託を受けて村の代表が信州上田(長野県)から蚕の種を持ち帰ります。
盃状穴が幾つも穿かれた踏み石

丹波市での養蚕始まりは東芦田が最初なのは蚕の飼育に適していたようで近隣には無い立派な繭が獲れおおいに栄え、丹波から丹後・但馬へと養蚕技術を広め地域の産業発展に貢献してきたが絹や化学繊維の開発進出によって衰退していく。青垣町佐治は但馬境に接する旧佐治郷の宿場町だったところで、市が開かれ物資の集散地として特産の丹波布や佐治つむぎ・和紙・養蚕も盛んだったところ。明治期の製糸業で隆盛を極めた頃の商家の建物が多く残る。道の駅あおがき「丹波布の伝承館」では研修も行われています。廃れた養蚕業の面影は青垣町住民センターに移築され 青垣町歴史資料館となっている養蚕民家旧朝倉家住宅(江戸時代中期〜)に其の生活の一端を窺えるだけです。
高座神社:吽形狛犬の手にぶら下る天邪鬼?

蚕の神様である馬鳴(めみょう)神社 「蚕の宮」から山へ向かう道があり案内板が立てられており「神山この上の山は今から1400年程前この地に住む人等が山ノ神信仰により お祭りをしていた霊験あらたかな神山であることが、この山より出た土器によって分かった[昭和55年9月…]とある。出土した土器が何だったかは知らないが神山(高座山)から吼子尾山に続く丘陵尾根には高座神社裏古墳のマウンドが数基残される。此の尾根続きには胎蔵寺から 整備中?の登山道と合流する尾根上は直ぐ小室城の西曲輪群に着き、露岩帯の堀切を越えて吼子尾(くずお)山へと通じるが神域通過は不敬にあたりそうで登山コースには無理っぽいですね?。
ユーモラスな中にも迫力のある阿形狛犬

馬鳴神社:聞き慣れない名は中国の伝説にあります。長者の飼っていた馬が長者の娘を好きになり、怒った長者が此の馬を殺して皮を剥ぎ枝に吊るしておいたところ、その皮が娘を包みこんで天に昇ってしまったと云う。この馬と娘の霊が蚕となって、天から降ってきたという物語の蚕神です。高座神社の本殿 ・社務所に向う石段参道前に注連縄飾りの石鳥居が建つ。蟻の宮・蚕の宮の石碑も注目ですが鳥居前と駐車場の間の小公園にも石碑(句碑)が建てられています。「でで虫が 桑で吹かるる秋の風」 青垣町東芦田出身の俳人細見綾子(1907-97)の句碑です。子供の頃の遊び場で「xxの宮」を意識されたものか?蟻についても社殿周りの床下に見る「蟻地獄」を読んだ俳句もあるようです。信仰の証「盃状穴」=高座神社の本殿・社務所に向う参道の分岐(踊り場)からの石垣や足下の石段に注目です。御神徳を仰ぎ 「蟻の宮・蚕の宮」として崇められてきました。人々が悩み・苦しいとき神社に参拝し、祈り願を掛けますがその折・手水鉢や燈篭の台石・階段の踏み石等にノミで穴をあけて祈ったと云われ、また其の穴に油を注ぎ祈ったとも…其の証が今も盃状穴として残っており 判り易い様に赤くマーキングされているものもあります。
吽形狛犬の尾にぶら下る天邪鬼?

高座神社の狛犬 石段を登りきると正面に高座神社本殿「蟻の宮」が建つ。社殿の前には対の守護獣神:阿吽の狛犬像が建つが頭デッカチなユニークなもの。 阿像は玉を、吽像は子供を動(あや)しているのか?天邪鬼を押さえつけるいるかよく判らない。多分此れは天邪鬼でしょう?。吽像の背後に廻ると、その尻尾に戯れつく二匹?の天邪鬼!!は蟻や蚕に感謝する人々の信仰心によって、人の子として生まれ変わり・喜びはしゃぐ姿のなのかも知れません…?狛犬像は独特の個性があり迫力と・其のユニークさ・笑いを誘うユーモラスさからは、なんとも素朴な天邪鬼は人の子の様に思えてきます。
製作者名が大き過ぎる。綿貫の弟子:森田藤四郎の作品なのかも

狛犬の台座後面には伝説の名工丹波佐吉の弟子という綿貫重吉の銘が刻まれる。未だ他の狛犬等作品や綿貫作品の作風(特徴等)を知らないが大正年間初め頃の作品なら綿貫の銘はあっても綿貫の弟子:森田藤四郎(山南町谷川の森田石材店初代)の作品なのかもしれません。
(現地:高座神社由緒 案内板及び[東芦田の思い出を語る・先心会]を参照)

東芦田宝筐印塔   丹波市青垣町東芦田

県道7号(丹波の森街道・青垣柏原線)を北上していくと左手に沼城のある丘陵東端を廻り込む。並走する北近畿自動車道が此の丘陵突端部をトンネルで抜ける所が氷上・青垣の町境で県道7号線から 県道109号線に入って佐治川(現:加古川)を渡ると芦田川沿いに東芦田地区を抜け、穴裏峠を越え京都府福知山市側に抜ける。車で楽に越せる穴裏峠ですが 旧道は別に有り其の名が示す尻の穴が見えるほど!?…先行く人の尻に頭がつかえる程に急斜な厳しい峠越えの道だが福知山側の榎原から和久川沿いR429号には古くからの城砦群が点在する丹波・但馬を結ぶ旧丹後街道の要衝。
東芦田宝筐印塔

村おこしで宿泊・豆腐作り体験が出来る都市農村交流施設として大きな五右衛門窯(寒天造りに使用されていた)の大きな看板が目印の 「ごりんかん」が建つ東芦田五輪ヶ端には「ごりんさん」の名で親しまれ、五輪塔として誤り伝えられてきた東芦田宝筐印塔【町指定文化財】が丘陵末端の岩場の上に建っているのが車道から見えます。宝筐印塔は相輪上部の請花・宝珠部を欠損しているが 鎌倉期の古い形式!!をよく残しており各部の彫刻も深く丁寧に仕上げられている。「丹波志」に矢塚とされているが…その形式や造形姿勢等を考察すれば平安時代中期:保元3年(1158)信濃国芦田邑(長野県立科町)から来住し小室城に拠り丹波押領使として大いに勢力を振るい一族は丹波・丹後・但馬・山城国にまで発展した芦田氏の祖:芦田判官家光(家満)を祀ったものと思われる。【一説に清和源氏頼季流とする荻野氏・赤井氏は芦田氏から分かれた一族とする略系図によると頼季の子・満実の三男井上判官(芦田五郎大炊助)家光が信州信濃・芦田庄小室から来住し、姓を芦田と改め芦田氏の祖となったとされます。
東芦田宝筐印塔

其の後:黒井城を本拠城として覇勢を奮った荻野・赤井氏と芦田氏との一族としての共同軍事行動等接点は不明。 足立氏とは小さな小競り合いは有っても狭い領地を接して慎ましく暮らしていた!?芦田氏ですが、三好氏に唆されたかたちではあっても、香良合戦による赤井 ・荻野氏との死闘からは、長年の怨恨があったとも思えず同族・一族とは思えないのですが!?】
従って其の建立年代も芦田氏全盛期の1200〜1360年代の頃と推察されていますので隅飾の優美な反りからは南北朝期に入ってからのものでしょうか?。西芦田には県指定文化財となっている南北朝期のものとされる 栗栖野宝筐印塔があります。
(現地:東芦田宝筐印塔 案内板  平成11年10月1日 自治会? を参照)


田井縄古墳     丹波市青垣町田井縄

氷上盆地の西に連なる白山・弘浪山・安全山の丘陵裾部を通る県道109号線が盆地の東を丘陵に沿って 県道7号 (丹波の森街道・青垣柏原線)が走り、県道の合流地点から約1.5km北上すると氷上町と青垣町境。此処で穴裏峠を越え福知山市に向う 県道109号に入ると 田園風景の拡がる中・直線道路の先に東芦田の集落が左手の山裾に点在するのが田井縄の集落です。
田井縄古墳・天井石2枚

田井縄と東芦田の間にポツンと芦田保育園・xx工場・高座神社が間を置いて並んでいます。「田井縄」の地名からは高座神社蟻の宮の伝承との関わりを強く感じます。東芦田から田井縄にかけて拡がる田園地帯と田井《川の水を堰き止めたり、貯水池からの水を引き込んで農業用水とする為に縄を張って疎水の土木工事を進め指導したと思われる阿利氏の伝説が重なります。高座神社に寄った際、探し訪ねてみました。 山裾沿いに延びる側溝と田圃との間の農道沿いに工場前を保育所手前まで進み、山に入っていく鹿猪避けフエンスの ゲートを開閉してフエンス沿いに進むとフエンスの外側・山側と田圃の段差?の藪の中に、封土はなく天井石2枚が露出している小型の古墳があり県埋蔵文化財行政地区文化財分布図によると径6.2m・高さ1.1m・西に開口した円墳の玄室部(約2.5m程)の天井石・側壁の石材が残存するようです。
開口部は頭を地面に擦り付けてヤッと内部が!!?

石室内部も殆ど埋まり開口部の隙間は20cmもない。羨道部等石材は抜かれたものか?・埋もれてしまっているのか? 専門的な調査報告書は有るのでしょうが!!個人的に調べるには青垣町史か県立図書館にしか蔵書がないが氷上郡埋蔵文化財分布調査書「青垣町」でも閲覧して築造時期(古墳時代後期?)や規模等データの正確性を期したいと思います。


T「蟻の宮」
U東芦田の少将石



T蟻の宮(高座神社)    青垣町東芦田

高座神社は別名「蟻の宮」とも呼ばれる。伝承によると文武天皇の慶雲3年(紀元1366 706年)田植えも無事に終えた其の夏。一滴の雨も降らず・日照りが続いて大旱魃となった。雨が降らなければ稲は枯れ・米の収穫がなければ食べてはいけず・人の力では如何する事も出来ず神様にお願いするしか他に良い思案もなく村人は高座宮に七日籠もって雨乞い祈願を行なった。
高座神社本殿「蟻の宮」

田の様子が気になり心配して見に出たところ足下に蟻の大群が一筋の黒い筋となって高座神社の方に向っており、其れを追い伝っていくと岩の塚付近の窪みで蟻の姿が見えなくなります。此の神霊「神の導き」に相違ない…村人達は蟻が姿を消した窪地辺りを掘ってみると、其処からは滾々と清水が湧き出してきた。此の水を田に引く為・蟻が長く連なっていた線を掘って溝として【田井縄を東に流れる井根溝が此の由緒とされる川だとされます】田に注ぎ込むと 見る間に稲は元気を取り戻して稔りの秋を迎えました。村人達は此の不思議な出来事に感謝して蟻たちが姿を消したところに塚を建て「蟻塚」と呼んで祀った「高座の宮」は蟻の徳を称えて「蟻の宮」と呼ばれ今日でも水路には水神様の祠を建て祀られている。丹波市の中でも青垣町の東芦田は指導者と地区民の協力があって以前から際立って地区の文化・歴史を伝え地元活性化の活動が精力的に行われています。
石大鳥居傍に建つ「蟻の宮」石碑

式内社・高座神社の石碑に「蟻の宮」と「蚕の宮」とも名を掲げてあるのは今は廃れたとはいえ 養蚕と土木技術を此の地に伝え広めたのは阿利氏(秦氏とは婚姻関係にあり、共に其の技術を伝えた!!)を称え祀ったといわれ阿利氏が蟻の伝説となったものか?…此の伝承は「丹波のむかしばなし」(丹波むかしばなし編集委員会/丹波の森協会発行)に蟻の案内によって 水の湧く池が発見され、田に水を引く為のもっと水が出るよう蝋燭を立て祈ると。蝋燭のロウが解けて池に流れ込み「白龍」となって天に昇り、大雨を降らせます。しかし大雨で蟻は流され・村人達は死んだ蟻達を哀れみ、池の近くに「蟻塚」を建てたと… また此れの宮の砂を頂いて、蟻の道に捲いておくと蟻は砂捲かれた場所を避けて通ると云われます…と紹介されています。

(現地:高座神社 由緒 案内板及び [東芦田の思い出を語る・先心会]を参照)


U 東芦田の少将石

福知山市小野脇の里に平安時代初期:絶世の美人で知られる小野小町が居を構えていました。深草の少将はその小野の小町に思いを寄せて…同様の話が伝わる。小野の里小町伝説では、闘病による逗留なので全国に類似する伝説は伝説として…こんなお話しがある。福知山との国境・穴の裏峠を越えて女性に逢うために通う武士がおり「芦田(葦田)の少将」「東芦田の殿様」と呼ばれていた。武術に優れ和歌をたしなみ横笛も 得意だったそうです。
東芦田城(小室城)主郭(吼子尾山)からクロイシ山・や五台山(中央)を望む

大雨の降ったある日、その女性の家近くで 川は大水であふれ、一つしかない橋も流されて向う岸へ渡れず残念に思いながら引き返し穴の裏峠まで帰ってきて道端の大石に腰をおとし、供の者には先に帰し横笛を取り出し静かに吹き始めます。穴裏峠寄りの東芦田集落内に大銀杏と中が洞になったムクの木が一際目をひくその下に、小さな祠の少将明神があり今は芦田の氏神としてささやかに祀られていますが、小野小町に思いをかけて99夜の通い路も空しく、哀れこの地で一命を絶ったという 深草少将を祀るる社です。ここから少し登って山路に差し掛かる頃左手に苔むした道標(左ふくちやまみち)が淋しく伝えています。行き交う人の目を避けてこっそり通った少将の姿が目に浮かぶようである。水の滴るような黒髪がなで肩に動く小町の書院から微かに聞こえる物書く衣擦れの音をすだれ越しに覗き見る男。面やつれはしているが何処と無く気品のある風采、それは一目見て賤しい男ではない事は分かる。ひとつ大きな溜息をついた彼はしょんぼりと辺りを見回し、又食い入る様に美女の物書く姿を盗み見ていたが、やがてあきらめたかヨロヨロと夜のとばりに消えて行く、打ちひしがれたように優男は流れ豊かな土師川の橋にもたれて 行く川の水を眺め深い思いに耽けっていた。「あゝ明日は九十九日目、もう二日で百日も通う」人通りのない穴裏峠を登り芦谷のはずれまで降りた彼は肌を伝わる油汗をぬぐい流れる山水をすくっては飲みなれた冷水で熱を冷やし。
東芦田の少将明神社

人目をはばかりながらダラダラ坂を村へ下り何処とも無く消えていった。「明日は満願」少将は一人つぶやきながら穴裏峠にさしかかった。 百度踏めば神様でも望みを叶えてくださる。よし今日は人間として最後の努力をする日だ」峠を登る少将の足は浮き足だっていた。「小町よ今日こそは我が恋を聞き入れてくれ、身を焼くこの思いを我が身は如何になろうとも…若し聞き入れてくれなければ…いやそんな事はない、今日かそれとも明日か」小町の住む小野に程近くなった頃、少将はハッと驚いて立ち止まった。月の光をすかして見る行く手の橋が見えない「アッない、畜生!橋が落ちている」人目を偲んで恋路を通う少将を嫉み何者かが橋を切り落としたのである。今となっては仕方がない。三日月に送られ夜風の中を再び穴裏峠へと引返す 少将の後姿は神々しいまでに美しいものであった。大石にどっかりと腰を下ろし、おもむろに人間深草少将の過去を悔いて世を去ったという。
小室城本丸南面の石垣


人知れず全生命を打ち込んだ恋に身を焦がし、人知れずこの世を去った少将の哀れな物語は伏見の里にあり、此処丹波にもあって真偽は明らかではないが少将の書いた古書も有ったといわれ、少将石と書き付けた木札を雑木が取り巻いて哀れをそそっている。この少将様が東芦田(小室)城主・芦田八郎金猶(かねなお)であったといわれます。なを東芦田には「少将の腹切り石」もあるが瑞雲寺にある城主:芦田金猶の戒名には身体が二つに分かれた意味を示す符合があり、 小室城の城攻めに討死したか逃れた後に首だけが持ち帰られ供養されたものか?。芦田(深草)少将は平氏一門の公卿で丹波国司であったとされ、芦田四位少将として少将社に祀られているそうです!!。


小野小町と薬師堂
  福知山市小野脇
 
R9号福知山市を土師川沿い走っていると三和町・上六人部付近で百人一首の絵札(読み札)の看板を見る。「大江山いく野の道の遠ければ まだ文もみず 天の橋立」小式部内侍の詠んだ生野の里で中丹波・北丹波では小式部内侍の母で情熱家?の和泉式部の伝説・伝承地が多いが、こちらも小倉百人一首の「花の色は移りにけりないたずらに わが身世にふる ながめせしまに」で知られた平安時代初期の女流歌人で六歌仙の一人・ 絶世の美人と謳われた小野小町だが後姿しかまだ拝んだことがない!。夜目・遠目・傘の内部類の美人だったのか?、顔を見せない事の神秘性と空想で・見る人ごとの美人に対する規準と先入観で想像を描き立て惹き立たせたものか?。 「…わが身世にふるながめせしまに」の下の句が示す様に、老いた醜顔を見せられないのかも…。全国諸々の小野の里や墓所・歌碑等…数々の伝承・伝説が残されているが知名度の低い伝承地。小町終焉の地は京丹後市大宮【乙姫・羽衣・細川がラシャ等丹後七姫伝説の 一として挙げられています】とすれば、この話は其の旅の途中だったか?。丹波紅葉三山及び足利尊氏ゆかりの石龕寺には小野道風(小町の従兄!!)の書と伝わる寺の扁額<県指定 昭和44年.3月>がある。東芦田の少将伝説を時代考証 ・年齢等の現実性を無視して関連付けてみると、内容を一にする同様の伝説が他にもあって面白い。小町伝説は薬師信仰・宗教活動の一環なのかも…。丹波市から穴裏峠を越えR429号に出る手前、榎原から小野脇〜正明寺を経てR9号の篠尾へ静かな明るい田園里山を抜ける地区道があり小野脇に百人一首の読み札(絵札)看板を見る。旅の途中で病にかかり顔は赤く腫れ上がり・手も痛々しく、瘡蓋(かさぶた)が出来・哀れな姿でこの地に迷い込んできた女の姿に一夜の宿をと・泊めてくれる家はありません。
薬師堂前の湯浴み池:溝の色からも有馬温泉の金泉を連想する!!?

しかし 親切な村人から薬師堂に泊るよう教えられ、人目を避け村外れにある”湯の谷”の出湯で身を洗い療養していました。「みびらけば 法の声する正明寺 物さびしきは小野脇の里」和歌を詠み此れを聞いた村人は、ただの旅人ではないことを感じていました。薬師堂に籠もり・出湯に浸り・毎日薬師如来に祈ったが、なかなか治らず
「南無薬師 頼む施療の願なれば 身より薬師の名こそ惜しけれ」 (どんな病気でも治して下さるとの教えを信じての願掛けに、 治らなければ薬師如来の教えなのに残念です)と御願すると、薬師様が夢枕に立たれ「村雨は ただ一時のものぞかし 己が みのかさ そっと脱げ置け」(瘡と笠を掛けた言葉か…笠も村雨(通り雨)も一時のもので、いつまでも降り続かないので此処で脱ぎ捨てていけ)と諭されたと云う【薬師如来像は”歌かけ薬師”として市内久昌寺に祀られる】。女は諭の通り出湯に浸り、養生を続けるうち・日に日に瘡蓋はとれ 元の美しい姿になりました。
小野小町伝説ゆかりの薬師堂

近くの池【今安の小町神社(毎年:小町が旅立ったとされる4月18日祭礼・小町まつりが行われる)】で顔を映した女は喜びと感謝で一杯になりました。別れの際・村人にせめて名前だけでもと強くせがまれ、長い間の温情に昔・都の御所に仕えた小野小町で山陰に人を訪ねての帰路に病に罹り、お世話になったと語り別れを惜しみつつ旅立って行きました…。
(現地:小野薬師堂の案内板を参照)


V 胎蔵寺の霊水「方便の水」

養老2年(718)天笠から来朝した法道仙人は仏法有縁の勝地を求めて巡歴しつつ丹波・東芦田のこの地へ来て、秀麗な山河を愛でつつ村の中ほどにある小山に登り、その山の尾辺りでしきりに鳴く赤子の声を耳にした。仙人は不審に思い耳を澄ましていたがやがて、その声のする方へと足を運んだ。泣き声はたしかに土の中から聞こえている。仙人が土を掘ると中から現れたのは金色に輝く一寸八分の薬師の黄金像でした。この地こそ法域の地と定め仙人は、
旧胎蔵寺本堂始め多くの壮大な石垣遺構が残る

この山を開き伽藍を建て本尊薬師如来の胎中にこの金像を納(蔵)めました。また仙人が始めてこの山に登った時、坂の途中にある岩の窪みに水が湧いているのを見て、この水を口に含んで「ああ此れこそ本尊医王の霊水である」と絶叫したといいます。山を開き寺を建てこの水を衆生に施したところ諸病ことごとく平癒し 救いの水の名は近在へ知れ渡りました。今なをどんな旱魃の時でもその岩上には水を湛えていて、これを「方便水」と呼んで今もこの水を神秘視して戴く者が絶えないと言う。こうして吼子尾山胎蔵寺は法燈いよいよ隆盛を極め全山の諸堂坊舎40余りを数え皇室を始め武将の尊崇も深く寺領を賜って門前は賑わったが文安、天正及び元禄16年と三回にわたる火災によって綸旨、寄付状等失うものも多かったが本尊は災禍を免れて今も安置されています。
霊水「方便水」

寺運衰退甚だしく現在僅かに本堂、庫裡を残すのみとなって諸記録・什宝等往時の偲ぶものは殆ど無いが僅かに残された文書目録によると中世の丹波守護・細川政元を始め武将の帰依するもの多く元和7年(1621)25石の 寄進状からみても藩制時代にもその勢い盛んだったことが偲ばれます。本尊・薬師如来が「みごもり薬師 (胎内仏を持つ)」なので「方便の水」によって 諸病を免れ併せて安産を祈願する参詣人が今もなを跡をたたない。


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